◆「鬱」の時代とスローフード
島村菜津さん (ノンフィクション作家)しまむら・なつ 昭和38年福岡県生まれ。東京芸術大学芸術学科卒業。ノンフィクション作家としての著書に、イタリアの食の思想を十数年にわたって取材した『スローフードな人生! …イタリアの食卓から始まる』(新潮社)、『フィレンツェ連続殺人』(新潮社)、『エクソシストとの対話』(小学館、21世紀国際ノンフィクション大賞優秀作)、昨年は、文化人類学の辻信一氏との対談に『そろそろスローフード』を出した。 |
加藤 米国の金融破綻をきっかけに昨年から世界同時不況に突入していますが、そんな状況のなか私は作家の五木寛之さんの「躁」の時代から「鬱」の時代に変わってきた、という言葉が印象に残りました。躁の時代とは高度成長、国際化、市場原理など利益をいっぱい上げていこうという時代。しかし、今は鬱の時代に変わろうとしている、鬱の時代には鬱の思想が必要だ、と言っています。
鬱には嫌なイメージがありますが、鬱蒼たる森林、鬱勃たる野心というように、「鬱」とはエネルギーが満ち溢れている状態だが、その力が出口を失っている状態を言います。では、鬱の思想とは何かと言うと、スローライフやエコロジーだ、と。
島村 そんなことをおっしゃってるんですか!?
加藤 そうなんです。鬱の時代とは心の中や足下を見つめる時代だとのことです。島村さんはスローフード運動に注目されてきましたが、実はそれは五木さんの言う鬱の時代の思想に呼応するものだと思います。まずはこのあたりから。
島村 私は実はバブルがはじけたときにほっとした一人です。やっぱりあの躁状態には乗れなかった。たとえば大型店舗をわざわざ作って、地方を壊す必要はないのではと思っていました。
最初にイタリアを取材した本で一番伝えたかったことは、貨幣経済だけではない価値観です。イタリア人のセンスのなかには、おそらくこれ以上稼ぎすぎることが果たして幸せなことか、これ以上、お客を増やしすぎると携帯電話が鳴りやまない、それは自分にとっても家族にとっても不幸であるという認識が非常に強い。そういうセンスが染み込んでいるから、小さな農家も支えようという意識が市民のなかにあるような気がします。
加藤 われわれはスピードに束縛されていて、ファストフードとは慣習を狂わしているのではないか、画一化したシステムにのった食べ物とはどういうことか、など現代の生活にいくつもの疑問を示されていますね。
島村 要するにファストフード的なもの、時間はお金で買え、というような余裕のない世界。そういう時代は、白黒をはっきりさせようとして、その間のグレーゾーンを楽しんでいない。無駄といって排除して、ゆっくりと人生を味わう時間を大事にしていない、ということです。
ファストフードは簡単、便利なものと思い込んでいますが、それはたとえば、一日かけたらカレーが美味しくなる面白さといった日常の中のささいだけれどマジカルな側面というものを自ら遠ざけている。食べることにまで、マニュアルや効率を持ち込むことで純粋に人と一緒に過ごす時間を楽しむという基本的なことからして、自分から放棄している、こんな馬鹿馬鹿しいことはない、というのがスローフードの考え方の真ん中にあるんです。
だからといって、ファストフード店なんて潰れてしまえ、とは全然思わなくて、ファストフードの店がうんと進化して、スロー化を遂げてくれれば、つまり、ファストの中にもスローな人間を大事にする側面がたくさん出てくればそれはひとつのやり方だと思います。
それから、どこも大型ショッピングセンターだらけでは、子どもたちにも、それこそ鬱蒼とした森のようなエネルギーのはけ口がないんじゃないですか。あんなつるんとした構造では。少し前なら、商店街や、自転車に乗っていけば近くに農家の人がいて、ああだこうだといえる空間があったのに、それがどんどんなくなって、効率のいいマニュアルどおりにオーダーできる店ばかりということになると、コミュニケーションもすごく味気なくなってしまう。味気なさというのは、食の味わい深さを失うことに加え、人間関係も自然との関係も味気なくなるという二つの意味があると思います。
結局、ファストフードに代表されるように食べ方が味気なくなるということは、空間も家族関係も均質化し、暮らしが味気なくなることに通じると思います。
◆コミュニケーションも変えたファストフード文化
