加藤一 9年前の第22回JA全国大会の際に、登紀子さんは農業協同組合新聞で東京農工大の梶井功名誉教授と対談され、「これからは地域の時代」などと語っておられます。大会のテーマは「農と共生の世紀づくり」でした。
だが、その後を振り返ると“失われた10年”ではないけれど、日本は利益至上主義と市場原理主義に傾き、企業の社会的責任が問題となり、都市と地方の格差が拡大、食糧自給率は一時40%を切るという状況です。
今年の25回大会は「大転換期における新たな協同の創造」がテーマですが、9年前の登紀子さんの思いと引き比べて、その後の流れをどのようにご覧になりますか。
加藤登 9年前は農業が地域で新たな時代を迎えるのではないかという希望を持っていました。
千葉県鴨川市に『鴨川自然王国』という農場を開いた夫(藤本敏夫さん)は「これからは若い人たちが農業に帰っていくだろう。『定年帰農』『熟年帰農』に次いで『青年帰農』の動きになるだろう」と考えていました。
対談から2年後に、その考え方がかなりまとまった形で『現代農業』という雑誌の02年8月1日号にインタビュー記事として載りました。
都市に生きる若者がストレスとか矛盾を感じ、自分の生きる大切なポジションを農業に見つけるだろうなどという趣旨でした。
ところが雑誌発行と前後して夫は7月30日に他界しましてね。私が理事として『王国』を引き継いだのですが、間もなく『現代農業』の記事を読んだという若者が10人ほど一緒に農場へきて「農業をやりたい」と、その中の2人が王国に住み着きました。
あれから7年、若い人たちが農業に関心を持つ勢いがさらに増している、私はそう思っています。
◇農的生活が時代の先端
加藤一 とすると登紀子さんと藤本さんの基軸は全くぶれないで、9年前の対談で話したことが鴨川では実現してきているということですか。
加藤登 そうなんです。だから私には“失われた10年”なんて感じはないんです。王国にきた若い人たちは東京での仕事を捨てサラリーマンを辞め、すごい決意で来ていましたしね。私としては誤解がないようにと農事組合法人としての農場の実情などを詳しく説明したりもしました。
そして、これを契機に王国を本格的な自給型にしようと、最初はまず4反歩の休耕田を開き、今は計1町歩以上の畑と1町ほどの田んぼを耕しています。
自給型だから野菜づくりも必要です。そこでクワの使い方から、耕耘機の操作も教えました。先生は農事組合法人のリーダーである周りの農家の方です。
加藤一 王国の活動は地域の活性化にもつながっているのですね。
加藤登 けど一足飛びにはいきませんね。周辺農家は最初、若い人たちを信用しませんでした。
しかし1年後には若い人たちが、農業からは1日も離れられない、なんていうようになり、給料はいらないから仲間をもっと増やしてほしいというのです。
そこでもう1人増やして稲作も広げました。来年は2町歩にする案も出ています。地元集落は約20軒の過疎地で休耕田が多く、作業委託をしたいという農家も増えているのです。
夫が一番やりたかったのは定年帰農と熟年帰農を対象にした『里山帰農塾』です。そこで私はこれを昨年は4回開き、今年は前年よりも開催数を増やしました。
若い受講者が増えており、半数は熟年層ですが、あとは20?30代です。そうした動きは面白くて“私たちは時代の先端を見ている”のではないかしら、といった気持ちもします。
帰農塾の勉強会では、農産物のマーケットの多様化とか、新しい事業が増えたといった報告があります。 若者が夢を見るのは都会でなく田舎になったのでは、といったことが見え始めたようです。もしかすると、そんな動きはJAの外で起こったことかも知れません。どうですか。ちょっと厳しい言い方かしら(笑い)。
加藤一 外から来た人々の「生活の農業化、農業の生活化」は、昔からそこに住んでいた農家の人々に刺激を与え、JA活動に新鮮な影響を与えることだと思います。農業の復権につながります。
加藤登 とはいっても農業人口は減り、過疎化が進み、休耕田は増える一方で、農業に入ろうとする人たちのエネルギーは、衰退していく部分にまだ追いついていないわけです。だけど私たちの周りでは目に見えて仲間が増えています。
加藤一 ということは私たちが農業を少しマクロに見過ぎており、ある一点では確実に変わってきている。点が面に変わってゆく可能性はあります。
◇価値観の逆転が起きて
加藤登 国の政策は農業経営の大規模化でコストを下げることですね。それに対して私たちのような悪くいえば、おままごとみたいな農業、自分の楽しみや家族が食べるだけの農業は眼中にないのでしょうね。
加藤一 登紀子さんは産業としての農業というよりも、農的な生活の中の農業を求めているのですね。
加藤登 そうです。
