山口高商(1905年創立、後身校:山口大)に学んだ父・二郎(現会長・96歳)は、卒業と同時に全販連に入会いたしましたが、戦地から復員し荒廃した国土を目の当たりにしたことで、緑の復元と食料確保の必要性を強く感じたといいます。
この、逞しい「農業を興す」ことに燃え「京浜興農」の仕事に取組んだと聞きおよんでいます。
農薬のビジネスは、食料増産をキーワードとした昭和23年の農薬取締法公布頃の「統制時代」、食糧増産とともに農薬需要が右肩上がりのなか、環境問題が社会的関心を集めて農薬取締法が改正された46年頃まで、いわば一本道だったと思います。
この改正は、通称「昭和の大改正」と呼ばれ、従来からの使用者の安全に止まることなく消費者、環境への安全にシフトするものでした。農薬新時代を迎えたわけです。
60年代に入ってからは「食の安全」、「農薬の安全使用」を基軸としたビジネス展開の時代を経るわけですが、現在の「食の安全・安心」、「消費者指向」、「残留農薬」、「ポジティブリスト制度」などの生みの親は、平成15年の無登録農薬問題でした。この歪みを生んだ構図を私たちは、業界人として責任と義務を共有しなければならないと真摯に思っています。
ともあれ、いつの時代であっても農薬の社会的存在価値の原点である「食料の長期安定確保」、「食べ物の安全確保」を決して忘れることなく、日々の事業に誠心を傾けなければならないと、自らを戒めています。
農業ビジネス関係者と農業生産者、そして生産者と消費者が信頼をベースに対話・話題提供がなされれば、「無農薬栽培は安全である」などの妄想も払拭されると感じつつ、牛歩のごとく歩みつづけることが、結果的に食の安全への取組みであり、生産者のメリットにつながると確信しています。
逗子駅近くに「逗子生産直売所」が有りますが、これが今の「道の駅」の原点になりました。大切にしたいと思っています。
(その3に続く)
【著者】羽隅弘治京浜興農(株)社長