加藤 私はちょうどベビーブーマーの世代で、米国の生活にはすごく憧れを持って育ったわけです。しかし、米国南部に駐在していた時期に各地を回って思ったことは、イメージと実際の違いです。
たとえば、ジョージア州など南部は伝統が守られていると聞いていたわけですが、当時でもマクドナルドやケンタッキーフライドチキンなどナショナルチェーンが多く「風とともに去りぬ」で描かれたようなシチューが食べたいと思ってもなかなか見つからなかった。
一方、足下を見つめるということから日本ではどうだろうと考えたとき、この国には伊勢参りがあったと思い至りました。米国では田舎の人でニューヨークに行ったことがある人は稀で、州外に出たこともない人が多い。日本は徳川時代からお伊勢参りをしていた。そして途中で立ち寄る土地の名物を食べることができたし、また、幕藩体制のなかで各藩が殖産振興をしようとしたときに、手前味噌と言われるように、それこそ全国に名産の味噌ができた。こういう文化が1600年代から発生し、それが駅弁文化にもつながった。
しかし、米国はどこに行っても同じ味で安心する。日本の食文化も最近何でも糖度計で図るようになった。こうして画一されたシステムのなかに農産物も組み込まれていくのではないか。日本の食文化には渋みや苦みがありますが、これは、日本の食文化の特徴でもあります。
さて、榊田さんは、作る食事から買う食事への移行を問題にしていますね。今の日本の食とにどんな思いを持っていますか。
榊田 食のアメリカナイズの影響は大きいと思いますが、その前にまず地域の小売り店の大型化があると思います。
ダイエーが先駆けとなってアメリカ型のセルフ形式のスーパーをつくったわけですが、あれがどうしてこんなに席巻したかといえばプロがいなくてもパートで店が運営できるからだと思います。お客さんが自分でカートに商品を入れレジに行って買えば済む。つまり、お店はパートやアルバイトでも運営できるからどんどん店を増やせる。出店するほど売り上げが伸びた時代は、これが経営にとって非常に効率的でしたが、これは買う方にとっても効率的だった。ところが、そのなかで食を通じた売り手と買い手のコミュニケーションがどんどんなくなっていき、その結果、買う側に食に対しての知識が乏しくなってきた。
昔の八百屋では、食べ方まで含めた食材の情報提供をしてくれたと思いますが、そういう情報が全然なくなったと思います。
今、スーパーの野菜売り場には約300アイテムを揃えなくてはいけないと言われています。お客さんが「あれ? ないの?」で帰られては困るという、いわゆるチャンスロスを避けようとすれば、何でもありますよ、という状態に常にしておかなければならない。
けれど、たとえば春であればレタスはないけれども、この時期のサラダなら春キャベツですよ、冬なら、ポテトサラダにキュウリを入れなくても、小松菜やブロッコリーでもおいしいですよ、といったアドバイスとともに販売すれば300も要らない。そういう要望が買い手側にないだけではなく、スーパーのバイヤーや外食のスタッフなど売り手側にも食材の知識がないし、なくても商売ができてしまうという状況です。
そのなかで、たとえば甘みをどうするかいえば、どれがおいしいかとなると、バイヤーの目利きではなく、糖度計で何度以上、というように客観的な数字に頼るようになった……。
食の外部化の問題では総菜も象徴的です。90年代前半にはスーパーの総菜は揚げ物とサラダが中心でした。煮物や焼き物はなかなか売れない、とそのころ取材したスーパーの担当者は話していました。なぜかといえば、やはり煮物には家庭の味があって、微妙に味が違うため、買って食べることに違和感があったからだと思います。
考えてみると、揚げ物はコロッケなど昔から肉屋さんで売っていたし、サラダはすでに市販のドレッシングを使っていたので総菜でも違和感がなかったのでしょうが、煮物や焼き物となるとまだ家庭で作っていて、家庭ごとに醤油とみりんの案配などそれぞれこだわりがあった。しかし、総菜の種類がここまで広がったというのはその違和感がなくなったということだと思います。
結局、味の画一化とは流通や小売りだけの都合ではなくて、食べる側のニーズもあってのことではないかと思いますね。私たちは便利さもあって調理することをないがしろにしてきたわけですが、そのおかげでものすごく味覚の幅が狭くなっているという感覚はあります。
◆食の利便性、本当に消費者のためか?
