■世界史的視点に立って
梶井 JA全国大会議案には「大転換期における新たな協同の創造」という素晴らしい題名がついていますが、「大転換期」の意味は必ずしも明確に書かれていません。議案には「米国型の市場原理主義への過度な偏重を見直す動きが強まってきており…」などとありますが、これだけでは組合員が理解するのは難しいと思います。
内橋先生との対談(本紙7月20日付)で、関西学院大学の神野直彦教授は日本の状況を「恐慌」とし、それも単なる循環型の恐慌ではなく、「歴史の大きな画期を示すクライシス」に相当するとしています。
ここでは「大転換期」について、今度の世界危機が起きてきた問題点、なぜ日本への影響が厳しいのか、危機の原因となった新自由主義の破たんなどについて最初に宇沢先生にお話いただければと思います。
宇沢 私は今の状況を「平成大恐慌」と呼び、世界史的な転換点に立っていると痛感しています。
話は少し長くなりますが、200年前は英国の力による英国のための平和、つまりパックスブリタニカの時代でした。英国の海軍力に守られた海賊的資本主義が世界に植民地をつくりました。
しかし、その力も衰え、1929年からの昭和大恐慌がパックスブリタニカ凋落の象徴となり、やがて1945年8月の連合軍に対する日本の無条件降伏を一つの契機としてパックスアメリカーナに取って代わられます。
その崩壊もまた進んでおり、今度の平成大恐慌が、その象徴であると私は考えています。
1930年代にはケインズとベヴァリッジという経済学者が英国の凋落、あるいは凋落によるダメージを防ぐために闘いました。
ケインズは、資本主義は基本的に不均衡であり、完全雇用や公正な所得分配を望むことはできないとし、政府は完全雇用を維持するために金融・財政政策を有効に使う必要があるという問題意識で運動を展開していきます。
(写真)東京農工大名誉教授 梶井功氏
■理想的な制度目指して
1930年代後半ごろから1960年代前半ごろまでを「ケインズの時代」といいます。そのころベヴァリッジも貧困、病苦、不遇などに苦しむ人々をいかに救うかで全力を挙げたので英国ではむしろ「ケインズ=ベヴァリッジの時代」と呼びます。
ベヴァリッジはケインズより4歳年上です。そのキャリアは特異で、オックスフォード大学卒業後、ロンドンにできた世界最初のセツルメントハウス(救貧院)に住み込んで、貧しい人々や虐げられた人々のために働きます。その後、モーニングポストという日刊紙の記者になり、失業を社会的、産業的問題として考察します。
失業は本人の怠惰とか悪徳によるという当時の通念に対し、彼は経済的、社会的、産業的な問題だという視点で1919年、今では古典といわれる「失業論」を著します。その後、ロンドンスクールオブエコノミクスの教授や学長として活躍します。
大学を辞した後、ナチスドイツのロンドン空襲が始まる前後、彼は英国を破滅からどう復興させるか、戦後社会の再建策を考える委員会を立ち上げるようチャーチル首相に手紙を出して提案しましたが、返信はありませんでした。
ところが、しばらくして下院に新しく「戦後再建委員会」が新設され、ベヴァリッジ提案そっくりの運びになりました。まるでチャーチル自身の発案であるかのようにして取り組みが始まったのです。
しかし、その委員長に指名された無任所大臣グリーンウッドは委員会の下に「社会保障と関連する問題の小委員会」を設け、その委員長にベヴァリッジを任命したのです。1941年6月のことです。
最初、小委員会は社会保障制度を検討して問題があれば勧告するといった程度の役割でしたが、ベヴァリッジはそれをはるかに超えて理想的な社会保障制度を目標に壮大な研究作業を始めました。
(写真)経済評論家 内橋克人氏
【略歴】
(うちはし・かつと)
昭和7年兵庫県生まれ。新聞記者を経て評論家。テレビ、新聞、雑誌などで発言・執筆活動。主な著書に「匠の時代」(講談社文庫)、「内橋克人・同時代への発言」(岩波書店)、「経済学は誰のためにあるのか」(岩波書店)、「共生の大地」(岩波新書)、「共生経済がはじまる」(NHK人間講座=NHKブックス)、「悪夢のサイクルーネオリベラリズム循環」(文藝春秋)など多数。
■ベヴァリッジの業績
範囲は年金、医療、子ども手当、それに寡婦年金です。財源は累進性の高い所得税や相続税が中心です。しかし小委員会が報告書をまとめると、財源を握る大蔵省が猛反対して、小委員会の委員11人が最終報告書にサインできなくなりました。
