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村田武の『現代の「論争書」で読み解くキーワード』

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第8回 「直接支払い」

オックスファム・インターナショナル 『補助金にスポットライト』

◆「直接支払い」とは何か  農業保護制度のなかに個々の経営に対する補助金の「直接...

◆「直接支払い」とは何か

 農業保護制度のなかに個々の経営に対する補助金の「直接支払い」が本格的に導入されたのは、EU(欧州連合)において、1975年に、農山村など条件不利地域に対する平衡給付金の支払いが開始されたのが始まりです。そしてこれとほぼ同時期に、ドイツ南部のバイエルン州やバーデン・ヴュルテンベルク州のように、中小農民経営が多い条件不利地域で、州独自の農地や農村景観の保全に対する「農村環境直接支払い」が導入されることになりました。それはマンスホルト・プランというEUレベルでの農業構造政策のもとでは、農山村の農業経営の解体と農地・農村景観の破壊が避けがたいという危機感が生み出したものでした。このような対策は、その後EU加盟国それぞれの環境適合型農業を助成する特別対策へ、そして共通農業政策(CAP)のなかで農村開発・農業環境政策を強化する動きにつながりました。EU当局は、予算をこの農村開発・農業環境政策分野の直接支払いにさらに向けようとしています。
 ところがこのような条件不利地域対策や農村環境対策としての直接支払いとは別に、WTO対応の農政転換として、農産物価格支持に替わる直接支払いが1990年代に導入されることになります。それが「1992年CAP改革」(EU農業委員会委員長の名を取って「マクシャーリ改革」ともいいます)によって農産物価格支持水準を引下げる代わりに、下がった農業所得分を個々の農業経営に補償するというものでした。これは、アメリカ政府が、ウルグアイ・ラウンド農業交渉で、EUに対して農産物価格支持政策の削減(デカップリング)を内容とする「国内農業助成の削減」を要求したことが背景にあります。同時に、EU側にはアメリカからの国内農業支持削減要求を外圧として利用したい事情がありました。というのも、CAPの域内農業優先政策のもとで、牛乳そして穀物に過剰生産が広がり、それを買取り価格よりも安値で域外に輸出する貿易会社に対する輸出払戻金(つまり輸出補助金)が膨らんで、CAP財政が苦しくなったからです。また牛乳の生産抑制(1984年に生乳生産割当制度を開始しています)や全般的な価格支持抑制にともなう農産物市場価格の下落のもとで、80年代には中小農家の離農が進みます。条件不利地域や僻地での過疎・高齢化など農村社会問題も深刻化しました。同時に、それまでの農産物市場価格を支えることを中心にした農業保護のあり方についての社会的批判や、制度の効率性への疑問が噴出していました。この間の農業構造の変化、つまり中小農家の離農が進み、大規模農業経営の生産シェアが高まるなかで、価格支持財政支出の80%がわずか20%の大規模経営を潤すといった事態が広く知られることになったからです。
 「1992年CAP改革」は、CAPの介入価格制度は維持しつつも、穀物価格支持水準を国際価格にまで引き下げ、それにともなう農業所得の減少を過去の単収をもとに生産者に直接補償支払いするというものでした。EU委員会は、この「価格引下げ補償支払い」を、UR農業合意では「デカップリングへの過渡的政策」としての「暫定的な削減対象外」(青)とさせることに成功しました。
 その後、EUは価格支持水準をさらに引下げ、それに対する補償支払いは100%補償ではなく50%補償に留め、2005年に始まった改革では、直接支払い全体を作目別生産高ベースから切り離し、つまり生産からデカップルし、「単一支払い」に転換するなどに踏み出しています。その際に「クロス・コンプライアンス」、すなわち直接支払いの受給には消費者・環境・動物保護の分野での最低基準の遵守を義務づけることや、「モデュレーション」といいますが、農村開発予算を大きくするために直接支払いの支給額を逓減させるなどの試みに着手しています。ただし、この単一支払いの支給は2013年までと期限つきです。

