日本の国際貢献は
軍事力でなく食料生産で…
◆水の価値を見直して
加藤 カリフォルニアには鯨岡辰馬さんが経営していた国府田農場があり、全米ナンバーワンの評価をうけた「国宝ローズ」を生産・販売していました。
國弘 私も鯨岡さんの名はよく知っています。三木武夫元首相の愛弟子で、のちに環境庁長官をやられた鯨岡兵輔さん(故人)は、たしか縁戚です。
加藤 米国ではインディカ米(長粒種)の生産が7割を占め、私が駐在したタンパでは、日本人の口にあうカリフォルニア米を手に入れるのが大変で、ニューヨークに出張した時に「国宝ローズ」を買って帰るのが常でした。しかし鯨岡辰馬さんは「カリフォルニアの稲作はいずれ崩壊しますよ」というのです。
そのわけは水です。雨が少ないから地下水を取っているが、やがては飲料水もひっ迫してくるという事情を説明してくれました。
さらに「日本は水に恵まれ過ぎているため、水の価値を忘れているが、そこを見直さないと日本の農業は危ない」ともいいました。
三木さんにも、そういった思いや予見があったのかも知れません。
國弘 恐らく、そうだったろうと思います。
加藤 鯨岡さんは90年代初めに墓参りに日本に一時帰国し、文藝春秋に「米の市場開放は危険である」と寄稿され、その後「コメ自由化はおやめなさい」という本を出版されました。
國弘 そうですか。それは先見の明ですね。自分の農場経営の体験に基づいた立派なご意見です。
加藤 國弘先生は歴史家のトインビーさんにインタビューされていますが、その中で日本国憲法についてトインビーさんは「これほど時代を先取りした憲法はない」と語られました。
國弘 その通りです。トインビーさんは英国の世界的な歴史家で、たくさんの著書があり、私が大変尊敬している人です。
加藤 そしてトインビーさんは「日本の国際貢献は軍事力でなくても農業や科学でもいくらでもある」とし、さらに農地という食糧の生産資源は有限であり、今後とも食糧については国際的に不安定な状況が長期的に続くだろうと想定しています。
(写真)上:JA全農代表理事専務 加藤一郎氏
下:英国エディンバラ大学特任客員教授 國弘正雄氏
◆マッカーサー将軍VSオワ教授
國弘 トインビーさんは日本の農業に大変な関心を持ち、例えば日本に来た時は和歌山にある近畿大学の食糧・農業の研究所へ行きたいとわざわざ注文をつけました。歴史の中でも、とりわけギリシアを専門とした学者がなぜ? とみな首をひねりました。
しかし私は食べ物の問題を基礎に置かない歴史家なんてクソ食らえという考えですから、何となくトインビーさんの気持ちがわかりました。だって生存の基礎は食べ物ですよ。それを大トインビーは見抜いていました。とにかく私は近大の研究所へお供しました。
トインビーさんは、日本の果たすべき国際的役割は軍事力の強大化などではなく、食糧生産という最も平和的な、しかも最も基本的な営みの分野にあるとし、そこでの貢献を期待しました。
加藤 話題を変えますが、私は米国駐在時代、日米協会の理事をした時に、同協会の会長だった南フロリダ大学のオワ名誉教授と懇意にさせていただきました。オワ教授はマッカーサーとともに来日した当時の青年将校でGHQ(連合軍総司令部)の教育制度改革担当でした。マッカーサー司令長官は、日本人が戦争を起こしたのは国際社会との会話ができなかったからだ、だから今後は日本語をやめて英語を使うようにすればよい、といったそうです。 オワさんは「文化の根源は母国語にある。私は日本国民を今後、民主主義の象徴にしたい」と反論し、安倍能成文部大臣とともに当時、米国で最も先進的な教育制度(六三三制)を日本に導入した方です。その後、私にも「国際人になるにはまず母国語の勉強と母国の文化の勉強が大事。英語はその次だ」と語っていました。
國弘 全く同感です。全世界の82%くらいが英語を理解していますが、便宜上そうなっているに過ぎません。頭にくる状況です。
一番大事なのは母語です。別に国粋主義的にそういっているのではなく、その反対の立場から、母語がきちんとできなくて外国語が身につくわけがないと私は確信しています。
◆米国なら訴訟続発?
