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新年特集号
食料安保への挑戦(3)

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【『大飢饉、室町社会を襲う!』が示す現代的課題】
食料危機にどう立ち向かったか
中世農民のしたたかさに学ぶ

明治大学商学部専任講師 清水克行氏に聞く

 世界の食料危機が迫る中で、飢餓の時代を生きた中世農民の姿にスポットを当ててみた。江戸時代と違ってなじみの薄い室町時代だが、1420年から21年にかけて応永の大飢饉があった。しかし農村の惨状をよそに首都の京都では破局直前まで支配層は飽食三昧だった。今も先進国の飽食と途上国の飢餓人口増大という構図がある。ほかにも室町時代の史料には食料と農業に関して現代的課題を照らし出すものが多い。そこで『大飢饉、室町社会を襲う!』(吉川弘文館)という歴史読物の著者である明治大学商学部専任講師・清水克行氏から、飢饉に対応する百姓たちのしたたかな生きざまなどを聞いた。

◆農業生産は停滞期

しみず・かつゆき
しみず・かつゆき
1971年東京都生まれ。
立教大学文学部卒業、
早稲田大学大学院文学
研究科博士後期課程
単位取得退学。
明治大学商学部専任
講師・博士(文学)。

 ――室町時代には農業技術が発展し、自治的な村が現れたと日本史の教科書にあります。
 「従来は鎌倉時代に二毛作、室町時代に三毛作が西日本で広がったことなどをもって生産力発展の証拠としていた。しかし表作の収穫が少ないから、裏作が増えたという逆の解釈もできる。当時は小氷期(寒冷化)とされ、農業生産は停滞期だったとの見解が有力になっている」
 「また惣村という政治的な村落が生まれて一揆を起こすようになったのは、生産が増えて暮らしが豊かになったたからだとの説明があるが、実は貧しい村や、田畑の帰属で隣村と争いを続けている村ほど自治組織が強いという傾向がみられる」
 ――応永の大飢饉の原因は?
 「1420(応永27)年春からの干ばつが主因で、これに秋の長雨などが追い打ちをかけ、大凶作となった。それ以前の数年間も天候不順が続き、産地の備蓄は枯渇していた。だが大消費地の京都には余剰食料があった」
 「京都は公家(くげ)と寺社の拠点だったが、この時代には武家の政治拠点となって、列島の富は京都の支配層に集中される構造になっていた。首都と地方の格差は大きく、支配層は飽食と浪費に明け暮れていた」
 ――現代と似ています。
 「今も途上国の飢饉の背後には内戦や独裁者の圧政があり、飢餓は『人災』といえるが、応永の場合も政治・経済構造の矛盾が災禍を拡大した」
 ――荘園で働く農民自身の危機管理はどうだったのですか。先生の著書には、年貢を負けてほしいと荘園領主に損免要求をする例が詳述されています。

◆損免要求繰り返す

他にも『室町社会の騒擾と秩序』『喧嘩両成敗の誕生』などがある。
他にも
『室町社会の騒擾と秩序』
『喧嘩両成敗の誕生』
などがある。

 「播磨国矢野荘(兵庫県相生市)の百姓は、領主である京都の東寺に対して応永27年の年貢200石(300t)を半分に減免させたが、この交渉の特徴は要求を小出しにしたことだ」
  「最初はこの年の収穫が壊滅的であると早々に見越して20石の損免つまり10%控除を求め、12月中旬(新暦)まで計4回にわたって要求を小出しにし、結局は総額50%控除を認めさせた」
  「これは損免に対する領主側の心理的抵抗を麻痺させる戦術面だけでなく、回を追って絶望的になる現地の状況を報告することで哀訴嘆願にリアリティーを持たせるという効果も併せ持っていた。東寺に残る史料(寺僧たちの会議録)からは、そんなことがうかがえる」
  ――したたかな交渉術です。中世社会の損免闘争は江戸時代のそれと比べるとどうですか。
  「江戸時代は藩主として下々の生活が成り立つようにしなければならないという統治理念があったが、中世にはそれが希薄だったので百姓自身で経済基盤を獲得していく必要があった」
  「だから大飢饉の年でなくても当たり前のように損免要求が各地で展開されていた。武装蜂起は余り見られない。交渉戦術としては過去に損免を実現させた先例や、近隣村での“傍例”を引くなどの手法があった」
  ――中世では荘園領主に加えて、今でいえば県知事に当たる守護からも労役などを課税されました。これについても先生の著書に矢野荘の減免要求が紹介されています。

