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「里山の真実」

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第3回 日本人は稲作農耕"森林"民族

太田猛彦 東京農業大学教授

平尾村絵地図(1684年)・『山城町史本文編』山城町役場(上記の図表をクリック...

平尾村絵地図(1684年)・『山城町史本文編』山城町役場
平尾村絵地図(1684年)
・『山城町史本文編』山城町役場
(上記の図表をクリックすると別窓で拡大表示されます)

  日本人は数千年にわたって森林に頼って生活してきた。縄文時代末期〜弥生時代以降、食料は稲作を中心とする“農業”に依存するようになったが、その後も日常的に使える資源は木と土と石であり、加工の容易な木材は建築材料、舟の材料、道具の材料などとして使われるとともに、燃料としても薪や粗朶や炭として大量に使用された(土や石は燃料には使えない!)。
 その農業も、いわゆる里地里山システムのもとで営まれており、稲作ばかりか家畜の飼育も里山農用林に支えられていた。例えば、近世前期に愛知県三河地方で著された農書「百姓伝記」には、当時の理想の村里「宝土」の立地条件として、田畑が豊富で広い村里であること、土壌が豊かであることに次いで、村里の東西南北を野山が囲み、飼料の馬草や燃料の薪が得られること、野山の麓に耕地にそそぐ水が豊かにあることなどを挙げている(表参照)。また、養分に乏しい武蔵野の関東ローム台地上の農業が、ムラやノラを取り囲むヤマの農用林の活用によって成り立っていたことは有名である。
 このように、人口の大半が農民であった江戸時代、私たちの祖先は里山に囲まれた里地で暮らしていたが、木材だけでなく、肥料や飼料としての生葉(刈敷用)・落葉・下草も含めて、資源のほとんどは森林資源だった。縄文時代に“森の人”であった日本人は、稲作が伝来した後も「稲作農耕“森林”民族」だったのである。
 しかるに、その頃の実際の里山はどんな状況であっただろうか。前回の植生の変遷図によれば、森林が急激に衰退したのは戦国時代〜江戸時代初期である。その背景にはこの期間に日本の人口が3倍増した事実があった。戦国大名に続き江戸時代の各藩も農地の開墾を進め、社会は発展したが、同時に人口も増加した。そして、資源もエネルギーも森林に依存する社会での人口増加は持続可能な森林の利用を困難にし、森林―集落―水田物質循環系は崩壊していったのである。製鉄、製塩、製陶などの産業が発達した地方では、そのための燃料材の採取もあって、なおさらであった。江戸時代後期に日本の人口が3000万人ほどで頭打ちとなったのは、打ち続く飢饉とともに森林資源の枯渇にその一因があったと筆者は推測している。
 その時の里地里山の状況は第1回の絵図のほか、よく引用される京都府山城町の旧平尾村絵地図に示されている。奈良や京都に近いこの地方では早くから開発が進み、典型的な里山・里地・里川システムが成立していたが、木津川右岸に流入する北山川、なるこ川の上流部一帯は草山とはげ山である。よく見ると川は砂川で天井川となっており、里山の荒廃は激しかったと見られる。これでは農民の生活は相当に苦しかったと思われる。
 里山の乏しい森林・草地資源をどう利用するか、貴重な水をどう分配するか…人びとは生きるために入会のルールや現在の慣行水利権につながる水利用のルールを編み出したのである。

農書「百姓伝記」(1680年代前半、全15巻)に見る“宝土”
1 田畑が豊富で四、五十町歩もある広い村里であること。
2 土質が重くて良いこと。
3 村里の東西南北を野山が囲み、飼料の馬草や燃料の薪が得られること。
4 野山の麓に耕地にそそぐ水が豊にあること。百姓の家屋敷の下水は、低いところにある田に流しいれる。家宅の位置を考え、一滴の使用水も無駄にしない。
5 田や畑へ通う道は広くつける。田畑を大きく区画して畦や境に空地がないようにする。
6 人の多い村里は人糞尿も多いので土が肥え、田螺や泥鰌も増える。
7 村里が魚類や塩草を入手することができる海に近いこと。
8 いろいろな所用を足し、"不浄"(人糞尿)を得ることのできる"繁盛の地"(町方)に近いこと。
     日本の歴史(朝日新聞社、1987)より
【著者】太田猛彦 東京農業大学教授

(2008.03.05)