農協運動の歴史から学ぶ食料安保とJA改革
弱者守る立場で活動 草創期を振り返って
◆自作農経営を支えて
駒口 盛氏 |
阿部 終戦直後の昭和21年から農地改革が始まり、翌22年には農業協同組合法が公布されました。豊田さんは当時どうされていましたか。まず若い時の思い出話から。
豊田 地域の青年団長をやっておりましたが、農協設立の準備委員に選ばれて、啓発というかPR活動に回りました。自転車に乗ってメガホンでね。
阿部 農地改革で自作農が成立しましたが、その後、自作農経営つまり家族経営農業を支えてきたのは総合農協だと考えています。そこへ話を進める前に農地改革以前の小作人の実態を少しお話下さい。
豊田 戦後、村政の民主化などを求める農民運動の盛り上がりとともに地主や商人が小作人を収奪していた実態がたくさん語られました。例えば、こんな話もありました。
貧しい農家や小作農は肥料代や小作料を肥料商(地主)に支払に行きます。番頭が応待し、めったに飲めない酒を出し、帰りには折詰まで持たせる。酒に酔ったおやじさんは領収書をもらうのを忘れてしまう。そして翌年、昨年分を支払わさせられる。こんな2回取りは少なからずあったそうで、小作地は肥料商の所有となる。肥料商はやがて大地主になる。こんな例は珍しいことではなかったようです。肥料商は大邸宅を構え、幾棟もの倉庫を持って旦那様、大方の農家は貧しく義務教育もままならずというのが昭和初期から終戦ごろまでの農村の実態だったと聞かされました。
戦後マッカーサー連合国軍最高司令官の農地解放指令によって自作農が創られたのです。
阿部 農地改革で小作人が農地を所有できるようになった大転換の中で農協が生まれます。
豊田 23年に農業会という組織を引き継ぐかたちで農協ができました。建前は自主的加入でしたが、農家は全員が組合員になるんだというふん囲気の中で設立されました。米屋までが加入するケースもありました。
そして収奪されていた小作人を助けるのだ、弱い者を守るのだという立場で活動しました。
当時は食糧難というよりは飢餓の時代で、米は供出制度でした。供出しない農家には国が強権発動をしましたが、農協はその手助けはしなかった。かといって発動に対して反対もしませんでした。
農協運営については、引き継いだ農業会が赤字だったので栃木県では3分の1の農協が再建整備の対象でした。
◆意欲的だった青年層
豊田 計氏 |
阿部 弱者を守るという立場の活動を始めた農協の役割は大きかったのですね。ところで草創期の農協の役職員はどんな人たちだったのですか。今の話のように有識者といえばほぼ地主階層ですから地主の組合長もいたのではないですか。
豊田 役員は公選制で、旧産業組合とか農業会の職員でしっかりした人が選ばれたり、組合長には地主もいました。私は32年に地元農協の常務になりましたが、若い人は少なかった。
駒口 うちの農協も23年設立です。私は青年部を組織しましたが、農協設立にどれだけ関わったか余り記憶していません。
うちは県下では珍しく組合長公選制を定款にうたいました。組合員の直接選挙です。農民組合青年部の要求でそうなりました。これに対して、理事互選を建前とする県庁が騒ぎ立て定款改正を求めてきました。
しかし、うちの理事会では改正が毎年、成立せず、3年目にして「直接選挙は全国で1農協だけになった」と迫られて、やっと改正しました。
当時は価値観の180度転換で戦前の有識者は極端にいえば役に立たないから、順応性の強い青年たちと、村を離れていた復員兵たちの中から役員を出して村づくりをやろうという意欲が青年たちに強かったのです。
阿部 また農民組合の運動も高揚した時期です。
駒口 組合の活動家が農協の組合長になることも多く、運動優先で経営破たんをきたすケースも目立ちました。例えば物資不足の時代だからと購買に力を入れて不良在庫を積んだり、融資焦げ付きを増やしたりね。
豊田 組合長が代表理事であるという定款がなかった時代なので理事たちの名で取引しても有効でした。それが農協の赤字の原因の1つでした。
ところで、うちも組合長は設立時は直接選挙でした。はじめ私たちが主張したことが総会で通ったんです。その前に青年団から理事を出そうということで私が候補者に選ばれました。しかし集落には迷惑をかけないという方針で選挙運動はせず、電柱にポスターを何枚かはっただけでした。
選挙の結果は40票の最下位得票で落選しました。後に市議会議員他選挙は数多くやりましたが、落選はこの時が最初で最後です。
駒口さんのところと同じように県からは定款承認後、直接選挙は法律違反だからやめるようにいわれました。最初は突っぱねていたのですが、結局はやめることになりました。
阿部 当初、多くの農協経営が不振に陥ったのは、農業会から引き継いだ不良資産のせいばかりでなく、組合長の経営能力に問題があったからではありませんか。
◆米価要求運動に感動