國弘 「お前がそういうことをいうと影響が大きい。まずいよ」と友人はたしなめますが、日本の英語教育の専門家たちは、何よりも英語が一番という妄想にとりつかれて国語のことをいわないのですよ。
加藤 昨年、オワ教授とお会いした時、日本の農政課題の一つは農業の生産性向上のため、農業経営の大規模化をめざし、担い手に土地の集積をおこなうことですとお話ししたら、連合軍の占領政策で日本は農地解放をやり、小作人に農地を分けて自作農としたが、その思想は「民主主義の基本、国の基本は家族農業」にあるといいました。この政策転換に対してオワ教授は「これが米国だったら訴訟になる」と論評しました。
かつての大地主からすれば、泣く泣く農地を小作人に分けた、それが今は国の政策で逆に大規模化へと集約が進んでいます。それに対して「旧地主たちはなぜ訴えを起こさないのか」というわけです。
私は、日米を比較する中で、そんな見方もあったのかと意外でした。答えは頭に浮かんできませんが、国の政策とリーダーシップ、これは間違えると大変だとも思いました。
國弘 米国だったら間違いなく訴訟問題ですね。私は余り好きじゃないのですが、米国では何でもかでも訴訟です。
加藤 ここで、日本農業、JAグループに期待するものがあれば、ぜひお聞かせ下さい。
國弘 まずは「がんばって下さい」という激励の言葉を贈りたいと思います。 それから、これは教育問題に関わりますが、若い人たちが食べ物を粗末にしないように啓蒙運動の展開をお願いしたい。それはみなさん方の仕事の1つであると思い、期待しています。 若い人たちが平気で食べ物を粗末にするのは、私にいわせれば両親が悪いのでしょう。食べ物の大切さを教えないのです。
◆「もったいない」運動
國弘 昔はご飯を1粒残しても「もったいない」と親から怒られました。アフリカのある女性は「もったいない」でノーベル平和賞を取りましたが、これは私の好きな言葉です。しかし、もったいないという発想や考え方は今やなくなってきたのではないか。
私たちの飢餓世代は、もったいないことをするなと親に教えられ、さらに飢餓という原体験を通し、身をもって食べ物の尊さを知りました。
そういう戦争体験は2度としてはなりません。だからこそ啓発運動の積極性が大事なのです。私が教えている学生は、いうことをよく理解してくれます。私が原体験を語るからだと考えています。
今後、食べ物はどう考えても世界的に不足します。80億人、90億人の食べ物を作ることは条件的にムリです。先ほど水の問題が出ましたが、残念ながら、それが現実です。そして土壌の崩壊は決定的です。
戦争体験の中で、皮肉にも後になって有難いと思ったのは自宅(東京・小石川)の小さな庭でいろんな野菜を作った原体験です。ハツカダイコンの味なんて忘れられません。トウモロコシ、ナス、キュウリ、トマトなども作りました。食料がなかったからやむを得ず作ったのですが、それが多少なりとも農業的な原体験になっています。私の人生にとってのメリットだったといえます。
◆ケネディの肩に霜
國弘 それから私が通った池袋の豊島師範付属小学校(後の学芸大付属小)と府立六中(後の新宿高校)にも農場と農業体験のできる施設があり、そこでも畑仕事をした体験があります。
加藤 先生にはたくさんの顔があり、貴重な体験の数々を著書に書かれていますが、その1つとしてケネディ米国大統領ともお会いになりましたね。
國弘 あれは第2回日米経済閣僚会議がホワイトハウスで行われた時のことです。日本側の閣僚は大平正芳(団長)・田中角栄・宮沢喜一さんで、後に3氏とも総理大臣になりました。
ケネディ大統領は背の高い紳士で、アイルランド系とすぐわかる赤毛でした。私は生産性本部のスタッフとして通訳の一員でした。 私はケネディさんと握手をしましたが、大統領の両肩が頭のフケで真っ白になっているのにはびっくりしました。ちょうどキューバ危機の時でした。米国と旧ソ連の間であわや核戦争かという事態でした。
未曾有の緊迫感の中で大統領はのべつ幕なしに頭をかきむしっていたのだろうと憶測しましたが、霜が降りたようになっていた両肩の白さが今も強く印象に残っています。体裁などを考える余裕すらない決断。国をひっぱるリーダーシップとは何かを、垣間見た気がします。
加藤 アポロ11号の月面着陸(69年)の時の同時通訳が印象に残っておりますが。
國弘 あれはね。アポロ11号からの通信がいくつもの中継地を経由していることと、当時の通信機材が今のように高性能ではないため、ただガーガーという雑音だけで宇宙飛行士の言葉は全然といってよいほど何も聞こえなかったのです。
しかし映像は口がパクパク動いているので「とにかく何かしゃべってもらわないと困る」とNHKにいわれて、その場をとりつくろったのです。だから意訳というよりも、言葉は悪いけど口から出まかせの“同時通訳”だったのですよ(笑い)。(終わり)
対談を終えて
今回の対談は國弘先生が体調を崩され、一時延期された。ご家族の方からは、まだ、しばらくは無理だとのお話しがあったと編集者から聞いた。そんな中、先生から、もう大丈夫だから対談をしようと連絡があった。「食糧問題には重大な関心があり、自分の体調などかまっておれない。話をしたい」。
対談中、戦中・戦後の食糧難時代に話題が及ぶと、先生は涙ぐみ声がかすれて、合掌された。飢餓世代が次世代に伝えたいとの使命感に鬼気迫るものを感じた。日本に飢餓の時代があったことも知らない飽食の時代。母親が自分の反物をもって、農家に食べ物の買い出しに行く。「今夜は、何が食えるか。」楽しみに待つ子供。しかし、母親の姿を遠くから見てわかる現実。そんなことが、ほんの半世紀前にあった国、日本。食糧自給率39%。
かつて、精力的に飛び回っていた國弘先生も、体力を落とされた。しかし、「烈士暮年に、壮心已まず」の心意気は高い。先生の飢餓世代からのメッセージをしっかりと受け止め、世代から世代に伝えなくてはならない責任を痛感した。
(全農代表理事専務加藤一郎)
(前編はコチラから)