◆富者に負担させる

菖蒲葺きの家
菖蒲葺きの家

 「荘民は1394年、課税を減らすよう守護に訴え、その分を高所得者である荘園の代官から徴収するようにと持ちかけた。これは“持てる者が出すべきだ”という素朴ながらも頑強な考え方に基づいている」
  ――今は庶民増税、大金持ち減税の税制ですが、それは別として、中世の農民は要求が通らない場合、逃散(ちょうさん)という手も使いました。
  「年貢を払わずに行方をくらますことだが、追っ手のかからない遠方へ逃げるのではなく隣村でかくまわれる場合もあり、近隣の村々が連帯していたことをうかがわせる」
  「荘園は治外法権だから、よその荘園に逃げ込んだら捕らえられない。そこで荘民は刈り入れを前にした損免要求の中で逃散をほのめかしたり、予告したりして代官らを脅した」
  「実際に百姓がいなくなったら収穫できないから代官らは妥協点を探すことになる。こうした争議は毎年秋になると年中行事のように起きていた」
  ――まるでスケジュール闘争ですね。室町幕府は逃散を取り締まらなかったのですか。
  「京都の天竜寺の古文書によると、応永27年に近江国建部荘(滋賀県東近江市)で大規模な年貢滞納運動が起きた。その時、幕府は荘民が近隣の荘園に逃げ込んだ場合、そこの領主に代わって幕府が糺明するという文書を出している。ほかにも、そうしたお達しが残っているが、いずれも強圧的姿勢を示しただけで実際には徹底しなかった。やがて荘園制度は崩れ、幕府権力は衰亡し、戦国大名が現れる」
  ――応永28年初頭から地方の飢えた難民が京都に集まってきたとのことですが、難民は京都に列島の富が集積されていたことを知っていたわけですね。

◆『徳』の発揮を迫る

京都・東寺には史料がたくさん残っている
京都・東寺には史料が
たくさん残っている

  「それと富裕層である将軍・武家、公家、寺社、酒屋、土倉(金貸し)など『有徳人』の施しに期待して都に流入した。有徳人は富だけでなく『徳』を兼ね備えた人物のことで、当時は徳と『得』はほぼ同義だった」 「有得人は社会に貢献して徳を示すのが当然とする考え方を『有徳思想』と呼ぶ。しかし都に難民が集中し過ぎて施しをする食糧も底をつき、二次的な飢餓状態が起きた上に疫病が流行し、死者が続出した。その後28年夏から惨禍は沈静化した」
  ――税は持てる者に負担させろというのも有徳思想ですね。
  「農民はそれを基に税を有力者に立て替えさせたりして様々な闘争形態をとった。応永の大飢饉の数年後からは徳政一揆が毎年のように土倉・酒屋を襲って債務破棄と略奪を繰り広げるような時代になる」
  「徳を発揮しない者には強制的に発揮させようとしたわけで為政者の徳政を待たずに庶民の実力行使で徳政を実現させようとした。大飢饉を経て室町人の風貌はまた一段と不敵で逞しくなった感じだ」
  ――室町時代は“村”や“町”が歴史上、初めて明確に姿を現すようになった時代でもあると評価されています。
  「災害に備えた相互扶助や祭礼などは村や町が担う重要機能とされていくが、そういった共同体機能は今、危機に瀕している。地域の危機管理という面で私たちの社会は脆弱なものになっているのではないかと思う」

(2009.01.16)