◆女は女にやさしく
おちあい・けいこ 1945年栃木県生まれ。1967年文化放送入社、アナウンサーを経て作家生活に入る。行動する作家として活動。「クレヨンハウス」、自然食材の市場、女性の本の専門店「ミズ・クレヨンハウス」などを主宰。近著は『母に歌う子守歌 私の介護日誌』(朝日新聞社)、『崖っぷちに立つあなたに』(岩波書店)など多数。 |
吉武 私は“女が女にやさしくなくてどうするの?”と問いかけきましたが、これについて落合さんはいかがですか。
落合 やさしさの実行にはエネルギーがいるし、自分をコントロールしなくてはいけないから大変ですね。でも、次世代に伝えていきたいテーマだと強く思います。
吉武 引き継いでいくことは重要ですね。私は世の中を変えていくのはフルマラソンではなくて駅伝だと思うの。
落合 私の祖母がそうだったのですが、昔は農家の「長男の嫁」はつらかった。大家族の中で、みんなに食事をさせ、自分が食べる時は後片づけをしながら、水をかけたご飯をすすり込むといった毎日。
「姑さん」は自分も同じ経験をしてきたのですが、「嫁」のつらい思いを自分の代で断ち切ろうとはなかなか考えずに年を重ねてしまうケースも少なからずありました。これはある種のハラスメントです。
そういうことに気づいた女性たちは、女性であるが故に背負わざるを得なかった悲しみや無念さ、憤りを断ち切るために声に出す、書く、あるいは語り合う。とにかく女性はもう1度、言葉を獲得して伝えていく、あるいは自分と会話する習慣を大切にしたいです。このことは私も私より年上の世代から教えられ、受け継いだ課題です。
吉武 私は前を走る佐多稲子さんとか石垣綾子さんらの背中を見ながら走って来ました。
落合 私は吉武さんらが拓いて下さった道を歩いていますが、次世代に向けてもっと平らな道をつくりたいと思っています。
吉武 お母さんの介護のお話をお聞かせ下さい。
◆介護サービス低下
落合 在宅介護を7年続けていました。母は祖母を在宅で介護していましたし、母もまたそれを望んでいましたから。『母に歌う子守歌』と『母に歌う子守歌・その後』(朝日新聞社)にも書きましたが、母に歌ってもらった子守歌を今度は自分が母に歌いたいとの思いがありました。JAも介護事業はやっていらっしゃるけど、母を取り巻く人間関係が大変でした。
吉武 どういうふうに?
落合 介護には医師、看護士、介護士、ケアマネージャーなどが関わりますよね。母の場合は在宅医療がまだ不十分の時期でしたから何をやってよいのかわからない医師もいたのですよ。
また医師が患者の上に位置するという家父長主義(パターナリズム)、支配構造がまだまだ残存しているのも事実です。質問をすると余りうれしくない顔をされたりしました。それには私の今までの生き方からして納得できず、そんな人間関係にも疲れました。最後の2年間はそれは素晴らしい在宅医療の医師に出会えて、それが私の現在の支えです。
母の面倒をみるために仕事の時間を削ることは私の中では問題ではありませんでした。
吉武 最初、介護保険制度は介護の社会化をねらったのですが、農村へ行くと、それまで無料だった施設が制度化によって有料になりました。
一方、姑を施設に入所させようとすると「あそこの嫁は姑の年金をねらっている」などと周りからいわれたりします。介護の社会化が“嫁の社会化”になってしまったのよね。その後も制度は改悪されました。
落合 制度改変のたびにサービスが削られていくのを見るとまだまだ声を上げなければいけないことがたくさんあります。
吉武 嫁いだ娘たちが実家の母を介護したいと思っていてもそれができずに、ある種の後ろめたさを持っている場合、介護をしている兄嫁のことを「気が利かない」とか何とか悪口をいうケースもあります。
ところで麻生太郎首相が、健康管理を怠るお年寄りのために保険料を払うのはいやだ、などと失言しましたが、あんな言い方はありませんよね。
よしたけ・てるこ 1931年芦屋市生まれ。慶應義塾大学文学部仏文科卒業。作家・評論家。小説、評論、伝記などの著書多数。近作は「ひとりの老後を豊かに生きる知恵」(海竜社)、「死ぬまで幸福でいるための12カ条」(講談社)など。 |
◆祝福されない長寿
落合 最悪ですよね。小泉・安倍・麻生首相とここ3代の首相はみなアメリカ風新自由主義、弱肉強食の強者の論理を展開しています。病気になりたいと望んでいる人は誰もいません。“寝たきり予防”という言葉にも異議ありです。自分も家族も予防をしなかったから寝たきりになっちゃったと、苦しい中におられる方が更に自分を責めるしかなくなりますよ。ただでさえつらい人を、さらに言葉で攻撃するなんて心ないことです。長寿なんて言葉を使えない時代になったことは無念です。
吉武 “老い”には個人差があるのに年齢で「後期高齢者」という区分をし、医療に差をつけました。結局は“カネのない老人は死ね”ということになるじゃありませんか。
落合 それでいて“国を愛せよ”なんてよくいえる、と。
吉武 ほんと。それに若い人たちの仕事もまた派遣切りなどでどんどん奪われています。
