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食料安全保障の確立とJA全農の役割
食料安全保障の確立とJA全農の役割

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【肥料の海外事業】
50年にわたり世界で培ってきた信頼関係

 日本は世界でも有数な工業国だが、製品の原料となる資源には乏しい国だ。農産物を生産するために必要な化成肥料についても同じことがいえる。世界の肥料市場は最近の原料急騰にみられるように、各国の肥料メーカーや山元の思惑、世界の食料事情、天候、海運市場や為替相場、そして最近のバイオ燃料需要など、いろいろなファクターが複雑に絡み合いめまぐるしく変化する。
 そうしたなかで、農家組合員に、より高品質な肥料をより安価にしかも安定的に供給していくために、JA全農はその時期、その時代に応じた海外事業を戦略的に展開してきた。そこで培われてきた信頼が、厳しい情勢下にも関わらず20肥料年度に必要な原料を確保したといえる。

◆植物のもつ能力を発揮させるためには肥料が必要

 肥料は農作物を生産するために欠かすことのできない生産資材だ。
 育種改良などによって植物(作物)の収穫量を増やしたりするなど、植物の能力を大きくすることはできる。例えば国際イネ研究所で育種した品種で東南アジアの水稲収量が飛躍的に増加し「緑の革命」といわれた。だが、植物の能力が大きくなっても、それを可能にする養分がなければ、その能力を発揮することはできない。
 国際イネ研究所では、米の収量が増加するのに貢献した要素を試算している。それによると改良品種の効果が23%、肥料の効果が24%、かんがいの効果が29%、その他の要因24%となっている。緑の革命は育種の勝利といわれることが多いが、養分(肥料成分)も大きく貢献しているということがこのデータから読み取れるだろう(この項「化学肥料Q&A」日本肥料アンモニア協会より)。
 日本で安定的に食料生産ができるようになったのは、農業機械や農薬とともに、化学肥料が開発され農産物の生育を支え、より使いやすいものになってきたことを忘れてはならないだろう。
 しかし、その化学肥料の原料、とくにりん酸と加里は日本では産出されず、海外に依存しなければならないのが現実だ。

◆JAグループの組織力を背景に原料輸入を開始

 海外からの原料輸入は、商社などを通じて行われているが、JAグループもいまからちょうど50年前の昭和33年(1958年)から全購連(現・全農)が輸入を開始している。
 その一つが、旧ソ連からの加里輸入だ。旧ソ連と日本は昭和32年12月に日ソ通商条約を調印したが、それを受けて全購連がソ連加里輸入交渉を行い契約に成功し、33年3月にソ連加里の第1船が新潟港に入港した。
 この頃、加里の需要は増加してきているが、欧米の国際カルテルによる価格支配が強かったが、「このソ連加里の輸入によって、需要増に対して供給も増大したので、32年12月と33年12月の価格を比較してみても、約8%値下がりになっており、欧米の独占価格に対する牽制効果を持つことになった」(「系統肥料購買事業 50年の歩み」)。
 全購連の輸入を知った各商社はソ連にアプローチし「全購連の独占的輸入に食い込もうとしてきたが、ソ連は農民を代表する全購連を信頼」(前掲書)し、その後も安定的にソ連(ロシア)加里の輸入の大半を全農が行ってきている。
 加里と同様に国内資源をもたないリン鉱石の輸入も肥料事業にとっては重要な課題だ。全購連は加里の輸入を始めた昭和33年8月から米国フロリダ産リン鉱石の輸入も開始する。翌34年には、イスラエルの低度リン鉱石、アフリカのトーゴ、セネガルを中心とする高度リン鉱石を輸入。36年からのモロッコからの輸入開始へと拡大していく。
 そしてリン鉱石輸入を開始して「5年後の37年度には、全購連のシェアが第1位」(前掲書)となり、少数商社による「集中独占体制を打ち崩す形」となるが、この輸入実績は、国内消費の70%を占めるJAグループの組織力によるものだといえる。