阿部長壽氏 |
駒口 うちの組合長は元陸軍主計大尉で、公金の使い方の鉄則を守り、資金繰りもうまかった。その点、私は恵まれた環境で育ちました。しかし経理の厳格性と経営感覚は違います。
阿部 いずれにしても、みんなで組合長を公選するというのは設立当初の農協に対する大きな期待の表れではなかったかと思います。
豊田 しかし役職員の不祥事などがあればいっぺんに信用を失墜します。それを回復するには長い年月がかかります。私の組合では10年でようやく再建整備が達成できました。
駒口 私は80歳ですが、過去を振り返って何か今の世の参考になればと思って経験談を話しています。23年当時、青年たちは農業団体のうち土地改良区と農協と農業共済組合を重視し、3団体には青年代表を是非、送り込もうと決め、私は農協の受け持ちに選ばれました。
その後、結核療養のブランクを経て27年に第1回全国農協大会が開かれた時から本格的に農協運動を始めました。30年には米価要求全国農民大会が開かれました。農政運動ですね。
当時の全中会長である荷見安さんは農林官僚出身だから、全中が米価要求を出して政府と交渉するような大衆運動は好ましくないと思っていたはずです。
しかし結局は多数意見を聞いて大衆運動推進に切り替え、農民大会を開いた。私はその姿を見て非常に感動しました。
農協設立の時はすでに敷かれた軌道を走る運動でしたが、米価要求の時は新しいものをつくり上げる運動に参加しているのだという感動がありました。
今も3団体のうち農協の受け持ちになって運動に加えてもらったことを大変幸せだったと思っています。こうして32年には農協役員に選ばれました。
阿部 次に農協運動の反省点などをおふた方の体験に即してお話下さい。
豊田 私は30年に市会議員となり、32年には農協組合長に再建整備の手伝いを頼まれて農協常務を兼任しました。それまでは役員間の対立が続きましたがやがて収まって、37年に組合長となり、その後も議員との2足のわらじをはき続けました。
この間、共済事業の実績で農水省経済局長賞を受賞したことがあり、36年から年2回の集落座談会を開催し、3分の2位の出席率で組合員の信頼回復が成功しました。
阿部 一番印象的な思い出にはどんなことがありますか。豊田さんの全中会長時代にはいろいろありましたが。
◆住専問題の真実と苦労
豊田 一番困ったこと、苦労したことはやはり住専問題ですね。住宅金融専門会社(住専)は大蔵官僚が指導して大手銀行がつくった金融機関です。ところがバブルの時代で住宅ローンが好調なため、母体行は住専の市場を侵食しました。
そこで銀行・住専は不動産事業にのめり込み、全体の融資量がふくらんで地価が高騰しました。このため大蔵省は不動産融資総量規制を実施し、母体行から住専への融資も規制されました。
しかし農協系統だけは規制外としたのです。100%止めたら、大きな金融不安、混乱が起きることを恐れたためでしょう。
大蔵省が、住専は金融機関であり、母体行がついているから大丈夫というので農林中金も各信連も全共連、各共済連も貸しました。本来ならば貸付を止めるべきでしょう。
ところが住専各社が破たんすると役所はJAグループには貸付責務があり、大部分を負担させようとしたのです。
信連協会は毎日各住専ごとの貸付内容を役所へ報告させたのです。結局、住専の債権を引き継ぐ住専処理機構をつくり、公的資金を6850億円投入することになり、JAグループの被害を最小限に食い止めました。
それから平成7年には農政審議会農協部会が開かれ、経営管理委員会制度の導入提案が出されたのです。これはドイツでもどこでも成功している制度で、これをやらないと日本の将来はないという主張の大学教授が専門委員の一人にいました。
私は「これは全く農協組織になじまない。にわかに、そんな農協の基本原理原則に反するものを提案されても組織の意見も聞かないで検討には入れない」と強く反対しました。
阿部 それで、あれの導入は選択制になったのですね。
豊田 役所は任意導入ということで認めて欲しいと要請したが、これを断りきれなかった私の責任は罪万死に値する思いです。導入は各組織に任せるという結論が出たのは私の後の原田睦民会長の時です。私が懸念したのは、経営管理委員会の会長は代表権がなく、いわば案山子か影法師みたいなものであるという点です。理事の任免権はありますけどね。
代表権は理事長にあり、会長の職務は理事長以下の理事選任権のみ、管理委員会は年4回で十分、管理委員、理事、監事等の役員定数等すべてが役所の指示通り。全農会長も、今は東京常駐との指示です。農協は法律に基づく民営機関であると役所は事実上認めないように思えます。一般の組合員はそういうことを知りません。私は、この経管制度についての討議不足に悔いを残しています。
阿部 今度の見直しでも今の選択制の中で導入を促進するということになりますが、豊田さんの見解は?