落合 その上にね。若い人たちの社会保険料負担などが重くなるのは高齢者が増えるからだといいますが、その前に税金のむだ遣いをなくすなど国のやるべきことをやって下さいといいたい。ほんとうに。
吉武 高齢者と若者はある意味で社会的弱者ですが、そこに対立関係を持ち込んで、手を結び合わないようにしています。
落合 そうなのね。仮想敵を設定して、対立構造をつくり、自分たちの責任を果たさないのは権力の1つのやり方ですね。「お姑さん」と「嫁」を対立関係にしたのも戦前の家族制度からきているものです。
ほかにも声の小さな者同士を対立させ、ある部分のガス抜きをし、同時に自分たちの無策を隠しちゃうのは卑怯です。
◆迫力ある農業女性
吉武 喜怒哀楽の中で人間の尊厳にいちばん関わるのは「怒」なのよ。だから女には長い間、怒りを禁じて来ました。そんなことから私は恐いおばあちゃんになろうと思っているの。
落合 もっと異議申し立てをしていかなくちゃ。
吉武 あきらめることは戦争協力にもつながります。
落合 そうですね。農村地帯の女性から、こんな絵手紙をいただいたことがあります。「ありがとさん、ありがとさん、花が咲いたよ、私も咲くよ」と書かれていました。
年配になるまで子どもができなくて「嫁」の資格がないといわれ、長い間、新しい生き方を模索してきた70歳代の方です。「私も咲くよ」って素敵ですよね。
私は33年「クレヨンハウス」をスタートに女性の本の専門店等をやってきましたが、20年ほど前から有機野菜の八百屋もやっています。イベントの時などに集まってくれる農業女性はみな元気にがんばっておられる方々で輝いていますね。迫力があります。有機の農家には後継者もできています。
吉武 どうして有機野菜を売るようになったの?
落合 40代初めにアトピーとかで体調が悪くなったのがきっかけです。それに子どもたちは自分で安全な食品を選べないでしょ。クレヨンハウスにはオーガニックレストランもあります。また食料自給率の向上にわずかでも寄与できればいいなあという思いもあります。
生産者の中には、中央官庁の方が突然、辞めて有機農業を始めた方もいます。妻と一緒に命の大本を作って生きていくほうがいいからだというのです。かっこいいなあと思いましたね。
吉武 いい男もいるもんよね。ところでクレヨンハウスはなぜつくったのですか。
◆命の原型に触れて
落合 文化放送にいる時に取材で海外にいくと、各市に1店ずつくらいは子どもの書店がある。「うちのパパがここで子どもの頃に本を読んだ」と聞いて、そんな店が日本にも欲しい、と。自治体などに打診しましたが、子どもの本屋なんて誰もわかってくれない。
他の誰もやらないなら、自分でやるしかないと考えて、著書の印税をもとに東京・青山と大阪・江坂にクレヨンハウスをつくりました。それから今度は女性の本のコーナーを設け、それを独立させて女性の本の専門店もつくりました。それから絵本の出版やオーガニック生産物の流通、また環境ホルモンフリーのおもちゃも扱うようになりました。
吉武 最近のことですが、冷蔵庫に入れておいた花の種子が生きていたのですって?
落合 母のベッドからよく見えるベランダに季節の花を咲かせようと通販などで種を買い込むのですが、いざ、まこうとすると、きまって母が体調を崩し、4年間、時期を失しました。
でも捨てたくないので和紙でしっかり包んでビニール袋に入れ、冷蔵庫の野菜室に保管して結局4年分で合計80袋以上をためてしまったの。
昨年10月初旬、ようやく余裕ができたので、ダメかとも思いながら、種を捨てるのはいやなので、まいてみました。すると1週間後には全部の種類が芽を出したのですよ。1万本以上あるんですよ。
吉武 冷蔵庫の中で4年間生きていたのね。
落合 芽が出た瞬間は本当に感動しました。その後も日に日に育ってくれます。命の原型に触れたり見たりしているということは何と豊かなことかとつくづく思います。
インタビューを終えて 落合さんとのお付き合いはかれこれ30年近くになるのだろうか。そもそも2人の友情は怒からはじまっている。落合さんの小説に「ザ・レイプ」がある。ある映画会社が映像化することになった。レイプは女性の人権侵害との立場に立ち、その思想を貫いた小説であるだけに、その思想、主張がゆがめられてはならないと、シナリオを読ませて欲しいと要望していたのに、贈られてきたのが試写会の招待状だった。できあがった映画を見てまさに怒髪天をつく怒りが迸った。なんとレイプをされたヒロインにレイプを愛の1つの形と語らせていたではないか。直ちに上映禁止の申し入れをしたが、「落合恵子殴り込みをかける」などといった調子で面白おかしく新聞に書かせ、逆に宣伝に利用したのである。彼女は法廷闘争に持ち込んだ。そのことを新聞で知ったわたくしは心から後輩に感謝したのである。わたくしの戦後は占領軍の集団性暴力からスタートしていた。理不尽に自分の意志を踏みにじられたという怒りは今も消えやらず残り続けている。だからこの後輩の怒りが涙が出るほど嬉しかった。赤いばらの花束に「一緒に闘いましょう」というカードを附けて贈った。 |