◆食料危機の教訓
鈴木宣弘 東京大学大学院教授 |
今回の「食料危機」は、我々に大きな教訓を残した。需給が逼迫したら、まず自国優先で、輸出規制という食料の囲い込みが起こり、高くて買えないどころか、お金を出しても買えない事態が起こりうるということが確認された。WTO(世界貿易機関)にしたがい、関税削減を進めたために、小規模ながらコメなどの基礎食料生産を担っていた農家が潰れてしまっていた途上国は、主食が手に入らなくなり、悲鳴を上げた。
輸出規制は、自国民の食料を守る責任から行われる以上、それを完全に規制することは無理だとすれば、食料を安易な国際分業に頼るWTOルールは見直し、やはり自国での生産を取り戻さねばならないことになる。日本も生産現場の疲弊が進行しており、途上国で起きた混乱は、将来的には他人事ではないと考えるべきであろう。
食料価格は上昇と下降を繰り返していくであろうが、不測の事態になれば、輸出規制も簡単に行われることを前提にして、平時から常に準備しておく必要があるという視点が必要であり、実は、欧米各国は、それを当然のこととして常に国内生産を振興してきた。
◆世界各国は食料生産をいかに戦略的に確保しているか
日本は楽観的であった。米国は、対外的に食料安全保障の話なんか全くしないから、そんなことは考えていないのだというのは間違っている。米国は、100%を大きく上回る十分な自給率を常に維持しているから、対外交渉で自給率低下の懸念を主張する必要がないだけで、実は食料自給率と国家安全保障の関係を非常に重視している。そのことは、ブッシュ大統領の日本を皮肉るかのような演説、「食料自給は国家安全保障の問題であり、それが常に保証されている米国は有り難い」、「食料自給できない国を想像できるか、それは国際的圧力と危険にさらされている国だ」に示されている。
米国は競争力があるから輸出国になり自給率が100%を超えているのではなく、食料生産への手厚い支援によって、国内需要を上回る食料生産が常に確保され、かつ、その余剰食料を世界の人々の胃袋を握る武器として戦略的に活用できたのである。それは、農家の手取りは別に補填する一方で、販売価格は低くするという「隠れた」輸出補助金による「攻撃的保護」で達成されてきた。
日本の食料生産が、高関税と過保護な国内支援で守られているというのは間違いである。関税が高かったら、我々の体のエネルギーの60%もが輸入に頼るほどに、輸入食品が溢れるわけがないし、関税が低くても、国内補助が十分なら、収入が十分得られるから、担い手も育ったであろう。農業所得に占める政府からの補助金(直接支払い)の割合は、米国で5割前後、フランスで8割、スイスでは100%近くなのに対して、我が国では16%に満たないというデータがある。他の先進国が100%前後の自給率を維持しているのは戦略的な手厚い支援の結果であり、日本は保護削減の世界一の優等生であるから、自給率が下がったと整理したほうがわかりやすい。
◆掛け声では増えない米粉、飼料米、バイオ燃料米、備蓄米
しかし、現実には自給率向上は容易ではない。最大の課題は、水田の最大限の活用策が実を結ぶかである。中途半端な財政支援は貴重なお金を無駄にするだけだということを肝に銘じる必要がある。
具体的に、我が国の食料自給率の向上を考えるとき、飼料穀物の9割以上を海外に依存している以上、総合自給率を大幅に引き上げるのは困難であることも踏まえて、我が国の潜在生産力の最も高いコメを機軸にして、不測の事態に備える視点は重要である。
ただし、単純にコメ生産を増加するだけでは、それが主食用市場に回れば、米価が大幅に下落し、多くの稲作経営が窮地に陥る。そこで、通常時の余剰分は、飼料米、米粉、バイオ燃料米、備蓄米(棚上げ)などに回して、水田のコメ生産機能は維持し、可能な限り輸入への依存度の高いトウモロコシや小麦からコメへの代替に努めるとともに、緊急時には、国内の主食用、そして、国際的なコメ需給の逼迫を緩和するための援助にも回せば、日本の食料安全保障とともに、世界の食料安全保障にも貢献できる。「生産」調整から「販売」ないし「出口」での調整への移行を進めるのである。