加藤一郎氏 (JA全農専務理事) |
加藤 味覚といえばルパング島から帰還した小野田さんと、かつてこの新聞で対談したときの話を思い出します。小野田さんは30年間、バナナとココナツミルク、それから年間何頭かの牛を殺しそれを乾燥肉にして孤独な戦いを続けてきた。ジャングルで生き延びるには、自分の五感を鋭くすることだと言います。
帰国後、健康的には一切問題がなく、逆にショックを受けたのは、餅にカビがはえたといえばすぐに捨てる、賞味期限が切れたら捨てるという日本の姿。日本人は五感を失ったのではないか、と。数値化されたものに頼るのではなく、自律自省が日本人の根本的精神だったと強調されていました。
そこで帰国後に始めた小野田自然塾でやっていることは五感を鋭くさせることです。夜中に山道を一人づつ歩かせる。何も明かりを付けずに。しかも裸足で。そうすると道をはずしたら草が生えているから、「ここは道ではないな」と分かる。真っ暗闇のなかを裸足で歩くと五感がいちばん鋭くなると、そういう五感教育を始めました。
榊田 私の取材でも、料理教室に集まってくるお母さんたちから、腐っているかどうかの見分け方を教えてほしいと頼まれた、という料理家の話をあちこちで聞いています。自分で判断し、食べられるものは食べる、食べられないものは捨てるという判別ができないのだと。
今、消費者のため、お客さまのためといいながら、かなりお節介になってきている感じがしますね。賞味期限表示も以前は製造年月日でした。それなら表示を見てどれくらい持つかなと消費者が自分自身で判断できたと思いますが、この食品はいつまでです、と勝手に賞味期限が付いているおかげで、それを過ぎたものは店頭に並べることができなくなってしまったし、家庭でも捨てるようになってしまった。消費者がちやほやされているようで、実は手足をもぎ取られていっているような感じがします。
一方、メーカーに取材すると消費者から非常に理不尽なクレームが出るようになったと聞きます。たとえば、牛乳でもイメージとして低温殺菌のほうがいいという人が結構いますが、低温殺菌は保存に配慮する必要がありますね。それを真夏に食卓に置いておいて腐らせ、でも賞味期限内ではないか、とクレームが来る。それに対してメーカーが管理の仕方を教えるなど、あなたにも原因があった、と言ってくれればいいですが、お客さまである以上、絶対にそれは言えないという。申し訳ありません、と新しい商品を送る。これでは食べているほうは育たず、賢い消費者になれないままです。裸の王様状態ではないかと思います。
◆在来種「折戸ナス」復活で見えたニッポン
加藤 ところで初夢で縁起がいいものを一冨士、二鷹、三茄子というようになったのは江戸時代です。このうちなぜ三番目に茄子が来るのか。実は駿府に「折戸なす」という在来種があって、これは正月に出す茄子だったんです。当時、ハウスはありませんから将軍家に献上すると一個一両にもなった。それだけ高価なものだったことから縁起がいいということになったそうです。
今、石垣いちごがありますがあれは保温のためで、折戸茄子も当時はそうして栽培し、北側には風よけになる作物を植えたり、たき火をして育てた。折戸茄子の原種は清水市農協に残っていてわれわれ全農も平塚にある営農・技術センターで300年の眠りを覚まさせました。
しかし、この茄子は元々大きさが不揃いなんですね。だからなぜ姿を消したかというと、江戸から明治にかけて品種改良が進み同じ大きさに揃えることが価値を持ち、不揃いの茄子は市場競争のなかで敗れ去っていった、ということだと思います。
島村さんは流通に都合のいい農産物づくりの問題点も指摘されていますね。品種改良してF1で栽培するということが席巻していますが、われわれは折戸茄子のような在来種を見直すことも必要だと思っています。
島村 今の話を聞いて日本は勝ったと思いましたが(笑)、イタリアには250年の眠りを覚ました在来種の話があるんです。
イタリア中部に、世界遺産にも登録されたサン・ジミニアーノという街があります。中世の搭がたくさん残っていることで知られた街ですが、これらの塔が建設されたのは、昔、地元のサフランの生産が生んだ富によるものだとわかった。なのに、今は、なぜ、誰も作っていないのだろうと疑問に思ったタクシーの運転手が、フィレンツェ大学の先生たちと一緒になって、90年代になって復活したんです。最初は、9人ほどの農家が栽培を始めて作ってみたら、サフランの格付けで「AAA」をとる最高級のものができたということです。ヨーロッパでも、在来種の見直しは、80年代半ばに起こりましたが、こうした復活劇もやっぱりあるんです。