そこでグリーンウッドは11人を顧問として、サインするのはベヴァリッジ1人でよいという名案を考え出し、報告書を出したのです。
この報告書のスローガンが有名な「揺りかごから墓場まで」です。社会的共通資本としての社会保障制度の原点です。
ベヴァリッジは小委員会の委員長に任命された時、ケインズのアドバイスを受けて、それを報告書に実らせています。
報告書は1942年11月に下院に提出され、12月に市販された。2時間で7万部、1年間で62万5000部も売れ、世論調査では報告書賛成が90%を超えました。
ところが保守党のチャーチル首相は、民主党のベヴァリッジの報告を放置し、1945年の総選挙でアトリー率いる労働党の圧勝後、やっと報告を制度化する作業に入ります。
しかし当時の労働党はかなりラディカルで、報告を具体化するために、すべての医療施設の国有化を考えて医師会の反対を受けたりして作業は難航しました。
こうして1948年、すべての人が(居住外国人を含めて)無料で医療サービスを受けることができる理想に近い形のナショナルヘルスサービスが実現し、戦後の世界に広がります。
1945年8月、シカゴ大学のハイエクとナイトという2人の経済学者がスイスのモンペルランという避暑地で一緒になりました。
2人は戦後の欧州の荒廃や東欧の共産化などを憂え、人間的な考え方の維持を願ってモンペルランソサエティというのを立ち上げます。その時の基本的な考え方がネオリベラリズム、新自由主義といわれています。
(写真)東京大学名誉教授 宇沢弘文氏
【略歴】
(うざわ・ひろふみ)
昭和3年7月鳥取県生まれ。東京大学理学部数学科卒業。米国スタンフォード大学経済学部助教授、シカゴ大学教授などを経て東京大学経済学部教授。文化功労者。日本学士院会員、米国科学アカデミー客員会員。文化勲章受章。近著に「経済学と人間の心」(東洋経済新報社)、「経済解析ー展開篇」(岩波書店)など多数。
■市場原理主義と倫理
それは企業の自由が最大限に保障されているときに個々の人間の能力を最大限に発揮できる、そのためにはすべてのものを市場を通じて取引する自由を追求するーーというものです。例えば大気や水など市場のないところに新しく市場をつくっていく、国鉄や郵便局なども民営化していくという考えが基調にあります。
その後、ミルトン・フリードマンという経済学者が参加してヘゲモニーを握っていきますが、彼は新自由主義よりもはるかに極端な考え方で、それが市場原理主義といわれています。
人生の目的はただもうけることにあり、そのためには倫理的・社会的制約は無視してもよく、それに対する批判的動きがあれば武力を使ってもかまわないという考え方です。
彼はベトナム戦争の時、水素爆弾を使えという提案を積極的に支持した。
日本の経済学者の中には、新自由主義とか市場原理主義というのは経済学の正式の用語ではないとくり返し主張していますが、そうではありません。パックスアメリカーナを経済学的な意味で象徴しているのがフリードマンなのです。
違った意味での象徴が連合国最高司令官のダグラスマッカーサーです。彼は1932年の大恐慌時に起きた有名なボーナスアーミー事件の立役者です。
第一次世界大戦の帰還兵たちが失業し、年金もろくに払ってもらえなくなったためフーバー大統領はボーナスを出すと約束しましたが、守らなかったため帰還兵と家族たち数万人がワシントンにキャンプを張って何日間もにわたってデモをしました。
フーヴァー大統領は軍隊に命じて鎮圧させた。そのときの司令官がマッカーサーだったのです。彼はデモを指導しているのは共産主義者であると強く主張して、これを徹底的に弾圧し、赤ん坊まで殺されたという記録が残っています。
全米に批判が巻き起こったため大統領はマッカーサーに差し止めの命令を出しましたが、彼は無視したといいます。
■民主化が進むもとで
ずっと後になって朝鮮戦争の時、マッカーサーが鴨緑江を越えて中国本土へ攻め込もうとしたためトルーマン大統領が即座に彼を解任したのは1932年の苦い記憶があったからでしょう。
ボーナスアーミー事件は戦後のマッカーシーズムの原点でもあります。こうしたことからマッカーサーはパックスアメリカーナの一つの象徴だといえるし、それを受けたのがフリードマンたちだったのです。
梶井 パックスアメリカーナ解体が「大転換」の内容になるのですね。その結果起きた世界的な金融・経済危機の影響を日本はほかの国よりも強く受けていると内橋さんは問題にしています。
