1.新自由主義の波紋
東京大学大学院 経済学研究科教授 神野直彦 |
アメリカ発の金融恐慌が世界を震撼させている。しかも、この金融恐慌が実体経済へと飛火し、世界中が世界恐慌に襲われた悲劇に苦悩している。
しかし、このアメリカ発の金融恐慌は、単に深刻な景気後退を告げているだけではない。それは第二次大戦後に形成されたアメリカを覇権国とする世界経済秩序が、最終的に崩壊したことを意味している。
しかし、強調して置く必要があることは、この世界恐慌がアメリカを覇権国とする世界経済秩序の最終的崩壊だということである。アメリカを覇権国とする世界経済秩序の崩壊の始まりは規制緩和と民営化を叫ぶ新自由主義が台頭した1970年代後半に求められる。新自由主義は農業を初めとして、市場原理を導入してはならない領域にまで、無原則に市場原理を適用する。その結果として人間の社会を崩壊させ、遂には儲けに儲けた金融までも破壊してしまったのが、この世界恐慌である。
歴史は何も語らない。しかし、歴史の教訓に学ばない者は、過去と同じ過ちを繰り返す。
歴史の高みから眺めると、現在のアメリカ発の金融恐慌と同じ経験を、歴史の教訓から導き出そうとすれば、1929年のニューヨーク発の株式暴落を引き金とする世界恐慌に行き当たる。この1929年の世界恐慌の後に、世界は新しい経済秩序を形成することに失敗する。アメリカはニューディールを、日本、ドイツ、イタリアという新興国はファシズムに走り、ソビエト連邦は計画経済へと世界は分裂していく。結果は第二次大戦という破局で終る。
そうだとすれば、新しい世界経済秩序を形成するまでに、短くても10年の年月を費やすことになるだろう。しかも、新しい世界経済秩序の形成に失敗すれば、取り返しのつかない破局を迎えてしまうに違いない。
1929年の世界恐慌でも農業が深刻な打撃を被る。現在の世界恐慌で農業で悲劇が演じられることになる。それは、そもそも農業が市場原理には馴染まない「生命の論理」にもとづく産業だからである。
2.農業を支配する生命の論理
農業は生きた自然を原材料とする産業である。人間は自然に働きかけ、自然から人間の生存に必要なものを取り出す。こうした自然に働きかける人間の営みが経済である。
農業は自然に働きかける経済という人間の営みの基盤である。というのも、人間は生命ある自然を消費することなくしては生存できないからである。生命ある自然を生産できる生産者は緑色食物だけである。葉緑素をもつ緑色植物は、大地、大気、水に含まれる物質と、太陽エネルギーを結びつけることで生命を生産する。人間に限らず緑色植物以外の生物は、すべて生命ある自然の消費者にすぎないのである。
工業とは死んだ自然を原材料とする産業である。工業では死んだ自然を原材料に、人為的に創り出した機械設備で、生産物を生産することができる。人為的に創り出したもので閉じられているからこそ、工業の生産と消費は市場で調整することができるのである。
ところが、農業は工業とは対照的である。大地に生きた原材料である種子を蒔くと、その大地に蒔かれた種子が、大気と水に育まれ、太陽エネルギーを取り入れて生命が成長していく過程が、農業の生産過程となる。人間の労働は、大地の上に蒔かれた種子が生命を表させていく過程の手助けをするにすぎない。
それだからこそ、工業と相違して農業では全体的知識が必要となる。というのも、生命の論理が生産を支配する農業では、自然が語りかける言葉を理解しなければならないからである。
ところが、人為的に閉ざされた生産過程である工業では、生産過程は分業化され、単純作業にしか従事しなくなる。そのため知識体系だてて全体性を把握する必要はなくなってしまう。
ところが、農業では全体性のある自然の新生と補充においてのみ生産が可能となる。英語で全体性を意味するwhollyも神聖を意味するholyも発音も語源も全く同じである。神聖さを欠如した観点は、機械的に作動するものとしてしか自然を理解しない。
農業では自然の全体性を理解するために、自然の言葉を習得しなければならない。こうした自然の言葉の習得は、祖先から暗黙知として伝えられてきた蓄積を引継ぎながら、自然との対話を繰り返すしかないのである。化学肥料や機械を投入するよりも、自然を支配する全体性を理解し、人間の英知で自然の肥沃度を高めるほうが重要である。
