◆農村の協同運動体として組織化
東京農工大学名誉教授 梶井 功 |
1947年11月19日、農業協同組合法が制定公布された。農業協同組合としての歴史は、この日から始まる。
直接的には、45年12月9日、日本占領総司令部(GHQ)から出された「農地改革ニ付テノ覚書」(通称マッカーサー農民解放指令)が、農地改革で“小作人が自作農化シタル場合再ビ小作人ニ転落セザルヲ保証スル為ノ制度”の一項目として
“非農民的利害ニ支配セラレズ且日本農民ノ経済的文化的進歩ヲ目的トセル農村協同運動ノ醸成及奨励計画”
を求めていたのに応えるためだった。
といって、それまでわが国に協同組合組織がなかったわけではない。1900年に産業組合法が制定されたが、この法律は産業組合という名称を使ってはいたが、なかみは農村協同組合法だった。この法律でつくられる組合は「営利を目的とせざる社団法人と同一の登録税を納」めることになっていたこと(第6条第2項)、また1口以上10口以下に出資口数は制限し、かつ出資の多少にかかわらず「各社員ノ表決権ハ平等ナルモノトス」という民法65条第1項が“準用”されることになっていた(第38条)点に、それはよく示されている。
その産業組合は、1940年には全国1万1114の市町村に1万5101組合、全農家の95%を組織するまでになっていた。組合の80%は信用、販売、購買、利用の4種事業を兼営していたのであって、事業内容は総合農協と同じ協同組合といってよかった。
その産業組合が、大戦末期の1943年、農業団体法によって、営農指導・農業調査を兼務にしていた農会と統合させられて農業会になり、農業・農村の戦時統制団体にさせられてしまうのだが、GHQ指令は、この農業会の解体消滅、“農村協同運動”体の組織化を求めたのであり、農業協同組合法がその答だった。
◆待ち受けていた苦難
“…戦時中の統制団体を戦後転換したのがJAである”(ウェッジ08・9、山下一仁稿)などという愚論を吐く農水省元高官もいるから、47年農協法案提出に当たって農林省の先輩が作成した質疑応答集が農業協同組合の“特質”をどう解説していたかを紹介しておくのも無駄ではあるまい。こう解説していた。
“農業協同組合は農民の自主的な協同組合であって、従来の農業会等と異なる第1の点は、その自主的、民主的性格を有する点である。即ちその設立は自由であり、組合員の加入脱退には何等の制限はなく、役員は選挙制とし、且つリコールも可能である。(中略)
第2の特質は農民の組合たることである。従来の農業会は農業者の団体であるが、所謂地主も会員たる資格を有するのであり、その実質的指導権は農民以外の者が有している場合が比較的多かったのである。これに対し農業協同組合の正組合員は農民に限られ、農民以外の者が組合の施設を利用する場合即ち所謂准組合員の場合であっても、その者には総会の議決権、役員の選挙権はなく、且つその被選挙権も一定の限度に制限されているのである。
第3の特質は農業生産に対する協同組合たる点を強化したことである。(下略)(小倉武一・打越顕太郎監修「農協法の成立過程」協同組合経営研究所刊、356〜357ページ)。
法施行後まだ1年たっていない48年8月末で(約1万1000あった市町村農業会は、この年の8月14日に一斉に業務を停止した)、1万3000の信用事業を営む総合農協が設立された。市町村農業会を上回る総合農協が設置されたわけである。食料供出体制を引き継ぐことは敗戦後の経済混乱のなかでは最重要課題だったから、農協設立は急がれたのである。
が、設立された農協を待ち受けていたのは、戦後の混乱した経済環境への対応の難しさだった。農業会から負債や不良資産を引き継いだということもある。設立を急いで低額出資で加入をすすめたための資本不足もあった。50年3月決算では15%の組合が、51年決算では43%もの組合が赤字、255組合が貯金支払を停止する事態になってしまった。
◆再建整備・整備促進時代へ
50年11月農協財務処理基準令公布、51年4月農漁業協同組合再建整備法制定、53年8月農林漁業組合連合会整備促進法制定がこの事態に対しとられた対策だった。増資奨励金、利子補給等財政資金の注入で、単協は概ね54〜55年頃までに、連合会は概ね56〜57年頃までに再建整備を終了したが、なお残っていた不振農協対策として56年3月農協整備特別措置法が公布施行された。「再建三法」と称されるこの三法について、農協協会の創設者・田中豊稔は次のように総括している。
