「分裂・対立・競争」一辺倒から
「連帯・参加・協同」の拡大へ
社会的使命を担う協同組合
◆新たな構造問題
――「新たな協同」という言葉が、今秋のJA全国大会議案にも使われていますが、色々な意味で使われており、その実体が資本間提携に過ぎなかったりもします。JA自身の協同の中味が問われる中で「新たな協同」によって今の社会の状況を変えていく力を導き出すのは難しいテーマだと思います。しかし本当は、それがJAの生き延びる道だとも考えられます。
日本では、貧困のアリ地獄から抜け出せないという状況がつくられており、一体何のための小泉「改革」だったのかが改めて根本から問い直されています。今日は最初に世界経済の危機の原因を掘り下げていただいて、その上で、新しい社会を展望する時の基本的な考え方を語っていただきたいと思います。
最後に、国民が豊かになれる社会の仕組みづくりをどう考えていけばよいのか、協同組合の役割や、どこから踏み出せばよいのかという実践や教育、農村の位置づけなどを話していただければ有難いと思います。では内橋先生からお願いします。
内橋 いま問題提起のありました、何のための改革だったのか、また小泉構造改革は私たちの社会に何をもたらしたのか。その実態を明らかにしておくことが、そのまま「新たな協同」とは何か、模索をつづけるJAにとってたいせつな道標となるはずです。
小泉構造改革によって破壊された「社会統合」ひとつ、これからどうやって取り戻していくのか、協同組合の社会的使命を抜きにして未来を語ることはできないでしょう。
まずは、小泉構造改革が国内経済社会に与えた「衝撃的な破壊」の現実から認識しておく必要があります。小泉改革は構造改革と称しながら、根源的な構造問題は何ひとつ解決することなく、次の、新たな、もっと深刻な「構造問題」を生みつづけた、歴史にも希(まれ)な政権だったということです。
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経済評論家 内橋克人 氏
うちはし・かつと 1932年生まれ。新聞記者を経て現職。マスメディアなどで活躍。著書は『もうひとつの日本は可能だ』(文春文庫)、『悪夢のサイクル』(文藝春秋)など多数。
◆防波堤掘り崩す
“21世紀日本”は、この新たな構造問題を解決するのに、これから膨大なエネルギーと社会的コストの負担を迫られるでしょう。
たとえば、今回の世界経済危機。海を隔てたアメリカが震源地であったはずが、先進国のなかで最大の被災地は日本でした。国内総生産の落ち込み、働く人びとの悲惨、貧困マジョリティ(多数派)の輩出、その厳しさにおいて、かのアイスランドをさえ上回る、はるかに深刻なものでした。金融立国を標榜したアイスランドが、今回の危機を境に、外資のいっせい引き上げに遭い、経済破綻したことはよく知られているところですが、その社会においてさえ、日本の派遣切りのような苛烈なクビ切りは起こっておりません。
なぜこうなったのか? ひとことでいえば、tsunami(今回の経済危機は津波と呼ばれる)に備える「防波堤」を内側から掘り崩してきたからです。「グローバル化追随」を「改革」という言葉にスリ替え、本来、国家として整備しておくべき強靱な防波堤を自分の手でせっせと内側から崩してきた。
第一に「労働の解体」です。働く者の間に先進国でもマレな、たとえば正規雇用と非正規雇用という格差と差別を制度化し、さらに後者を解体して「コンチンジェント・ワーカー」(最末端の組織なき日雇い労働)へと突き落とした。著名な学究者たち、規制改革推進会議とか経済財政諮問会議などに蝟集した面々が、時の政権と財界の意思を見事に体現して「防波堤つぶし」への道を掃き清めました。
◆不均衡国家、日本
第二に、「均衡ある国土の発展」という理念の放棄です。「大都市集中、何が悪い!」派が政治の中枢部を占拠し、官邸独裁を強行しました。「21世紀ビジョン懇談会」のように竹中平蔵氏の主導する「私的懇談会」が、「自治体間市場競争」なる迷文句をひねり出し、中央と地方の格差拡大を促進した。「みせしめの夕張」も産物の一つです。論者たちはそろいもそろって農業改革という名の「日本農業不用論者」という点で共通しておりました。過疎地からの人口流出は止まらず、農業の担い手が消えていく。それでもなお「格差ある社会は活力ある社会」というレトリックを唱え続けた。
