◆働き口のない若者のために農業を受け皿にできないか
ありま・いねこ 大阪府出身。1953年、宝塚から映画界に進む。1954年「にんじんくらぶ」設立。「夜の鼓」「浪花の恋の物語」「わが愛」など日本映画黄金時代の数々の名作に出演。その後、舞台に転じる。「はなれ瞽女おりん」「越前竹人形」はライフワーク。最近では、朗読公演・語りにも力を入れている。1995年紫綬褒章を受章。2003年勲四等宝冠章叙勲。著書には「バラと痛恨の日々」(自伝。中央公論社)がある。 |
かつて、専属の映画俳優を他社作品に出演させないという「五社協定」があった。これに抵抗して有馬さん、岸恵子さん、久我美子さんの女優3人が連帯。1954年に「にんじんくらぶ」というグループをつくり、出演の自由を求めて果敢に闘った。またにんじんくらぶは独立プロとして数々の名作を製作した。共に20歳代だった。有馬さんはその後、舞台女優に転向。商業演劇のスターになったが、“もっといい仕事がしたい”と今度は新劇に転じた。美人女優としての安易な道を行かずに、いつも“いい仕事”を求め、敢えて苦闘の道を選んだ形だ。その軌跡には女性組織のリーダーたちにも数々の示唆を与えるものがある。また戦中戦後、食糧難の時代を生きた少女時代の体験談も生々しかった。
◆何といってもご飯食
吉武 健康法は何かやっていらっしゃる?
有馬 太らないように腹筋運動を朝昼合計1000回と散歩ですね。若いころは“バカだ”といわれるくらい健康でしたが、今はあちこち病みます。
吉武 食べ物の好みは?
有馬 野菜をよく頂きます。それに海草類も。もちろんご飯食です。肉はめったに食べないので「それでは頭の回転が鈍くなるよ」なんて友人にいわれて、食べるようにしています。
吉武 日本人はやはりご飯食が一番なのよね。
有馬 農協新聞向きにいうわけじゃないけど、お米を食べないのは良くないことだと思います。日本人の胃腸は外国人のような狩猟民族と違って、先祖代々穀物を食べ続けてきたのだから肉食に偏ると故障するんじゃないかしら。もっとも昔は故障する前に“人生50年”で寿命が尽きましたが、今はみんな長生きだから故障者も目立つわけです。
吉武 昔はガンとか認知症になる前に死んじゃった。とにかくお米を食べていれば栄養は偏らないと医師はいいます。
有馬 お箸をうまく使えない若い人が増えて、お魚なんかきれいに食べられず、結局、残す人が多いようですね。
吉武 食料自給率が40%を切ったというのにね。
有馬 冷蔵庫に物を詰め込んで、奥に何があるのかわからないまま賞味期限切れにして捨ててしまう若い母親がいますね。私は必要な物しか買わないから冷蔵庫はスカスカです。
私たちは戦中戦後の食糧難の時代を生きてきました。だから、食べ物の大切さを知っています。世界中に飢えている人がいっぱいいるのに日本人は恥ずかしいほど食べ物を捨てています。
◆農業で食べられるように
吉武 一方で農業人口が減って遊休農地が増えています。
有馬 私は疑問に思うんですが、不況でクビ切りや新規採用の内定取り消しが増えて若者の働き口がなくなっています。その人たちは農業をやろうという気にならないのかしら。
街に失業者があふれると犯罪などにもつながります。それならば人手不足で田畑が荒れている農村部へ行って働こうという考え方ができないものかと思うのですが、世の中ってうまくいかないのね。
吉武 農業で食べていける環境づくりが必要ですね。農業や漁業等命の糧を作る仕事に夢とプライドが持てない国は最低ですね。
有馬 今のような自給率ではこの国はダメになりますね。フランスは自給率100%です。それにしても都会の若い人たちは見慣れない虫を気味悪がって騒ぎ立てたりします。そのくせ犬を飼ってウンチの世話はしているのです。
私たちの小さい時は例えばセミやコガネ虫やバッタなど、親しい存在でした。今は男の子が怖がってひ弱というか、ヘンな世の中になりました。
吉武 母親と子どもに農業体験をさせるといいのよ。命がいかに大切かがよくわかります。
有馬 輸入食品の安全性が問題になって、子どもには安心できるものを食べさせたいとマンションの屋上なんかに小さな家庭菜園をつくる方が増えているんですってね。とてもいいことだと思います。種をまいて芽が出てきたりするのを見るとほんとにうれしいじゃないですか。
吉武 農業体験があるの?
有馬 自伝に詳しく書きましたけど、私は大阪生まれですが、4歳の時、実父の姉夫婦の養女となり、韓国の釜山で育ちました。終戦間際に母が歌舞伎の方達に交じって慰問隊にかり出され、遠く満州の方へ行くため、私をソウルの親戚の所に預けたのです。家には300坪ほどの庭があり、それが畑になっていて食糧難の時代ですからカボチャやトマトなどをいっぱい作ってました。
◆米と着物を物々交換
よしたけ・てるこ 1931年芦屋市生まれ。慶應義塾大学文学部仏文科卒業。作家・評論家。小説、評論、伝記などの著書多数。近作は「ひとりの老後を豊かに生きる知恵」(海竜社)、「死ぬまで幸福でいるための12カ条」(講談社)など。 |
吉武 当時の話をもっと聞かせて下さい。
有馬 私が9歳の時に養父がなくなりました。そのため日本舞踊の師匠だった養母は踊りを生活の糧とし、戦争中は遠くソ満国境まで軍隊慰問にも出かけたりしました。私はソウルの親戚の家に預けられ、12歳の時に敗戦の日を迎えました。
養母は満蒙国境へ慰問に行ったままです。連絡もなく3週間が過ぎ、もうダメかと思っていた矢先に骨と皮のようになって風呂敷包み1つで戻ってきました。汽車が止まってしまった区間は線路を歩いたといいます。
吉武 戦争は民間人、女性子どもも犠牲にするのね。平和の尊さをつくづく感じます。
有馬 それから二人で釜山の家に帰って引揚げの準備をしたのです。玄界灘を密航して越えたんです。一方、日本の無法な植民地支配に歯を食いしばってがまんしてきた韓国の人たちの喜びようは爆発的で、そのエネルギーは恐怖に近いものを感じさせました。
吉武 無事に船に乗れたの?