日本は、作物をどんどんF1化したことで、非常に効率はよくなりましたが、一方で、人間が制御できない自然というものと関わりながらも、あたかも何もかも制御できるかのように考え、それを伝えてしまった。だから、消費者も言いたい放題の要求を出してしまうようになったのではないかと思います。農協も、在来種を応援し、地域性をもっとアピールしていくという方向からも攻めていかないと、勘違いしている消費者がどんどん増えるのではないでしょうかね。
加藤 在来種の特徴のひとつは均質にならないということですが、供給を従来の思考から変えるべきだとも思っています。
榊田みどりさん (農業ジャーナリスト)さかきだ・みどり 昭和35年秋田県生まれ。東京大学仏文科卒業。昭和59年生活クラブ生協連合会に就職。主に農業・ゴミ問題の記事を担当。平成2年退職後、農業・環境問題・食育等をテーマに農業誌、一般誌などで執筆活動を続ける。農政ジャーナリストの会幹事。主な著書に、『安ければ、それでいいのか!?』(共著・コモンズ)、『雪印100株運動から起業の原点・企業の責任』(共著・創森社)など。 |
たとえば、今、国産農畜産物を使う「緑提灯」の店が増えていますが、不揃いのものは、その緑提灯の店に直接持って行ってカットすれば不揃いであることは関係ありませんから。
島村 それは、気まぐれな主婦よりずっと応援団になりますね(笑)。
榊田 各地で在来種の掘り起こしはだいぶ進んできたなという印象を持っています。これはたぶん直売所が広がったことともつながっていると思います。不揃いでロットが小さくても直売所では商品になる。
それから直接、消費者に売るというよりもシェフがいてそれを使いこなせる店で在来種を使うことも広がってきていると思います。
今、消費者の間では調理技術の乏しい人が多くなり、いい食材でも、調理して食べこなすことができなくなってきました。その意味では、食業界の人と連携して広げていくことも大事ではないでしょうか。量としては多くなくても味がいいなど、きちんと評価する人がいる場から広げていく。以前JA兵庫六甲にいらした本野一郎さんが、「これからはスローフードよりスローディッシュの時代だ」とおっしゃっていましたが、なるほどと思いました。
◆食をめぐる技術の進歩をどう考えるか
加藤 一方で悩ましい問題に遺伝子組み換え農産物があります。とくに米国では主流になってきたわけですが、その米国でもパンに使う小麦は消費者が拒否するということで遺伝子組み換え小麦は少ない。われわれも飼料用の非遺伝子組み換えトウモロコシを米国で調達する事業をしていますが、年々困難になってきています。遺伝子組み換えのいい面としては、たとえば、トマトにアントシアニンを入れることによって癌などを予防するという予防医学的な機能を持つものもある。こういったものにどう付き合えばいいとお考えですか。
島村 個人的には、絶対、反対です。たとえば、ビタミン添加の米なんて、自己矛盾しています。実際、ビタミンが足りなくて目が見えなくなっているインドの子どもたちはそんな米は買えないですから。そうではなくて、リンゴ1つを食べられればいいわけです。いろいろなものを食べ合わせる伝統食で、各国の子供たちが栄養バランスをとっているという、ものすごい料理の技術と知恵があるのに、それを放棄して、そんな余計なものを作る必要はまったくないですよ。それこそ、お節介のきわみです。
榊田 私も個人的には食べたくないと思っています。ただ、防除剤耐性など生産効率のための遺伝子組み換えではなく、アレルゲンの除去米など消費者メリットを目的にした組み換え食品も登場していて、これを科学の進歩と評価するか、自然の流れに逆行するものとして拒否するのか、そこは価値観が分かれるだろうなとは思います。
今の消費者を見ていると、そういう遺伝子組み換え食品なら受け入れてもいいという感覚があるような気がするんです。今の消費者はファストフードを食べてあとはサプリメントをとる、あるいは子どものお弁当にも栄養補助食品を入れるといったことも結構出てきています。お弁当をつくるのが面倒くさいというわけではなく、栄養バランスはとれているじゃないの、という感覚がある。これも食べものを数値で考えているわけで、私は配合飼料に近いなと思います。食のエサ化です。