豊田 役所の意を受けたと思われる学経の専門委員(大学教授)は「農業の現場で働いていた人が急に経管の会長になって重大な職責を果たせないのではないか」という趣旨を強調したのです。今、制度改正をしなければ農協の将来はないと付言したのです。大学教授の誤った先入観から提案に私は反対したのです。
阿部 以前は理事長、組合長、専務などは学識経験者で固めるということでしたが、今は違います。でも流れている考え方は余り変わりません。さて駒口さんの思い出はいかがですか。
◆集団営農の基礎固め
駒口 最初に経営管理委員会について一言触れますと、官僚的な事務屋というか経営者を中心にして管理するというのが農水省の方向です。これは組合員が出資し、利用し、運営する協同組合の基本からはずれます。ここを踏まえる必要があり、豊田さんが反対だというので私も意を強くしました。
さて思い出ということですが、私は32年に29歳で農協の理事になり、2期目には専務に選任されました。なる気はなかったのですが、若い連中が一生懸命推してくれたのです。
前専務は昔風の謹直な人で信用事業は貯金一辺倒でした。貸付は例えば3万円の申し込みを2万円に削りました。組合員は削減分を高利貸しから借りることになり、恨みつらみが前専務に集中して退陣となりました。
やがて高度経済成長期に入って資金繰りも好転したため私は「借金は農協から」のスローガンを掲げ、さらに「月給貯金制度」というのを始めました。
高利貸しからの借金を、農協からの肩代わり融資で全額返済し、農家のほうは米代金の貯金から月給制のような形で毎月の生活費を降ろし、計画的に農協に借金を返す仕組みです。
ところが米代金だけではどうしても足りないため野菜作りとの複合経営を広げる運動を始めました。しかしベースはやはり米なので一種の集団栽培みたいなことも推進しました。
そこへ45年から減反政策が始まったので私としてはまことにつらい立場でした。減反反対運動の中で運動を広げるためにと迫られて県議会議員を1期務めましたが、組合長が亡くなられたので今度は私が後任の組合長に選ばれました。減反反対を叫んでいた県議が減反を進める立場に立たされたわけですよ。
でも最初は1割減反だから苗代の後作を止めるくらいで済みましたが、その後、2割3割と減反が拡大したため泥炭土壌のほ場整備をやり直す過程で集団転作を進め、これに休耕をからみ合わせることにしました。
当時は青年時代の仲間が町長や土地改良区の理事長をしていたので、そうした転作集団づくりのプランが円滑に描けました。これらは集団営農づくりの基盤になっていると思います。
その後、県中央会に来ましたが、会長時代には県信連の問題が起きました。非力なものですから自力再建はできず、各農協にも相当の負担をしてもらって農林中金との合併にこぎ着けました。これしか方法がなかったのか、組合員に負担をかけた、という一種の懺悔の気持ちが10年後の今も残っています。
阿部 振り返れば第1回の全国農協大会は27年。その後、3年ごとに開いて課題を整理し、進むべき方向を提起してやってきた。高度経済成長の時代に農協の果たした役割は大きかったと思います。地域経済、農村社会を維持、発展させていくための中核になってきたと総括できるのではありませんか。(「座談会 その2」へ)