かつて深い原生の森で覆われていた里山は、数千年以上にわたる縄文人の営みによって、さらにその後の稲作農耕日本人の営みによって、クヌギやコナラなどの落葉広葉樹の二次林に代表される「里山の森」に変わっていった。里山生態系の成立である。
里山では、薪炭林などで15〜30年の短い周期で樹木が伐採される。すると、その間に子孫を残せる樹種しか生育できない。それらは切り株からわき芽を出して成長できる(萌芽更新)樹種や、数年で花を咲かせ実を結ばせる樹種、陽のあたる明るい場所を好む樹種などとなる。また、多くの実を結ばせるためには多くの花を咲かせ、樹種によっては多くのチョウやミツバチを呼び寄せねばならない。林床にも光が届くため、草本相も豊かになる。したがって、深い緑の原生の森よりも華やかであり、生物多様性の豊かさが実感できる森である。
このような森を代表する植物に、カタクリ(写真・上)やニリンソウ(下)など「春植物」と呼ばれる草本植物がある。実は2万年ほど前、地球は今よりずっと寒く、現在原植生が常緑広葉樹である暖温帯地方にもまだ冷温帯の落葉広葉樹の森が広がっていた。落葉広葉樹の森では芽吹きの前の短い期間、春の豊かな太陽が林床に差し込む。この光を利用して短期間のうちに成長し、花を咲かせ、実を結び、あるいは地下に栄養を蓄えて子孫を残すのが春植物である。これらの植物は、常に林床が暗い常緑広葉樹の森では生きられない。その後地球は暖かくなり、春植物は北へ追いやられたが、人の営みによって落葉広葉樹が存在し続けた里山の森では春植物も命をつないでこられたのである(このような種は遺存種と呼ばれる)。
里山での草木の採取がたび重なると低木や潅木の森となり、ついには森でなく草地となってしまう。馬草や茅を得るため毎年火入れや草刈りを行い、積極的に草地として利用する場合もあった。多くの地域では山頂付近の緩斜面に草地が、土壌の深い山麓に広葉樹の多い二次林や竹林がモザイク状に広がる里山の景観が形成された。さらに、地域による気候や地質の違いによって二次林の樹種構成も少しずつ異なるため、田んぼや小川など里地の多様な生態系との関係も含めて、日本の里山の生物多様性はさらに豊かになった。
しかし、斜面での樹木や草本の除去がさらに頻繁になると、雨水による侵食を促し、次第に土壌がやせてくる。すると植物の成長は悪くなり、生存できる種も限られてくる。侵食はますます進み、荒廃林地を経て、ついには「はげ山」となる。実は、里山生態系のかなりの部分が荒廃地生態系、はげ山生態系だったのである。
そのとき、かろうじて残る高木がマツである。マツはむしろ荒廃地でこそ、その存在を誇示できる。マツは日本の原植生を構成する樹種のひとつであるが、もともとはやせ尾根上など限られたところにしかなかった。しかし、そのマツが古代の飛鳥地方で身近に見られる樹種となり、中世には中部地方にまで、近世には全国的に広がり、日本人とのつながりを深めていったのである。香り豊かなマツタケは荒廃山地のアカマツ林からのとびきり上等の贈り物であったといえる。
時は春。春植物が可憐な花を咲かせる季節である。今は限られた場所にしかないが、むかしの里山に思いをはせ、是非ご鑑賞いただきたい。
【著者】太田猛彦 東京農業大学教授