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私と農業

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幼心にしみ込んだ「農」のひと文字

その1

 私の農業との接点は二つある。幼少時の農家暮らしとその後の地元農協との関係だ。
 先ずは幼年期の経験である。
 私の故郷は宮崎県小林市。天孫降臨の霊峰「雲にそびゆる高千穂」を見上げながら幼年期をすごした。いわゆる山猿である。

クミアイ化学工業(株)前専務取締役・小齊平一敏氏 私の農業との接点は二つある。幼少時の農家暮らしとその後の地元農協との関係だ。
 先ずは幼年期の経験である。
 私の故郷は宮崎県小林市。天孫降臨の霊峰「雲にそびゆる高千穂」を見上げながら幼年期をすごした。いわゆる山猿である。
 父は金物屋を開業したのちレストランを経営。母は旧士族の三反百姓の娘。私は3人兄弟の長男として生まれたが、生後間もなく母方の祖父宅に預けられ幼稚園までの約4年間、しかと貧農生活を味わわされた。これがのちのわが人生を左右したものと考えている。
 祖父は分家の身。わずかな田畑しかもらえず、記憶ではコメやサツマイモ(薩摩では中国からきたので“唐芋(からいも)”という)と繁殖牛を生産していた。
 当時コメは「供出米」でサツマイモも統制品。年に1度の収入を補うため、繁殖牛の生産をしていた。今でも牛を見る目があると密かに自負している。全農名古屋支所長時代に全国畜産共進会が飛騨高山で開催されたが、どの牛が優秀かはほぼ当てることができた。
 祖父は情報入手が難しい時代によく京都大学教授の飼育技術を人づてに聞き研鑽していた。今でこそ「宮崎牛」ブランドで有名となったが、先人たちの血のにじむ努力を忘れてはいけないと思う。
 娯楽の少ない時代。町の共進会は一大レジャーだ。牛と一緒に、煮しめなど入った重箱と焼酎を下げて、大人は等賞に一喜一憂、子どもは出店でふだんは口にできないお菓子などを買ってもらう。
 ともかく当時の農家は日の出とともに田畑に行き、暗くなるまで働いた。一方、雨の日や台風の時は子ども心に楽しかった。家族はいるし、いつものおやつ「蒸かし唐芋(からいも)」でない団子などが出てくるし、台風でカキやナシは落ちて堂々と失敬できるし・・・。幼い時にこのイモを朝昼晩、一生分食べたので胃が受け付けない。今は孫のために栽培し、鑑賞するだけである。
 幼心に疑問を抱いた。町の人はほどほどいい暮らしをしているのに百姓は一生懸命働けど貧しいのはなぜだろう、と。
 ここに私の信条の原点があるように思える。
 
【略歴】
(こせひら・かずとし)
1948年2月宮崎県生まれ。71年3月早大商学部卒。同年4月全農入会、農薬課長、総合企画部次長などを経て名古屋支所長。2004年1月クミアイ化学工業入社、取締役、同年4月常務取締役、05年1月代表取締役専務。2009年2月退任。

その2に続く)

【著者】小齊平一敏
           クミアイ化学工業(株)前専務取締役

(2009.11.16)