私が農協協会に関係することとなったのは、私どもの大先輩・谷碧さん(農協愛友会元会長)から「君、農協協会に入って協力してくれないか」と再三のご依頼をいただいたからでした。今から10年前のことでした。谷さんとは、私が全農総務部長時代からのお付き合いで楽しく駄べり合いを願っておりました関係からお断りもできず、考えさせて下さいと間を置きました。田中豊稔さんが亡くなった後だと思います。
翌日、谷さんは私を呼んで「男だろう。後はよろしく頼むよ」との鶴の一声でした。しばらくは協会の「顧問」ということで遊ばせてもらいましたが、次の理事会で「会長」に選任されてしまいました。協会の実情も皆目わからないままなので、事務局の佐々木昌子さんに色々と迷惑だとは思いながらうかがいを立てる始末でした。
組織は、権限と義務を明確にしなければ動けません。早速、理事会で常任理事を置き、佐々木さんにお願いすることに定めましたので、通常業務はすべて佐々木常任理事が処理されることになり、会長としては充分に勉強する時間をいただくことができるようになりました。
佐々木常任理事の前は亡くなられた田中豊稔氏が常任理事として活躍されておられました。
田中氏はやせぎすの穏やかな紳士でしたが、取材の時はさすが、新聞社の主幹だけに夜中でも電話をかけてくるなど閉口したことがありました。
田中氏は東京帝国大学法学部を卒業し、直ちに当時、問題となった農村経済更正運動に着目して「経済更正新聞」を発刊し、当時の産業組合中央会の対応を厳しく批判するなど、新聞の声価を高めてこられました。
この運動は農村不況克服の対策として農林省の新官僚を中心に推進され、農民自身が自力で経済更正計画を立てるというものでした。
戦後は昭和22年に農地改革が始まり、同年に農業協同組合法が施行されました。これにともない経済更正新聞は23年に「農業協同組合新聞」と名を改めました。略称は農協新聞です。
田中さんはその創刊と同時に自ら主幹として活躍され、35年には社団法人農協協会を設立して会長には石黒武重氏を迎えられました。
石黒さんは、戦前、農林次官、山形県知事、国務大臣などを歴任され、戦後は日生協の会長として協同組合活動に励まれた方です。
これで農協協会は、名実ともに格式のある協会として、初代石黒会長の下に発足することになりました。
読者は田中さんが筆を振るった異動時期の人事コラム欄などを興味を持って熱心に読んでいたようです。一方、協会には昔から個性豊かな記者たちや内勤職員がいましたが、職員はみな田中主幹に敬愛の念で接していたと思います。
協会の事務所はJR飯田橋駅近くのビルにありましたが、古いビルなのでコンピューターシステムの整備には手狭でした。このため佐々木常任理事は早くから事務所移転を考えていました。しかし私としては、出費がかなりの額になるだろうから簡単には行くまいと思っておりました。
その移転が昨年の3月15日に実現したのです。日本橋人形町の新ビルに移り、OA化もぐんと進みました。佐々木常任理事をはじめご協力をいただいた方々に敬意を表する次第です。
私が二代目会長を受け継ぎましたのは、21世紀初頭で、農協協会発足50年後でした。それ以来、石黒初代会長と初代常任理事田中氏の協会運営の理念を忠実に履行するよう心がけて参りました。
お二人の業績で一番印象深い事業は、農協法制定30周年記念として創立された農協人文化賞表彰事業です。本年で30回目となりました。
この表彰の特徴は、縁の下の力持ちとして地道に農協運動を進めてこられた「隠れた」功労者を顕彰するものです。「隠れた」の意味にはお二人の理念の具体化があるように思われます。
私たちは、この表彰事業が30周年を迎えた記念として、農協運動を一層活性化するため、対象項目と対象者を拡大しました。関係各位に一層の関心と認識を深めていただきたく努めているところです。
昨年までの表彰者は290名、今年は18名ですので合計は308名になりました。私たちは表彰された方々がそれぞれの地域で、後継者をつくっていただき、この活動を広げていただくことを切に願っております。
そして、農協運動が活性化され、未来への展望が広がることを心から祈る次第であります。