島村 それも、望んでエサ化している……。
榊田 だから、今までは生産効率を上げる遺伝子組み換えには反対でも、アントシアニンが摂れるならOK、という人が出てくる可能性があると思います。
けれども、先ほどの在来種の話にも関わりますが、野菜でも肉でも魚でも、別に人間に食べて下さいといって育っているわけではない。それぞれが自分の子孫を残す生命活動をしていて、それで花を咲かせ実を付けているわけです。その過程で人間が食べられるものとして、たとえばホウレンソウであればその葉を利用している。そうやって食べこなしてきた食文化の技術というか、風土の中で育まれた植物や動物と人間との付き合い方があった。それが、科学の進歩の名のもとにだんだん忘れられていっているのではないかという危惧はありますね。
◆イタリアもたどった寂れた農村からの再生
加藤 結局、農業を語るということは国のあり方を語るということだと思いますが、とくに地方は都会を支えているということをもっと分かってもらう必要があると思います。
とくに重要な機能を果たしているものに、田んぼがあります。何年栽培しても連作障害が起きないし、そして環境でもキーになっている。一方、わが国の食料自給率は40%を切った。主食用の米はどうしても過剰だということがあるので、米粉でパンを作るといったことを構造政策の中で国が思い切って政策誘導する必要がある。
島村 イタリアが、なぜ車がなくても暮らせるような町が残っていたり、近くの農業を支えようとがんばっているかということについて、私は、ずっと古代ローマやポリス以来の地方分権の歴史だとばかり思い込んできた。けれど、よく聞いてみたら、戦争に負けてアメリカのものがどっと入ってきたのは日本と同じだし、やはり1950年代、60年代にはイタリアでも劇的に過疎が起こって、自動車のフィアットなど大工場に人が吸い取られた。村によっては1000人のうち2人しか農業を継がないような時期もあったということです。
誰も振り向かないような寂れた農村を、ほとんどの地域が経験していて、今では女性誌の憧れの的であるトスカーナ地方でさえそうでした。けれども、トスカーナの人が言うには85年ぐらいに転機が訪れた。それは、外からの移住者だということです。ミラノの人たちが、子育てにはここがいい、あるいはイギリス人が環境がいいから、といって土地を買い始めた。最初は、地元の人も、なぜこんな寂れたところに、と思った。
しかし、4、5年かけて意識改革が進んで、実は私たちは豊かなんだ、環境を大事にする時代に食べ物が近くで穫れ、作られる場面もみえる、直売所もある、というように意識を変えていったら、90年代ぐらいから、若者が戻りだしたそうです。在来種の復活もその時期に呼応している。だから、日本もやれると思うんです。
日本の場合はどうも中央集権が進みすぎて、地方の人は、自分たちは文化の周辺にいるような幻想を持って育ってきた。しかし、実際にはそうではなくて、頭を切り換えれば自分たちの足下にあるいろいろなものが見えてくるわけですが、まだそこに気がついていない。90年代に、イタリア人たちの町作りで意識されたことは、大きくしないことです。いかに住みやすいかたちを残すか、巨大なショッピングコンプレックスを持ってこないで、商店街をいかに生かすか。あるいは、市場をつくるんだったら月に1回はオーガニック市場を入れようとか。そういう新しい交流の場を作ったんです。都会から移住した人、外国人、宗教の違う人がいろいろ交流することで、それが町づくりのエネルギーになったんです。
榊田 島村さんの関心がスローフードからそうしたスローシティに広がっているのは、結局は食べ物という地域資源から地域の魅力、暮らしそのものを見なおすという価値観の転換に広がっているということだと思います。
山間部の農家の人たちは効率が悪い条件のなかで農業では食べていけないと考え続けてきた。今までの農政を考えれば当たり前で、高度成長期以来、農業にも効率が求められてきた結果だとも思います。お金にならないことは効率が悪いと。
しかし、今のグローバル化のなかで効率は逆にマイナスイメージになってきて、中山間地域の効率の悪さは、農産物の大規模生産では弱みだけれど、農産物を含めて地域資源をまるごとビジネスにしようとしたとき、強みにもなる、ということに農村の外部で気づいている人は結構いると思います。
