◆河内長野市を支える特産の「つまようじ」
日本農薬総合研究所(以下、総合研)がある河内長野市は、昭和29年4月に長野町、三日市村、高向村、天見村、加賀田村、川上村が合併し、大阪府内で18番目の市制を施行、面積は府内で3番目に広く、その7割が森林。奈良、和歌山の両県と隣接し、北に向かってほぼ三角形の市域を形づくっている。人口は約3万1000人。
同市の特産品としては、先ず「つまようじ」が挙げられる。明治時代から地場産業として発展し、国内トップシェアを誇る。また、「小山田の桃」は甘くて美味しいと市民にも親しまれている。さらに、天見地区の「ナンテン」も有名で、生け花用や薬用として全国に出荷されている。
その他では、国宝の「観心寺」を挙げておかねばならない。実質的な開基(創立者)は、空海の一番弟子である実恵(じちえ)とされ、北斗七星を祭る寺では日本で唯一。
南海高野線で河内長野までは、約30分ほど。小山田町にある総合研までは車で10分余り。その途中にJA大阪南河内長野支店などがあり、JAへの期待も含め妙に懐かしさを覚えた。そこから数分で、総合研の雄姿が広がる。
◆3つの母体から生まれた 世界に羽ばたく「総合研」
?M口所長 |
総合研は1993年に1期工事を竣工し、1995年の2期工事の竣工をもって成就したものであり、1期工事から15年を経た今でも欅による記念植樹が、つい昨日のことのように思い起こされる。故人を含め、当時、研究開発に携わっていた人々は、総合研の、かつ日本農薬の今日の隆盛をどのように思い、捉えるだろうか。
「過去の分散からの脱却を目指したのが総合研だった」と日本農薬OBの梶原治氏(元研究推進部長)は振り返っている(植物防疫第59巻第5号)。総合研は、1995年12月をもって完全統合したが、それ以前は化学、生物、安全性の3つの独立した研究所として独立し、かつ分散していた。
化学部門は会社創設以来、大阪工場に併設され製剤やプロセス研究に従事していた。また、生物部門は河内研究農場を礎に農薬試験場を経て、1972年に生物研究所になっている。さらに、安全性関連は当初、農薬試験場における毒性、代謝、残留研究部門として発足したものだが、1981年に安全性研究所として分離独立していた。
「こんなおんぼろ研究所でも優れた農薬を開発できるんだ。君たちも頑張れ」と某社の高名な研究者に言われた時代もあったとのこと。これはブプロフェジン開発の数年後だったが、実際には早計で、後に「FAMDE」と内部で呼ばれる5つの新規開発剤(注1)を創出していることから、日本農薬の底力はもともと計り知れないものがあったのではないか。既に、世界に羽ばたく「総合研」を予感させていた。
◆研究開発型企業の最前線に総合研が
いつでも現場を見ることができるのが強み |
これまで見てきたように化学研究所、生物研究所、安全性研究所の3つの部門の統合により総合研は生まれたが、最もメリットが生まれたことは、「研究開発に携わる者が、直ぐに、いつでも現場を見ることができ、かつその研究開発に携わる者たちが相互に対話できるようになったことが最も重要だった」と、フジワンからフェニックスに至る自社開発品の展示パネルを前にして?M口洋研究開発本部長・総合研所長は語る。
総合研竣工の全プランが明らかとなったころ、業界では、「(バブルの崩壊を含め)どうしてこんな時期に、約100億円もの投資を行うのか」、「借金返済も相当時間がかかるのではないか」と、日本農薬の取組みに対してやや悲観的に見る人たちが大勢を占めていた。
現在では、そのような風評を払拭し、まさに「研究開発型企業」としての最前線にいて実践しているのが総合研だろう。その総合研の成長にいっそう拍車をかけたのは、2002年の三菱化学の横浜研究所から何名かの研究者の合流であった。これにより、質的にも「総合研」としての成長を占う基盤ができあがったのではないかと思える。「総合研」に相応しい姿を現すことになった。
◆生物科学の研究基地として80周年は将来への準備段階
総合研の研究所内部および試験温室・圃場などを見学させていただいた。随所に、総合研の目指している主旨が反映されているように見受けられた。早くから、GLP(注2)に対応しうる施設として注目されており、今後に期待したい。
総合研は、日本農薬における生物科学の研究基地であり、現在、次世代のための新しい技術や製品の創造を目指している。現在までの総合研創出農薬は、厳密にはブイゲット、フェニックスの2製品だが、直近に「アクセル」、「コルト」(いずれも製品名)が控えており、他の園芸製品も視野にあり、期待される。さらに、医薬・動物薬品への拡大展開も注目されている。
改めて、総合研の役割はよりいっそう現場に近いところでの実践の集積と思える。今後とも、いっそう「園芸品目を中心に注力していく」(?M口所長)が、あくまでも「日本はもとより世界に通用する農薬開発」(同)が夢に有る。
企業も生き物であり、節目がある。日本農薬は当農薬年度80周年に差し掛かっているが、現在を、「将来に繋がる準備段階」(大内脩吉社長)としており、新たな成長への基盤を固めつつある。
同社の80周年のキャッチコピーである「ありがとうを明日の力に」は、過去・現在に感謝しながら、さらにこの気持ちを将来にわたっても継続し、食の安全・安心を見据えた未来への企業理念を謳っているように思えた。
(注1)FAMDE フジワン、アプロード、モンカット、ダニトロン、エコパートの5つの自社開発品。
(注2)GLP 試験施設が、試験の適性実施に関する基準を自ら遵守することにより、試験成績の信頼性を確保するためのもの。例えば、作物残留性試験成績のいっそうの信頼性の確保をはかることができる。
日本農薬研究所施設などの歴史 |