欧州などはケインズ的な財政主導の中で「揺りかごから墓場まで」の体制をつくった福祉国家の経験があり、それがかなりの財政負担を伴ったので、新自由主義がはびこることになったわけですが、そんな経験のない日本で危機の影響が一番強かったのは何故か、そして「転換」の方向はどこか、内橋さんお願いします。
内橋 宇沢先生のお話で大転換の世界史的、歴史的背景がよくわかりました。
転換とは何か。フリードマンは「国家からの自由」を主張し、世界に布教しました。ある意味で、それは戦後の日本のあり方とも通じていたと思います。そこからの転換とは何か、次は「資本の自由からの自由」ではないか、と私は考えているわけです。
戦前の日本は強烈な国家の統制力の下で人間性が奪われていきました。戦後は日本国憲法がそうですが、国家からの自由を拡大し、国家によって国民の生命が簡単に奪われたり、あらぬ方向へ誘導されたりしないようにと民主化が進みました。
振り返れば戦後は国家の暴走からの解放、国家権力をある意味で抑制することで国民の自由を守る、という考えが主流になってきたと思います。
では、この国家からの自由のもとで何が増殖したでしょうか。それが「資本の自由」でした。経済活動、企業行動、市場なるものの無際限な自由化が行き着くところまで行って、今度は逆に人間の自由、働くものの自由を抑圧する支配力へと転化していく。行き着いた先に今回の世界経済危機が待っていたということですね。だれにとっての自由なのか、それが深く問われる時代の始まりです。「働く自由」なのか、「働かせる自由」なのか、そう問う人びとで世界は満たされています。
■企業内は「憲法番外地」
日本でも“憲法は工場の門の前で立ち止まる”といわれたように民主主義をうたった憲法も一歩企業の内に入るともはや通用せず、しばしば企業・工場は「憲法番外地」と呼ばれたものです。働く人びとも一歩、資本の内に足を踏み入れれば、もはや憲法的保障のらち外に立たされるようになってしまっていたわけです。
国民は等しく憲法的自由を享受しているかのごとく思いこんでいても、企業内では生存権の保障ひとつ、あるいは文化的、健康的生活ひとつ、保障されてはいなかったのだ、と。
ですから、私たちの社会で「転換」をいうのであれば、それは「国家からの自由」の時代から「資本の自由からの自由」を求める時代へ、そして真に「人間の自由の獲得」の時代へ向けての一歩でなければならない、そういう意味で歴史的な転換点に私たちは立ち合っているのだと位置づけたいと思います。
フリードマンは「公衆衛生など不要」とか「所得再配分なんてとんでもない」などと政府機能を完全に否定する極致の論理で、国家からの自由を前面に押し出しました。
戦後日本では、民主的な社会の新しい秩序をつくり得たと思ったその瞬間から、実はそのもとで資本(超国家企業・日本型多国籍企業の総体)が異常な力をもち始め、膨張し、生身の人間に対して抑圧的な力をもつ構造へと転じてしまった。
ついには国家に肩を並べる経済権力となって、日本は典型的だと思うのですが、経団連その他を中心とする巨大資本そのものが「第2の政府」と化していきました。
ですから転換という言葉にふさわしい転換が起こりうるのであれば「国家と資本からの自由」、真の「人間の自由」に向けた転換でなければなりません。
そこで大きな役割を果たすのが協同組合です。しかし、私が「使命共同体」とか「第3の共同体」と呼んできた概念からしますと、残念ながら、これまでの「協同」「共同体」はまだ「国家」とか「第2の政府」に対峙できるだけの対抗力をもつことはできなかった。これからは第3の力として協同組合、NPO、NGOあるいは市民事業体といった使命協同体が、真の参加、互いの連帯、協同を求めながら「資本の自由からの自由」を築き上げ、新たな歴史的段階に向けて立ち上がっていかなくてはなりません。
■価値観の大転換始まる
ちょうどそういう時期にきていると思います。パックスアメリカーナが崩壊していく、つまり世界の秩序を形成してきた権力の構造が入れ代わり始めているわけですが、それは「国家からの自由」から「資本の自由からの自由」へと移る歴史的転換の時代の始まりと見るべきでしょう。
資本からの自由とは何を意味しているのか。ここを深めていくことが使命共同体にとって、最高の課題ではないか。以上が転換という視点についての第1点です。
第2点は価値観がすっかり入れ代わる時代の入り口に来たということでしょう。自民党から民主党への政権交代と米国大統領交代との共通の特徴は価値観の転換です。