◆原料開発から製品輸入そしてアラジンの開発輸入へ

新しい肥料運搬専用船「JAフロンティア」
新しい肥料運搬専用船「JAフロンティア」

 昭和33年から始まった肥料の海外事業については年表を参照して欲しいが、海外事業としての大きな節目を見ると、当初は原料購買であったが、昭和55年に米国フロリダでリン鉱石を採掘する全農燐鉱(株)を設立することで、原料の開発輸入という新局面を迎えたことが最初の節目といえるだろう。
 これは第1次石油ショック以来顕著となってきた資源ナショナリズムの台頭と、食料が国際政治の戦略物資としての色彩を強め、農業国が食料増産傾向を強め肥料の需要が逼迫してきたこと。国内肥料工業が構造不況業種に指定され、原料事情に弾力的に対応できないなどの事情があった。
 こうした状況下で、JAグループが安定的に肥料事業を維持し、組合員の負託に応え続けるにはどうしたらよいかが検討された結果、「資源を自らの手で開発するのが最良の策である」ということで、リン鉱石採掘事業に踏み切ったのだ(前掲書)。
 2つ目の節目は、昭和62年からの製品輸入だ。
 昭和60年のプラザ合意による円高局面は、日本経済に内需主導型経済への転換をもたらしたといわれ、具体的には各方面での製品輸入の増大となって表れる。肥料業界もこれと無縁ではなかった。「低コスト農業をめざしていた全農にとって、安い海外の肥料は魅力であったし、農家・農協からも輸入肥料を要望する声が高まった」(前掲書)ことから、全農は尿素、高度化成、熔成リン肥といった製品の輸入に本格的に取り組んでいく。
 昭和62年のインドネシアからの尿素の輸入開始が、本格的な製品輸入の始まりだといえる。
 そして3つ目の節目が、原料や製品輸入からさらに一歩踏み込んで、海外で製品を開発して輸入する開発輸入を開始したことだといえる。具体的には平成4年の日本ヨルダン肥料(株)の設立。そして9年からのアラジン肥料の出荷開始だ。
 そして、最近の肥料価格の急騰は新たな節目といえるのかもしれない。
 もう一つ忘れてはならないのは、年表(pdfファイル)の昭和45年に「第5全購連丸進水」とあるように、その後も肥料専用船を就航させ、海外から輸入する肥料原料の物流の効率化とコスト低減を実現していることだ。
 これはその後のJAアラジンドリーム号や今年就航したJAフロンティア号(写真)まで引き継がれている思想だ。

◆マーケットは買い手市場から売り手市場に

図2

 ここまで全農の肥料海外事業について駆け足でみてきた。
 現在、全農が輸入している原料は、図2のように年約110万トン前後だ。これは国内需要の約6割を占めている。そしてその輸入元も図1の通り世界各国にわたっている。
 最近の肥料をめぐる情勢について全農肥料農薬部肥料海外原料課の末原宗紀課長はこう分析する。
 従来は価格交渉は半年に1度だったが、最近は4半期ごとの流れになってきている。
 かつての買い手市場から完全に売り手市場に変わり、山元に行かなければモノを確保することができない。そのため末原課長をはじめ全農の担当者は、年中、世界を飛び回ることになった。
 中国は輸出に関税をかけるなど自国内需要を優先している。
 インドの肥料需要が増大している。
 そうしたなか全農は、新規のリン鉱石ソースとしてベトナムに着目。今年1月に価格面で有利かつ安定的な購入条件での長期契約を締結した。そしてさらなるリン鉱石の安定確保のために現地への投資を検討するなど取り組みを強化している。

図1

◆長年の信頼で必要量の8割は確保

 末原課長は、20肥料年度に必要な肥料原料の「8割は確保した」という。この厳しい世界の肥料情勢のなかでこれが実現できたのは、50年におよぶ全農肥料海外事業が「安定的に海外の山元と取引きするなどして培ってきた信頼関係があるからだ」。
 「モノは確保」されているが、価格については「4半期ごとの交渉が世界の流れ」となっており、その都度「即断即決」しなければならないという。そうでなければ、「確保」されているモノを「確実」に手に入れることができなくなることもありうるという。
 肥料情勢は当分厳しい状況が続くことが予測されるが、全農が50年にわたって培ってきた信頼とノウハウで、国内農業に必要な肥料を確保してくれることに期待したい。

(2008.07.22)