加藤一 農業の多様性でもありますね。経済性、効率性と云った数字にがんじがらめにされるのではない生活の質や幸福感といった新たな指標、新たな価値観を、わが国が構築していかなければならないと思います。
加藤登 藤本は、日本の近代は産業としての農業を求め過ぎたためたくさんのものを失ってしまった、農業は生命、医療、教育の現場であり、文化の出発点である、そういう可能性を持った農的な生活の場として生かしていくというふうに考えないと多分、農業経営はできないのではないかといいました。彼の夢は老人福祉や教育の施設、病院などが隣接する農場づくりでした。
加藤一 確かに私たちは経済成長の過程で何か重要なことを失ってきたのではないかと思います。
加藤登 価値観の逆転もあります。60年代の高度成長によって激流のような新しい都市的な価値観の中に入っていった若い人たちは、ある種のフラストレーションというか不安に襲われ、それが68年の学生運動になったと分析している若い学者もいます。
今は逆に都市的な価値観の中で生きていることに不安を感じた若い人たちがいなかを求め始めたとすると、それは68年の学生たちとよく似た感覚ではないかと思います。
最近『1968』という本を出した学者もいて68年の分析はブームになっています。
【加藤登紀子さん 略歴】
(かとう・ときこ)
1943年、中国ハルビン生まれ。ヒット曲は「知床旅情」など多数。国連環境計画(UNEP)親善大使も務める。新曲「1968」を10月7日、タワーレコードから発売予定。
◇農業再生、今がチャンス
加藤一 次に環境問題ですが、全農は社会貢献事業として『田んぼの生きもの調査』をやっていましたが、農業と関係のない方々の関心が強くなったため生協などと協力してNPO法人「生物多様性農業支援センター」を設立し、民間型環境直接支払いという事業論と5470種の生き物が見られる田んぼの生き物調査・指標生物という運動論を新たな市民運動として提案しています。私たちは、生き物へのまなざしを取り戻すことが重要だと思っています。
登紀子さんは国連の『環境計画親善大使』ですが、この前はソーラーの電気を使ったコンサートをテレビで拝見しました。
加藤登 『土と平和の祭典』というイベントの舞台はすべてソーラー力です。トラックにソーラーを積んで発電しながらステージの音楽をまかないます。どこででもコンサートが開けますから私たちが大切にしているメディアです。
そうですねぇ。農業とエコを考えると、農薬をやめましょうといっても難しいけど、メダカやホタルを呼び戻しましょうよ、と呼びかけると、みんなよくがんばりますねえ。
私は佐渡でトキの親善大使をやらせてもらいましたが、佐渡農協の人たちはビオトープを確保したり、棚田を復活させたり、農家の方々の取り組みはほんとに素晴らしいと思いました。
加藤一 では最後にJAグループや全農に対する期待があればお聞かせ下さい。
加藤登 農産物は中央卸売市場に出荷されて結局は遠くの人が食べますね。地産地消がいわれてもマーケットの形は変わっていません。遠距離輸送はエネルギーの大変なロスです。
この問題の解決方向を全農さんが本腰を入れて考えていただければ案外、難しいことでもないのじゃないかと思ったりもしますが、どうでしょうか。
それから話は別になりますけど、私は以前、こんなに農業ブームが起こるとは思っていませんでした。私たちの周りにはいなかで新しい生き方をしようという人たちがいっぱい出てきています。是非この動きを応援してほしい。
それは人口比ではまだごくわずかな人たちの動きですが、しかし世の中のちょっとした変化でもそれがブームになっていく流れはすごいなと思っています。
加藤一 農業再生にとっては今がチャンスというわけですね。 (了)
インタビューを終えて
登紀子さんの亡き夫、藤本敏夫氏の口癖は「プラスはいつかマイナスに、マイナスはいつかプラスに転換する。マイナスが成熟するのを待たなあかん。」だったそうです。経済優先の時代から、今まさに、潮流が変わってきた。生活の質、幸福感を主軸とした価値を重視する時代は、一番困っている人が主役になる時代であり、マイナスがプラスになる藤本さんが願った時の到来かもしれない。
登紀子さんの娘の八重さんから、脱サラして鴨川の農場に入ってきた人と結婚したいと言われた時、登紀子さんは「困った」「試されている」「中途半端に農業から逃げ出せられなくなった」と背筋が伸びたと語った。彼女の軸足が決まった瞬間だと思う。「歌は農業にいちばん近く、歌を作ってその種を播いて歩く。種蒔き大作戦」を含め、登紀子さんの幅広く精力的な活動は、わが国農業・農村を支援する力強いサポーターである。登紀子さんに感謝とエールを贈りたい。
(全農代表理事専務 加藤一郎)