“再建整備の5年間に単協が達成した増資額は47億円で、これに対する政府の増資奨励金は6億円であった。増資分は農民の負担であり、上から押しつけられた割当てであった。そのため組合員の積極的参加による自主的再建の機運がチェックされ、農協の自主性が失われていった。政府のテコ入れもあったが、不振農協を立ち直らせた主因は(昭和)30年以降の連続豊作と、神武景気、岩戸景気と呼ばれたインフレの恩恵であった(農畜産物の需要増、兼業収入増)。”(田中豊稔「日本の農協―農協二十年側面史―」農協協会、1971年刊、38ページ)
連合会の「整促」は、“「整促計画」を達成するため鉄則として連合会に課した”項目に基づいて“系統金融機関が主導的役割を果たし”て進められた。その8項目の中心は今日もJA事業方式の問題点として指摘されることのある“会員からの無条件委託・系統全利用による販購事業の計画化”だったが、この「整促」についての田中の評価は、
“(神武景気・岩戸景気といったような)客観情勢の好転があったとはいえ、「整促」は予期以上に成功した。しかし、それと同時に、連合会の整促のシワ寄せが単協に集中し「単協の特性において県連の再建がなされた」という批判もあった。…経済連と単協の間では整促方式はかなり厳しく敢行されたが、系統内部から盛りあがる自主的な運動でなかったため、かんじんの単協と組合員の間ではこの方式(とくに販売の無条件委託、購買の全利用共計)を浸透させることは困難であった。
それだけに、単協の不満が強く、『整促方式(別名=一楽方式)は「販売品は安くても無条件で経済連に出荷せよ。購買品は高くても経済連を全利用せよ」ということではないか』という反論もあった。”(前掲書、43ページ)
◆低米価に苦しんだ農家と農協
戦時中、そして戦後も占領下では、大変な低米価だった。1934〜36年は、よく戦前平常時として取り上げられる時期だが、その時期の米価―むろん当時は自由市場で米価はきまっていた―が生産費の何倍になっていたかを見ると、ほぼ2倍だった。それが、戦時中は1.25倍に、占領下では1.13倍になってしまう。実質的に米価は戦前平常時の半分近くにされてしまったということである(この倍率の理論的意味については、かつて02・7・20付本紙に書いたことがあり、その論稿は農林統計協会刊拙著「小泉『構造改革農政』への危惧」に収録してあるので再読していただければ幸甚)。たいへんな低米価での供出を強いられていたのだが、そういう低米価での供出米集荷組織として農協は機能させられたのである。供米代金は農協を通じて支払われたが、この時期の農家経済の苦しさ、そして当然にそれが反映する農協の資金繰りの苦しさを端的に示す事柄として、この時期、“農業手形”制度があったことにふれておくべきだろう。
配給の肥料、農薬、あるいは農機具を購入するために農協が振り出す農業手形を、日銀担保適格手形として優遇する措置で、いわば、農業資材購入資金を日銀が農協組織を通じて貸し出す制度だった。供米代金が見返りになってであること、いうまでもない。いわば国家的規模での“青田売り”である。農家は農協に入っていなければ、肥料も農薬も手に入らなかったのである。法公布後1年もたたないうちに全農家が農協に組織された所以である。
◆米価要求運動のはじまり
そういう状況下では、当然ながら低米価に対する抵抗運動は起こらざるを得ない。田中豊稔「前掲書」によれば、46年6月に結成された全国農村青年連盟の46年産米石当たり500円(60kg当たり600円)の要求が戦後初の米価要求だったそうだが、決定米価はその3分の1でしかなかった。が、この年の米価運動で、翌47年度産から包装代が別建になったことを田中豊稔「前掲書」は次のように特記している。
“…終戦直後の昭和22年1月、福岡県農青連が占領下に組織した5日間の供米ストは法律のワクを破る闘争であった。これは供米用の空カマスを無償で農民に返せ!というスローガンを掲げ、包装費込みの米価に反対し、包装費の別建支払を要求する運動であり、福岡の「カマス闘争」として有名である。この主張は22年産米から認められ現在に及んでいる。農青連の首謀者たちは「占領政策妨害」として召喚されたが処罰は免れた。”(田中豊稔「前掲書」77ページ」)
米価運動はその後、農業復興会議が中心になり、農協代表も参加して行われたが、農協組織の全国的指導組織として48年に設立された全国指導農協連合会の会長に51年、荷見安氏が就任してからは、運動の中心は全指連に、そして54年全国農協中央会発足後は全中に移る。生産費パリテイ方式(48年)、限界生産費方式(50年)、均衡労働所得補償方式(51年)、生産費所得補償方式(56〜57年)と要求米価算定方式を変えつつも、大衆動員をともないながら米価引上げ運動を進めたことで農協組織は“圧力団体”としての名声を高めたが、前掲表で不足期の米価倍率が戦前平常時とならぶようになったことはその成果としていいだろう。