そもそも8億5千万人もの栄養不足人口が世界に存在する下で、今回のような需給逼迫時でなくとも、平時から、日本がもっと増産し、備蓄を持ち、援助米を増やすことは国際社会における日本の当然の務めともいえる。洞爺湖サミットでも、世界的な食料安全保障の確立のために、世界的な穀物備蓄体制を強化することを盛り込んだのであるから、特に日本が生産力を持つコメについては、世界をリードして推進する責任があるといえる。
コメ備蓄の積増しについては、あらかじめ定められた一定の数値化された発動基準にしたがってシステマティックに作動する体系が望まれる。それがはっきりせずに、過剰になると対処療法的に緊急措置として行うのでは、「正直者がバカを見る」等の議論が出てきたり、関係者も前もって計画が立たない。我が国及び世界の食料安全保障に貢献するための大義名分の大きな基本的システムとして、体系的な制度に確立すべきであろう。米国では、新農業法で、飲用乳の不足払いの基準価格の算定に、飼料価格の高騰と連動して基準価格が上昇するルールを明文化したが、このような体系的な対応は、我が国のコメ備蓄積み増しのルール化にも、燃料・肥料等の生産資材高騰をナラシ対策の基準収入算定に反映させるルール化にも参考にすべきであろう。
しかし、輸入トウモロコシや小麦の価格も上昇したとはいえ、まだ国内産のコメとは大きな差額がある下で、エサ米や米粉に販売した場合にも、稲作農家に主食用米の場合と比較して遜色ない収入を確保できるような支援がなされなければ成り立たないし、備蓄の拡充にも予算が必要である。思い切った予算の再編や拡充ができない現行の財務省による査定システムを見直し、国家戦略、世界貢献として、省庁の枠を超えた一段高いレベルでの国家全体での予算配分を行うべきときが来ている。
◆これ以上の貿易自由化は自給率向上努力を潰す
しかし、こうした自給率向上努力を吹き飛ばしてしまいかねないのが、大詰めを迎えているWTO交渉である。あれほど各国の食料生産の重要性をサミット等で世界的に確認したにもかかわらず、それと矛盾する貿易自由化の加速化が同時に叫ばれているのは理解に苦しむ。昨年末にも、世界同時不況を打開するために、貿易自由化を後退させてはならないとの機運から、WTO合意に向けた動きが再び強まったが、7月時点のインド・中国と米国との対立は引きずったまま解けず、失敗に終わった。
しかし、日本にとっては、関税削減を緩めることのできる重要品目の全品目に対する割合で8%にすることを譲ったわけではないと言いつつも、4%プラス2でやむを得ない、というような論調も流れ、日本が国益として、どの水準を守るのかさえ、不明確なまま、「日本のせいで決裂したと言われたくない」というような姿勢が主張され、次に動き出したら、どうなるか、厳しい状況だという言い方がされている。
「日本のせいで決裂したと言われたくない」から主張しないというのは、どういう交渉姿勢であろうか。インドは、最後の1国になっても、小規模農業に依存する途上国の立場を守るためNOと言っているし、米国は、自分の国益が世界のルールにならないかぎり、いつも拒否する。各国は、よくも悪くも、国益のために、譲れないものは譲れないと最後まで主張している。日本がそれをできなかったら、日本は世界から軽んじられる。つっぱねてこそ、譲歩も引き出せようが、これでは相手にされなくなってしまう。
◆貿易促進と国土荒廃との瀬戸際のバランス
―国民が事態の深刻さを把握できる説明を
国内的にも、いまの状態でWTO合意が成立したら、日本のコメに、乳製品、畜産物、砂糖、でんぷん等にどんな影響があり、放置すれば自給率はどのくらい下がり、その損失を補填するには、毎年どれだけの差額補填が国民的に必要か、というようなデータをきちんと提示して、日本としてどういう選択をするのか、どの水準を砦として守るのか、国民に問うべきである。
これまで、すでに貿易自由化を進めて、貿易立国として発展した日本であるが、これ以上の自由化は、将来の日本の食料確保と国土の荒廃等への不安を勘案すると、輸出による発展で失うものとのバランスをとる、ギリギリの水準に近づいている可能性があり、一部の人々の利害に基づく判断に任せられるものでなく、日本の将来の姿を選択するために、ぜひとも国民全体の判断が必要である。それに基づいて、「WTOの先行きがどうなるか不透明だ」というのでなく、「日本がどうするのか」が重要である。全会一致でないと合意はできないのだから、日本も自らの国益に基づいて主体的に行動すべきである。そうしなければ、最初から自給率向上計画の出鼻がくじかれてしまう。