たとえば農村女性たちは女性どうし市街地の女性との付き合いがあったりして、付き合いができた女性とその子どもたちを見て自分の地域の価値に気がついている人が増えてきたと思います。もちろん、山間部の農村が抱える問題は深刻で、簡単に明るい展望があるといえる状況ではありませんが、価値観が変わる大きな可能性はあると思います。
先日、島根県の木次乳業の創業者、佐藤忠吉さんにお話を伺いました。地域活性化、とバブルのころから言われてきたけれども、「それは違う、地域活性化よりも地域沈静化が必要だ」と強調されていました。地域活性化とはお金になることを引っ張ってきて何とか稼ごうということ、そういう大騒ぎより地域が落ち着いて品格のある田舎として地に足のついた暮らし、みんなが思いやって暮らせる村づくりが大事、だから地域沈静化だ、とおっしゃるのです。その価値観に惹かれて、外部から若い世代も移住してきているんです。
島村 それは今日のキーワードの「鬱」に帰結する話ですね。ルネッサンスの理想的な知識人のあり方はメランコリアなんです。メランコリーとは鬱ですが、その本当の言葉の意味は、やはり時代をよく見通す鋭い洞察力で、何が起きているかを自分のなかでじっくり考える態度というのがルネッサンスの理想だった。それが、新しい価値観を紡ぎあげていくことになったわけです。人まかせにしないで、自分で考え、自分の暮らしから変えようということです。
◆農村の風景も発信してほしい
加藤 新春の対談のテーマで「鬱」が果たして適切かどうか分かりませんでしたが、非常に面白い話になったと思います。最後に私ども全農やJAグループに期待するものを聞かせてください。
島村 地域の魅力を感じるのはやはり食べ物だと思います。子どもたちが、たとえば大学は都会で学んでもまた故郷に帰ろうかなと思うようになるには、食べ物だと思います。郷愁と食べ物は切っても切れない関係があるのに、そうした食べ物の刷り込みというのは私たちも、その前の世代もあまりしてこなかった。
少し前まで農協の方に、この地域の名産は、と聞くと生産量の多い3つ4つの品名を言って終わりでした。そのレベルじゃなくて、自分たちの地域ですごいがんばっている農家の人たちの話が全部できるとか、在来種まで全部頭に入っているとか、本当にその地域の風景が見えるような伝え方をぜひしてほしい。
それから消費者が新しい食べ物をたくさん取り込んでいったときに、利用されないままになってしまうものも多いと思います。たとえば、みかんジュースなど最近はずいぶん出てきたと思いますが、外国からわざわざ輸入して押しつけれたものを普通のお母さんたちは、いい値段を出してすごい量を子どもに買い与えている。
一方、現地の農協に行くと、やはりみかんはそのまま食べていただかなければ、と保守的なんですね。そこは普通のお母さんたちの暮らしとはものすごくギャップがある。もう少し生活を見てほしい。新しい売り方のヒントがたくさんあるはずです。それなのに農協の直売所にコカコーラの自販機が並んでいると腹が立ちます。発想を転換すればヒントはたくさんあると思いますね。
そのキーワードは交流だと思います。いろいろな立場の人と交流して話を聞けば、もっと生産者が生き生きできるビジネスのチャンスがあると思います。
榊田 JAグループは日本の農業者のための組織でありますが、一方で日本の農業生産自体がものすごいグローバル化のなかに巻き込まれていて、加藤専務が長年担当されてきた肥料の確保の問題もそうですし、野菜の種子の自給率も2割あるかどうかですね。家畜配合飼料も自給率は1割しかないし、農家の経営が厳しくなっているのは石油依存と輸入資材の影響も大きい。
結局、そうした面では、とくに全農は、海外から資材を調達するという商社的な機能も果たしつつ、一方で、地域に密着した国産農畜産物を供給していかなければならないわけで、非常にバランス感覚が必要な立場を求められてきたと思います。
ただ、今、価値観の転換が起きていて、ロットではない価値などにも消費者の目が向き始めている。とすれば、農業を再構築していくには、やはり農家、組合員に立脚しているJAグループは、その住んでいる地域の地域資源を生かしながら、人をつなげ情報をくみ取っていくしかない。批判はあっても、農家に立脚した数少ない組織として、JAグループの存在はやはり大きいと思います。暮らしに根づいた小さなきらっとしたものにも陽が当たるような流通など、多様な取り組みを考えていただけるといいなと思います。
加藤 ありがとうございます。われわれも出口を探していきたいと思っています。
鼎談を終えて |