第三に、「所得移転の構造化」です。家計部門から金融・企業部門へ、と移転された所得は、長いゼロ金利政策ひとつとりましても、壮大な規模にのぼっています。90年代初頭の金利水準が今世紀初頭まで続いていた、と仮定すると、本来、家計が「得べかりし所得」が331兆円も他のセクターへと移転され、消えてしまった。労働分配率の引き下げ、所得再分配政策の拒否、社会保障体系の削ぎ落とし・・・。グローバルズ(日本型多国籍企業)に政策支援を集中し、ローカルズ(地域密着企業)との間に天文学的格差を生んだ。
以上、三つの新たな「構造問題」が、日本農業を支える柱のまんなかを「すかすかの鬆(す)」にしてしまった元凶です。事態はますます深刻になり始めています。
こうして生まれたのが「不均衡国家・日本」でした。企業部門と家計部門、都市と地方、工業と農業、同じ働く者同士…その間に生まれた余りに大きなセクター間乖離(かいり)によって、極めて不均衡な経済社会になってしまった。重大な問題は、こうしたことの結果、私たちの社会が自分の力で景気を回復していく「自律的回復力」の喪失という、大き過ぎる代償を支払わされる羽目に追い詰められたことです。つまり、日本は自分自身の力で景気を立ち直らせていく力を失いつつあります。
◆歴史的な転換期
最近、小泉、竹中氏らを含めて、小泉政権を担った元閣僚たちが、現・麻生政権に揶揄や糾弾の声を浴びせたりしていますが、これほど滑稽な風景はありません。時限爆弾をしかけた張本人が、やがて時をおいて、予定通りその爆弾が炸裂する、これに狼狽する現政権の姿をみて嘲笑しているわけですから。いま、炸裂している時限爆弾のそもそもの仕掛け人は誰だったのか、国民は忘れてはならない、と思います。
不均衡国家、自律的回復力の喪失、社会統合の崩壊―「新たな協同」を口にするのならば、避けて通ることのできない日本の現実ではないでしょうか。
――では神野先生お願いします。
神野 私は日本の今の状況を恐慌といい切っています。恐慌には循環型もありますが、歴史の大きな画期を示すクライシスもあります。それをグリーンスパンは「100年に1度の危機」と指摘しています。
私の教え子のアンドルー・デビットは新しい著書の中で、世界の株価の下落率、製造業の生産高と、貿易量の落ち込みなどをグラフに表すと、1929年の世界大恐慌と同じような、あるいはそれ以上の落ち込みであることを明らかにしています。それはこの恐慌が1929年の恐慌と同様、現在が歴史的大転換期であるとのシグナルを送っているのだと思います。
日本政府は最初、アメリカ発の金融危機の日本への影響を軽く見ていましたが、その後、金融恐慌の影響が世界でも最悪であることを認めました。最悪と認めざるを得なかった状況をもたらした日本の経済政策や、これまでの構造改革を含めた過ちを考えていかないといけません。
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関西学院大学教授 神野直彦 氏
じんの・なおひこ 1946年生まれ。東京大学大学院経済学研究科博士課程終了、同大学院経済学研究科教授などを経て現職。財政学専攻。著書は『人間回復の経済学』(岩波新書)など。
◆経済秩序の崩壊
今回の恐慌は明らかにパックスアメリカーナの終わりを告げています。つまり、第2次世界大戦後、形成されたアメリカを中心とする世界経済秩序の最終的な崩壊なのです。
1929年恐慌で最終的に終わったパックスブリタニカは工業社会を築き、軽工業を中心にできあがっていた産業構造をベースに、世界が金本位制によってイギリスを中心に結ばれていた世界秩序です。
それと違ってパックスアメリカーナは重化学工業を基盤にし、また大きな政府といわれる福祉国家を形成して、それがブレトンウッズ体制という金本位に代わる管理通貨とアメリカだけが金兌換をするという体制によって結びつけられていました。パックスブリタニカは新興国家の登場で動揺を始め、第1次世界大戦後には金本位復帰にみられるように、もとへ戻ろうとする運動が起きましたが、結局は行き詰まって29年恐慌に結びつきました。
歴史のアナロジーに学べば私は1973年のできごとが象徴的だったと考えます。このあたりからアメリカ中心の世界経済秩序が完全に動揺し、その秩序を回復しようとする動きが新自由主義的な政策だったというわけです。
それが最終的に行き詰まったのが今回の恐慌です。73年には3つほど大事件が起きました。
1つは石油ショックで、自然資源多消費型の重化学工業のいわば行き詰まりを示すできごとです。