◆「イギリスにおけるCAPのもとでの穀物不公正」

 イギリスのオックスフォードを本拠地とするNGO「オックスファム」(Oxfam)は、途上国支援では世界最大ともいえるNGOですが、EUの農政が消費者だけでなく途上国農業にも大きな影響を与えるとしてCAP批判に熱心です。
 ここでとりあげるのは、その報告書『補助金にスポットライト・イギリスにおけるCAPのもとでの穀物不公正』(2004年刊)です。オックスファムのホームページにアクセスすると英文で読めます。この報告書が注目されるのは、イギリスの農業構造が、貴族層の「封建的な土地所有」が残り、それを土台にした大農場が存在するというEU諸国のなかでは特異な存在であって、直接支払いの実態が露骨に浮かび上がるからです。
 報告書では、CAPの所得補償直接支払いは、イギリスではもっとも豊かな農業経営者や最大規模の地主に補助金を注ぎ込んでいるとします。EU加盟国のなかにはCAPは弱小農民を守っていると主張する国もないわけではないが、イギリスの場合には、穀物農業に注目すると、それとはまったく逆に、社会福祉に逆行する事態があるといいます。
 その証拠として示されるのが、2003年のイングランドの農場総数4万9221経営のうち、経営規模が1000haを超える大規模経営224経営(4.6%)が得る直接支払いです。個々の経営への支払額は公開されていなかったので、オックスファムが推計したところ、1ha当たり255ポンド(1ポンドは約200円)ということで、50ha未満の小経営の1農場当たりでは3600ポンド(約72万円)です。これでは、イギリス全土で苦境に陥っている小農業者を救えません。
 他方で、1千ha以上で裕福な大経営では21万1000ポンド(約4200万円)もの支払額になりました。オックスファムは、イングランドに224経営ある1000ha以上経営を「224クラブ」と皮肉っていますが、そのなかでも最大で2000haを超える「デューク公爵」農場の受給額は何と38万2000ポンド(約7600万円)です。これは1日当たりでは約1050ポンド(21万円)になります。オックスファムは、これを看護士の平均日給46ポンド(9200円)や全国最低賃金(1日)36ポンド(7200円)、国民年金(1日)12ポンド(2400円)と比較しています。そしてその差の巨大さは社会的に「アンフェア」だと主張しているのです。
 所得補償直接支払い後のイングランドにおける農地の借地料は、1.5倍もの上昇になっています。借地料上昇で最大の恩恵をこうむっているのが、イギリス最大の農地所有者、すなわち王室であることについても報告書は言及しています。そのひとつであるランカスター領地(12万ha)からは、エリザベス女王に年間600万ポンド(1200億円)もの借地料が支払われているというのです。
 地主(土地所有貴族Landlords)に恩恵をもたらす直接支払いは、「ほとんど封建的ともいうべき支払制度の創出」でないかというオックスファムの指弾にはことばもありません。
 EUの現在の価格引下げ補償直接支払いが、「社会的に不公正」だという批判にさらされていることを知るべきだというのが私の言いたいことです。
 さらに私たちが知っておくべきは、EUのこのようなWTO対応デカップリング型直接支払いは、農業構造が大きく変化したために、支給対象の農業経営数が大幅に減少しており、支給に要する事務や経費が価格支持政策に比べてそれほど大きくないという事情です。そして、何よりもそれはEUにおける農業保護水準引下げの手段であるということ。加えて、農産物過剰が基本問題であり続けているEU域内の農産物供給は、この程度の農業保護水準引下げでは、供給不安や食料安全保障問題にはつながらないのです。だからこそ、EU当局が農業保護水準を引き下げ、農業者には期限を限って所得低下を直接支払いで補償するという選択が政治的に可能であったということです。

【著者】村田武

(2008.07.10)