◆国民に問いたい
結局、現行のWTOルールは次第にゼロ関税を実現する流れを止める機能を持っていない。それに加えて、二国ないし数カ国間のFTA(自由貿易協定)も、日豪に続いて、日米、日EUの準備が進められている。今回の「食料危機」や、いくつもの安全性の問題の浮上により、国産食料の重要性への認識が高まっているといわれていながら、さらなる貿易自由化以前の問題として、生産資材コストの高騰にもかかわらず、十分上がらない生産物価格の下で、酪農の苦境に象徴されるような我が国の食料生産の縮小が進んでいる。それに加えて、ダブルパンチで、貿易自由化の流れが止められないとすれば、世論が追い風だといわれるのは表面だけの話で、それとは裏腹に、我が国の食料生産の縮小は止まらない。
日豪のFTAの成立だけでも、40%の自給率が30%まで下がり、日米、日EUが続くとなると、WTOベースで自由化したのと変わらなくなり、自給率は12%に向けて下がるとの試算がある。かりに輸出産業がさらに発展できたとしても、地域社会が崩壊し、国土が荒れ果てる中、食料は安く買えることを前提にして突き進むのが、日本の将来のあるべき姿なのかどうかが今問われている。これは、農業関係者が決めることでも、経済界が決めることでもなく、消費者を含む国民全体で決定すべき、我が国の国家のあり方に対する重大な選択である。
スイスの卵は一個60〜80円もするが、20円の輸入物に負けていない。ケージ飼いが禁止され、野原で伸び伸び育った鶏の価値を評価する国民が、ケージ飼いの輸入卵は安くても「本物」ではないという気持ちで支えている。さらに、農産物の価格に反映できない部分は、環境や景観の維持などの多様な側面でお世話になっている対価として市民がお金を集めて別途支払うべきという認識の下に、具体的かつ詳細に理由づけして直接支払いが充実しているのが欧州である。
我が国での従来の、漠然とした「多面的機能」論は保護の言い訳としか認識されなかったきらいがある。我が国でも、例えば、生物多様性(オタマジャクシ、カブトエビの数など)、水田の洪水防止機能・水質浄化機能、バーチャル・ウォーター(輸入農産物をかりに日本で生産したとしたら、どれだけの水が必要か)、カーボン・フットプリント(原料調達・生産・流通・消費・再利用までの全行程でのCO2排出量の表示)、窒素負荷、農村景観といった具体的な指標を共有して、食料の確保と付随して国内の食料生産が果たしている価値を一緒に認識していく必要がある。
価格に反映されない食料生産の様々な価値を理解してもらうために生産サイドは説明しないといけない。我が国の農業に対する支援がけっして「過保護」なのではないという事実を理解してもらうとともに、「農家が困る」ということではなく、国民全体の失うものを具体的な指標で提示し、支援の根拠を明確にし、生産者と消費者の支え合う信頼関係を強化し、それを国際的な貿易ルールにも反映していく努力を急がなくてはならない。
日本の消費者も、狭い金銭的な側面だけでなく、そうした価値に納得して、バラマキではない支援を理解してもらいたい。そうすれば、生産者も、自らの社会的使命(ミッション)に誇りを持って生産に取り組める。現場の農業・農村の実態は、割高でも買い支える消費者の支援とともに、消費者の理解を得られるような根拠を明確にした直接支払いの拡充等の財政支援も早急に求められる状況にある。
◆政策は現場と消費者が創る
霞が関や永田町が政策を決めるのではなく、現場が政策を決めなければ、本当に皆に役に立ち、自給率向上に結びつく政策は実現できない。同時に、消費者、一般国民が納得できる政策でなければ長続きはしない。つまり、政策を創るのは農村現場であり、消費者であることを、いまこそ肝に銘じ、本当に現場で必要なものは何なのか、どうすれば消費者が支持してくれるか、という視点から、シンプルだがポイントを押さえた効率的な対策を早急に詰めなければならない。