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「里山の真実」

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第2回 江戸時代は森林が衰退した時代

太田猛彦 東京農業大学教授

 里山に興味を持つ読者なら、かつて茅場(かやば)や秣場(まぐさば)と呼ばれた採草...

 里山に興味を持つ読者なら、かつて茅場(かやば)や秣場(まぐさば)と呼ばれた採草地、すなわち屋根を葺く茅や田畑に敷きこむ肥料(刈敷)や牛馬の飼料、あるいは燃料にする芝を採取する草地が、里山の半分近くを占める地域があったことをご存知だろう。農民が共同で管理したといわれる「入会地」の大部分は潅木や時にはアカマツの点在するこうした草地であったことを知る読者もあろう。したがって、里山が豊かな森でなかったことはある程度は知られている。
 しかしながら、本来の鬱閉(うっぺい)した森とは異なる樹木や草本、そこを訪れる昆虫や鳥類が形成する豊かな里山生態系が現代人の関心を引き、さらに生物多様性の保全の重要性が知られるようになって、あるいはそこに「協働」が実践された場としての入会地の意義も加わって、里山は自然共生社会を構成する重要な要素として考えられて、あたかも理想の森のように宣伝されている節もある。
 しかし実際は、樹木の貧弱な山の宿命である土砂災害や下流河川での洪水氾濫が頻発したほか、里山そのものも限界まで疲弊し、農民の生活を困窮させた事実が忘れられていると思われる。そのあたりを森林の視点から検証してみたい。
 図は過去2000年間の日本の植生・土地利用の変遷を示している。太い実線が公称の森林面積率の変化であるが、現在までの2、300年にわたって国土の3分の2ほどで、大きく変化していない。しかし、100年前、森林の外側に荒廃山地が10%強、森林の中にも採草地・焼畑等が10%以上含まれている。すなわちこの図は、かつて日本の豊かな森林は国土の半分近くまで減少したことを示している 。

里山の真実・図

 実は森林の衰退は古代国家の成立とともに始まっていた。11世紀には京都に近い滋賀県田上山にマツも衰退した「はげ山」が広がっていた。そして17世紀中葉以降ははげ山は全国に広がり、「治山治水」を叫ぶ熊沢蕃山ら儒学者の言動が目立つようになる。伐採ばかりか木の根の掘り取りまで禁じた「諸国山川掟」は1666年に発布されている。これらは江戸時代になって森林、特に里山の森林が急速に衰退し山地の荒廃が激化した証拠であり、「江戸時代は森林が衰退した時代」と言えるのである。その時代の里山の状態を示したのが、本シリーズ第1回の絵図であり、その状態がつい50年前まで続いていたことを第1回の写真が物語っている。
 ところがいま、全国、どこを見回してもはげ山は一個所もない。日本は400年ぶりの“豊かな”森に満ちている。世界の森林が減少していく中で、日本は「森林大国」なのである。

【著者】太田猛彦 東京農業大学教授

(2008.02.08)