ところが、工業が発達してくると、生きた自然に人間の生命が全面的に依存していることを忘れてしまう。子供達は森に足を踏み入れることも、大地に種子を蒔くこともなく育っていく。つまり、生きた自然と接触し、生きた自然との対話ができなくなる。そうなると、人間は傲慢にも、機械さえあれば、生命さえも生産できると考えるようになる。
人間は生命ある自然を目的合理的に管理できると錯覚し始める。そこで農業の工業化が始まる。大量の化学肥料と大量の機械を投入すれば、農業でも大量生産が可能になるという幻想が抱かれるようになる。
生命のオアシスである地球には、約120億人の人間の生命を維持できる生命ある自然があるといわれている。しかし、その半分にしかすぎない人口しか地球に存在しないのに、農業が工業化されているが故に、現在でも飢えと渇きの悲劇が地球上で演じられている。
3.自由に動き回る資本
農業が生命の論理に支配されていることを無視し、工業と同一視して市場の論理に跪かせるべきだと、新自由主義は主張する。関税と非関税障壁を撤廃すれば、自由な貿易によって、それぞれの国の経済厚生は高まると唱える。
この自由貿易の原則を支配する論理は、比較優位の原理である。甲という国で生産費用が農業生産物で比較優位にあり、乙という国では工業生産物で生産費用が比較優位であれば、甲国は農業産物に乙国は工業生産物に生産を特化したほうがよいという理論である。
しかし、リカード(David Ricard)の唱えた比較優位の原理とは、土地、労働、資本という生産要素は移動しないことになっていた。ところが、現在では資本は国境を越えて自由に動き回り、労働さえも移動してしまう。
しかも、生産物を生産する時の費用とは、生産物を生産するときに犠牲にしたもののはずである。市場に委ねれば、効率的だという意味は、最も犠牲が小さなものが選択されなければならない。しかし、実際には市場でカウントさえる費用は、価格づけができるものに限られている。そのため必ずしも効率的な選択が市場でおこなわれるわけではない。
美味な水が水道から飲める所では、水道から水を飲んだ方が効率的なのに、ペットボトルから水を飲めば、ペットボトルを生産するのに石油資源を費やす。しかも、ペットボトルの水を海外から輸入すれば、さらに輸送に膨大な資源が費やされて非効率である。しかし、現実にはそれが効率的だと罷り通っている 規制緩和と民営化を唱える新自由主義が闊歩し始めるのは、1973年の石油ショックを契機としている。先進国は第二次大戦後、重化学工業化を推進して「黄金の30年」といわれる高度成長を実現した。
しかし、重化学工業によって実現した大量生産・大量消費の経済は、自然資源多消費型の経済であった。自然資源を浪費した経済的行き詰まり、成長が鈍化するとともに、自然資源価格が上昇する。つまり、インフレーションと不況が同時併存をするというスタグフレーションが生じてしまう。
スタグフレーションは国際的過剰な資本を形成する。オイルマネーを想起すれば、容易に理解できるように、物価が上昇していく一方で、不況で投資先がなければ当然のことながら過剰資本が形成される。国民国家が市場に加えている規制を緩和しろ、国民国家が経営している国営企業を民営化しろという新自由主義の主張は、こうした過剰資本に儲け先を創りだすことだったのである。
4.WTOの虚妄
1973年には石油ショックが生じるとともに、第二次大戦後に形成されたブレトンウッズ体制という世界経済秩序が崩壊する。つまり、ブレトンウッズ体制の固定為替相場制は、変動為替相場制へと移行する。さらに1995年にはGATT(General Agreement on Tariffs and Trade:関税と貿易に関する一般協定)が改組され、WTO(World Trade Organization:世界貿易機関)が設立される。
しかし、GATTを継承したとはいえ、WTOとGATTは決定的に相違する。GATTが単なる関税協定であるのに対して、WTOはあくまでも強制手段を備え、制裁を発動できる国際機関だからである。
こうした国債機関を多国籍化した資本が支配することになる。その教義はカナダのNGOの代表者の言葉を借りれば、「私たちが生きている世界では、人権を侵害することよりも国際貿易の規則に違反することのほうがはるかに重大なのだ」ということにある。