有馬 16トンのいわし船で命からがら下関に着いて、そして、何とか大阪の実父母の家にたどり着きました。その後がまた大変で、お米の配給が少なく田舎へ買い出しに行き、満員の汽車に窓から乗ったこともあります。おカネでは米やサツマイモが買えず、着物などと物々交換しました。
吉武 私も同じように毎日ひもじい思いをしました。
有馬 実父は困っている人を見ると家に連れてくる、そんな性分でした。だから家にはいつも居候がいて大家族でした。私は学校から帰ると掃除をし、風呂をたき、夕飯の支度を手伝い、後片づけをし、それから宿題にかかるのですが、すぐ居眠りをしてしまう毎日でした。
◆五社協定に反抗して
吉武 学校のほうは?
有馬 夕陽丘高女(現夕陽丘高校)ですが、転校に手間取ったこともあって日本の学校のレベルについていけず、学校がいやになり、くさっていた時、友だちに誘われて宝塚を受験し、合格しました。
私は掃除、洗濯、お料理が大好きですが、それは宝塚音楽学校の厳しい規律やしつけのせいです。あそこの出身者はみな掃除と洗濯が好きです。
吉武 その後、宝塚歌劇団の娘役として活躍し、さらには映画女優として華々しいスター街道を歩むわけですね。
当時は、俳優たちが自由に他社作品に出演できない「五社協定」というのがあって有馬さんと岸恵子さん、久我美子さんの3人が、それに抵抗して「にんじんくらぶ」をつくり、また独立プロとして映画製作に取り組み、「人間の条件」(五味川純平原作・小林正樹監督)、「充たされた生活」(石川達三原作・羽仁進監督)など数々の名作を生んだだことを思い出します。
有馬 いい仕事をしたいという一念から、自由な立場で良心的な作品に出たいと勇敢に主張しましたが、女の子3人のグループとしては大したものだったと思います。
吉武 やがて中村錦之介(万屋)さんと結婚されましたが、なれそめを少しお話下さい。
有馬 ただのチャンバラスターだとしか思っていなかったのですが、映画雑誌の対談をひかえ「一心太助」という映画を見て“うまい!”と感心、そのことを話したら意気投合しましてね。その日、私の家で手料理の夕飯をご馳走したんですよ。
吉武 それがおいしかったのね。きっと。
有馬 その後、「浪花の恋の物語」(近松門左衛門原作・内田吐夢監督)で初共演したところ、撮影が始まって1週間後にプロポーズされ、いろいろもめて結局1年後くらいに結婚しました。そこで映画女優をやめましたが、離婚後に今度は舞台女優としてカムバックしました。
◆たくさんの賞に輝く
吉武 舞台ではたくさんの賞に輝きました。代表作はやはり「はなれ瞽女おりん」(水上勉原作・木村光一演出)ですね。ロンドンなどの海外公演でも高い評価を受けました。
有馬 「おりん」は24年間やりましたが、04年に芝居のほうは終わりにし、今は1人語りで5年ほど「おりん」をやっています。
吉武 1人語りは心にしみ渡ってきますね。昔の女は本や新聞を読むとき声を出していました。そうすると行間に埋もれていた意味が前面に出てきます。
有馬 瀬戸内寂聴先生の「源氏物語」も10年前から朗読しています。
吉武 私も聞かせてもらって思いました。女の人が新しい分野を開拓していく必要はありますが、1つのことをやり続けることも大切です。“継続は力なり”ですから。
有馬 10年前と今とでは読み方が違います。「源氏物語」には例えば繊細な自然描写がありますが、朗読の回を重ねると、それが人物の心理描写と重なっていることがわかってくるのです。
吉武 女優としてひたむきに生きてきた自分の足取りを改めて振り返ってどうですか。
有馬 目の前に「源氏物語」とか「おりん」という作品、つまり勉強する対象があったから、ここまでこれたと思います。その作品にお客様が感動し、泣いたり笑ったりしてくれるのが大きな喜びでした。
吉武 JAの女性たちも自分が作った農産物を名前と顔写真入りで店頭に並べ、消費者がそれを「おいしかった」と評価してくれることを大きな喜びとしています。
有馬 その点では農家の女性も舞台俳優も一緒ですね。
インタビューを終えて 本当に何十年ぶりの再会だろうか。有馬さんとお会いしたのはどちらも20代。当時わたくしは東映の宣伝部に籍を置き、昭和35年に日本初の宣伝プロデューサーに抜擢された。その第一作が田坂具隆監督の「はだかっ子」。その作品の主役が有馬稲子さんだった。有馬さんは知性派の女優として人気を博していた。気持ちよいほど頭の回転が速く話をしていて飽きることがなかった。対談を企画して婦人雑誌に売り込もうと考え「誰がいいですか」と聞いたら「小田実さん」という答えが返ってきた。小田実さんも相手が有馬稲子と聞いて二つ返事で引き受けてくれた。対談は山の上ホテルで行われたが知性派同士の対談はまことに耳に心地よかった。 |