次に固定為替相場が変動相場に移ってブレトンウッズ体制が崩壊したことです。
もう1つ重要なのは9月11日にチリのアジェンデ大統領が惨殺された事件です。
◆福祉国家の戦略
これは戦後の再配分国家としての福祉国家を支えてきた重要な要素である労組とか民主主義的な勢力の動きを暴力で否定した事件です。
この3つの事件以後、新自由主義的な政策が躍り出たわけですが、結局はうまくいかなかったわけです。
新しい産業構造がBRICsで生まれたわけではなく、世界経済は生産の軸として自然資源多消費型の重化学工業を包み込んで、そこに乗っかってきたが、今度の恐慌で、それはもうダメだといわれたかたちです。
それから、新自由主義の勢力が大きくなっていく過程で福祉国家の戦略には3つほどのパターンが出てきました。
S・P・アンデルセンという人の「福祉国家の類型化」の中で通説化されているので、それに沿っていえば、1つは社会を全面的に市場に任せてしまおうという、レス・ステート、モア・マーケットつまり「政府を小さく、市場を大きく」という19世紀に引き戻すような戦略です。
これはアングロサクソンモデルで小さな政府を志向し、社会保障関係費のウェイトを小さくしてしまう国です。
2つ目はフランス、ドイツなどのヨーロッパ大陸モデル。3つ目は社会民主主義モデルといわれているスカンジナビアモデルで、ともに大きな政府です。
新自由主義の考え方は通常、政府を小さくすれば経済成長し、大きくすれば成長しないとしていますが、成長は政府の大小に関係ありません。
小さい政府の日本は02年からの平均成長率が低く、大きな政府のドイツ並みです。同じ大きな政府のスウェーデンは21世紀になって成長を続けています。
◆自己責任とは?
格差と貧困率というもう1つの指標を見ると、小さい政府のアメリカは格差も貧困も大きいが、経済成長では成功しています。スウェーデンは格差も貧困も極小で、ドイツもまあまあの成功です。
これらに比べすべての指標で失敗しているのは日本です。
また財政をみると、スウェーデンは黒字。アメリカやドイツは赤字に苦しんでいますが、その二倍ほどの財政赤字(GDP比)を出しているのが日本です。
こうみてくると日本は完全に政策のカジを切り間違えています。だから経済危機の衝撃も大きいわけです。
スウェーデンでは新しい次の社会を内包する運動を持っていたがために、それほど深刻でもなく、世界的な危機をしのげそうです。
私たちは、どことどこを学ぶべきか、歴史からきちんと清算しなければなりません。
――今は、現状をどこから変えていくか、はっきりしない状態にあります。これまでいわれてきた言葉も見直してかからなければいけません。例えば小泉改革では「自己責任」と言う言葉で、それは▽お前の能力と努力が足りないから貧しいのだ▽努力しない農家がいるから食料品が高いのだ▽才覚のある人の農業経営はうまくいっているーということで非効率的なことや、うまくいっていない人を排除する傾向にありました。
こうして農家の間も分断され▽努力しない者が土地を持っているのはおかしい▽土地は効率的にもうけることができる者に渡しなさいーという動きともなりました。
ところが、経済危機となると「自己責任」を唱えていた者がたちまち政府に助けを求め、また働く人のクビを切ったりしてモラルハザードを起こしています。自己責任では何も解決しないということがあらわになりました。
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アイスランドは経済破綻した国だが日本の派遣切りのような苛烈なクビ切りは起こっていない
◆「競争」対「共生」
そうすると本当のモラル、我々の立ち位置はどこだと、もう1度考え直さないといけません。これからは、どんな観点で立て直していけばよいのかを次にお話いただきたいと思います。
内橋 いま、指摘された政府・行政の使うレトリック(修辞的言語)とトリックの背景には「競争セクター」一辺倒の思想があると思います。競争セクターの原理は、分断・対立・競争です。しかし、経済社会は「競争セクター」だけで成り立っているわけではない。むろん切磋琢磨という意味では競争もたいせつかも知れないけれども、もっと重要なのは「共生セクター」です。その原理は連帯・参加・協同なのであり、この両セクターが均衡を保ちつつ機能し合っていてこそ、はじめて社会は安定的な発展をつづけることができるはずです。