国際的に動き回る資本に牛耳られたWTOが進める自由貿易は、地域で営まれる農業を破壊していく。地域には生命ある自然が充分にある。ところが、地域の生命ある自然の利用権を、地域には存在しない資本が牛耳ると、たちまちのうちに生命ある自然が姿を消してしまう。
農業を営むには自然と対話をしながら、祖先から受け継いだ暗黙知を生かさなければならない。こうした自然の言葉を理解することで文化が生まれる。文化(culture)とは大地を耕す(cultivate)ことである。
文化とは生活様式でもある。食にも文化がある。その地域の自然と調和した食の文化が形成されているはずである。そのため食には地域性と季節性があるのである。
もちろん、地域の生活様式こそが効率的な生活様式である。なぜなら地域を最も効率的に利用しているからである。
ところが、WTOは最も非効率な生活様式を強制する。大量生産・大量消費は画一的な生活様式を前提とする。農業を工業化し、大量生産・大量消費の農業を創り出すことが、最も市場で儲かるからである。しかし、それは自然を浪費して崩壊する最も非効率なシナリオである。こうしたWTOの罪状は、「現在の貿易の現実は次のように説明できる。すなわち、ある製品が市場に投入されるやいなや、それが製造される過程で蒙る人間的かつエコロジカルな次元での良からぬ状況についてのいっさいの記憶は失われる」というスーザン・ジョージ(Susan George)の言葉が見事に表現している。
5.農業の使命
スウェーデンの画家スティーグ・クレソン(Stig Claesson)は、物質的に豊かになったとしても、小農民や小職人を消滅させたために、「平安というべきものを使い果たし」、「お互いに他人同士になった」と現代の社会的病理の原因を指摘している。しかも、それは「小さいものは何であれ、儲けが少ないというのが理由だった。なぜなら、幸福への呪文は<儲かる社会>だったからだ」と主張している。
経済とは人間と自然との、物質代謝の過程にほかならない。それは人間の生命活動であり、農業はその基本である。
しかし、農業を工業と同一視して、市場で「儲かる」ことを求めて、機械とコンクリートを大地に投資してきた。しかも、「小さいものは何であれ、儲けが少ない」という理由で、農業の経営規模の拡大がひたすら追求されている。<儲かる社会>という幸福への呪文にかかってしまっているからである。
この<儲かる社会>こそ、WTOを牛耳る巨大資本の要求である。しかし、<儲かる社会>は幸福をもたらさないどころか、人間の生活を画一化させ、「平安というべきものを使い果し」、人間の絆を破壊してしまう。
自然にはそれぞれの地域ごとに特色がある。人間と自然との物質代謝を最も効率的にするということは、それぞれの地域ごとに特色のある自然の恵みを最も効率的に引き出すことにほかならないのである。
農業の使命はそれぞれの地域において、人間と自然との最適な物質代謝の関係を築くことである。こうした農業の築く、自然と人間の関係が、地域における人間の生活様式、つまり文化を規定する。そうした文化は人間の思考にも浸透し、感受性や価値観をも規定して、人間の社会と生命を持続させていくことになる。
農業に市場原理が容認されるのは、こうした農業の使命を果すのに、有用である限りにおいてである。市場原理の導入が農業の使命を果すことに有害であるのであれば、ただちに市場原理から遮断されなければならない。
WTOは<儲かる社会>を目指し、関税障壁や非国税障壁を除去して市場原理を野放しにしようとする。WTOは1994年にカサブランカの南に位置するマラケシュで設立準備がされている。マラケシュがなまると、国名のモロッコとなる。腐敗し強国に従属していたモロッコでWTOが設立されたことは、その性格を雄弁に物語っている。
しかし、地域において人間と自然との最適な関係を築くという農業の使命を、政府は守らなければならない。国民の生命を維持することこそ、政府のレゾン・デートルだからである。そのためには直接支払による所得保障政策も厭うべきではない。
WTO交渉の公然たる目的は、規制緩和と民営化を手段にして、民主主義を掘り崩すことにある。こうした新自由主義の政策主張が世界恐慌を生起させ、世界的に不幸を、撒き散らしていることは明らかになっている。
生命の論理にもとづく農業は自由貿易に委ねるのではなく、農業を地域に埋め戻すことで地域を再生させるシナリオこそ、世界恐慌の踊り場から抜け出すシナリオである。