ところが、競争セクター一辺倒論では巧みなレトリックとトリックが使われる。たとえば、まず都市と農村、農業者と農業者、消費者と生産者を分断し、互いに対立させて競争を煽る。「日本のコメは高いではないか。カリフォルニア米の4倍もする。日本の消費者はソンをしている」とメディアを煽って、四六時中、流す。すると消費者は「そうか、われわれはそんなに高いコメを買わされていたのか」と。
不満が高まったところで大商社が登場し、対立させて生まれた隙間に「利益チャンス」を仕込む。安いカリフォルニア米を輸入してあげましょう、と。これが市場の創造だという。ずっと以前のことですが、竹村健一氏などは、ラジオ、著作を通じて見事にこのトリックの仕掛け人の役割を果たしていた。歴史に記録さるべき事実です。
◆一人勝ちの社会
いま、触れられました農家の分断は、やがて対立へ、と進むでしょう。待ちかまえているのは何なのか、誰が利益獲得チャンスを狙ってのことか。鋭い洞察力が求められているということです。つい最近、問われた汚染米(MA米)問題でも、「消費者がソンをしている」論がTVコメンテーターの共通語でした。JAはきちんと筋を通した反論でもって闘わなければいけません。何かといえば、消費者、消費者です。日米構造問題協議でもアメリカ側は絶えず日本の消費者の利益という言葉を前面に押し立ててきました。いったい消費者とは誰なのか、そこから問い直さなければならない。
また「努力したものが報われる社会を!」と竹中氏らは叫び続けました。これだけ聞けば、誰だって反対できないでしょう。けれども、彼の唱える競争一辺倒社会では「ザ・ウィナーズ・テークス・ザ・オール」です。つまり「勝者が一人勝ちする社会」です。100人いて最終的に一人が勝ち残る。では、残りの99人は、努力をしなかったのか。そうではないでしょう。一人くらいは怠け者がいたかも知れませんが、実際には残りの98人は努力して、努力して、敗れた者です。その98人に向かって「諦めろ! おまえは努力が足りなかったんだ」と見捨てるに等しい。事実は、竹中氏らの政策目標は「税制のフラット化」(累進課税の排斥)にあったわけです。富裕層の減税です。それを「努力」という神学論争にスリ替えて論じる。「努力とは何か」を論じ始めたらキリがない。税制のフラット化をやりたいのなら「初めからそういえ!」と国民は迫るべきでした。
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地方都市のシャッター商店街再生の道は?
大都市との格差は開くばかり
◆「異端」を恐れず
むろん日本人には、いい面がたくさんあります。強みも少なくない。けれども、長い時間、経済社会をウォッチングしてきた私の目からすれば、改めるべき点も数々ある。
たとえばハーディング。小泉フィーバーの頃、私は「熱狂的等質化現象」と呼んできましたが、日本人はこれに弱い。先を争って、時の主流派に自らすすんで等質化していこうとする。「異端」扱いされたり、「少数派」になることを極端に恐れる。また、コンフォーミズム、久野収さん(哲学者)はこれを「頂点同調主義」と呼んでいますが、権威あるものには極端に弱く、自らすすんでなびいていく。等質化していこうとする。
代償として何を失っているのか。権威の仕掛けるトリックとレトリックに嵌(はま)り、真実を見抜くたいせつな洞察力を失って、より多数派、権威あるものへの等質化を競い合うことになります。それに合わせて社会から幸福が遠ざかる。
協同組合は「力なきものの力」を糾合し、民主社会の足許を掘り崩すような古い日本人の性癖を超克していく。その先頭に立つ。それが真の使命ではないでしょうか。少なくとも3つの追随から脱却して頂きたい。行政への追随、市場への追随、そしてグローバリズムへの追随―の超克。これが私の切なる願いです。
――政府機能が大幅に失われ、国民が享受すべきものが減らされてしまった、巨大企業に権益が移ると、そのために農業や農協がまた痛めつけられるという構造を説明していただきました。しかし世界を見れば、そういうことをしない国もあると思います。
(後編へ続く)
《注》▽竹中平蔵=元経済財政政策担当相▽グリーンスパン=米連邦準備制度理事会(FRB)前議長▽パックスアメリカーナ=米国の覇権による平和▽パックスブリタニカ=イギリスの覇権による平和▽ブレトンウッズ体制=第2次大戦後の国際通貨体制▽モラルハザード=道徳の欠如▽BRICs=ブラジル、ロシア、インド、中国のこと。