民主党圧勝は、非人間的な資本の自由が極限にまで高まってしまったいま、だからこそ「人が人らしく生きられる社会へ」と転換させなければ、というせっぱ詰まった人々の選択だったとみるべきです。国家からの自由というより、逆に正統な政府機能の復権が求められるようになった。
さきほども触れましたように「国家からの自由」のもとで肥大した資本・市場からの自由を手にするには、正統な政府機能―所得再分配もそのひとつですが―と、それを支える使命共同体の力強い発展が欠かせない条件となってくるでしょう。
小泉構造改革時代を担ったある閣僚、いまはさっさと大学に戻って学究者を名乗っている人物は、あい変わらず、こういう考え方に対して、それは「社会主義だ」とか「まるで社会主義経済のようだ」などという時代遅れのレッテル貼りを平然と続けていますが、このような低次元の薄っぺらな常套語になびくほど日本人はお人好しではない。
さらに自民党政権は日本の財界、経済界と一心同体でした。大企業の利益を代表する日本経団連は自民、民主両党の政策10項目(30件)をABCDとランキングして政治献金を割り振ってきましたが、「口も出せば、カネも出す」と公言して献金を復活させた奥田碩・前会長はじめ、まさに第2の政府という感じでしたね。投票権ももたない企業、法人がカネを介して政治を動かす、まさに「もう一つの選挙民集団」の存在証明です。
鳩山由紀夫首相は先に米国発の市場原理主義が日本を攪乱した、との論考を日本の雑誌に発表して、米国内で問題になりましたが、これを受けて仰々しく報道した日本のメディアそのものが、もはや骨董品ではないでしょうか。世界の秩序形成者の入れ代わり、価値観の入れ代わり、そういう時代の到来をもっと深く認識すべきです。
梶井 「人間の自由」へという方向を目指してこそ初めて転換となりうる。しかし道はまだ遠いですね。
内橋 やっと入り口に到達した段階でしょう。巨大マネー、多国籍企業、彼らの支配する市場からどのようにして人間の自由を取り戻すのか。いかに市場を市民社会的制御のもとにおくのか。日本における雇用・労働の悲惨をどう解決していくのか。米国から持ち込まれた「圧縮された新自由主義」の清算から始めなければならないでしょう。
農業も今その渦中にあり、これから企業農業や零細な家族農業がどうなっていくのか。宇沢先生の説かれる社会的共通資本はまさに「資本の自由からの自由」をより足腰強く確立していく、力強い論理の砦(とりで)だと思います。同じ「資本」という言葉が使われますが、「社会的共通資本」の資本と、「資本の自由からの自由」というときの「資本」「マネー」「市場」とはまさに正反対、対極の概念と理解したいと思います。
(写真)転換を見てきたイギリス国会議事堂のビックベン…今、鳩山首相とオバマ大統領が挑む「転換」の行くえは?
■社会的共通資本と赤字
宇沢 社会的共通資本というのは舌足らずな表現ですが、私なりの具体的なイメージとして共生社会を描き出したものです。
社会的共通資本というのは自然環境だけでなく、社会的インフラストラクチャーから教育、医療、金融、司法、行政などのいわゆる制度資本をも含みます。
これらが全体としてうまく維持されていくには、それぞれの分野で中心となる職業的な専門家の技術と知識に基づいて行われる社会的共通資本のマネージメントが必要となります。
それは官僚的な管理や、もうかるかもうからないかの判断ではいけない。社会的共通資本は職業的な意識や専門的な知見にもとづいて運営した時は一般的に赤字が出ます。それを補てんするのが政府の役割です。
しかし政府は管理や運営の中身には一切ふれてはいけない、むしろ企業として組織としてやっていけるような制度をつくることが政府の役割です。
一番いい例が医療制度です。医者の大多数は患者に捧げるノーブルな志を持っていると思いますが、それと自分たちの生活や病院経営を両立させなければならない。その意味で基本的に医療からは赤字が出るのは当然です。
それを市場原理主義者たちは一律に抑制しました。
これについて私が一番怒りに燃えているのが経済財政諮問会議です。首相が諮問して、首相が審議の議長をやり、そして答申を受ける。さらに閣議で決める時の議長も首相です。
これはワイマール憲法のもとで首相に選ばれたヒトラーが効果的に使った手法です。お手盛りよりもひどい。官僚が組織の1員としてやるのならまだしも、経済財政諮問会議には経済学者が2人入って、時の権力に奉仕しているのは許せない。
(後編につづく)
(写真)宇沢弘文氏(左)・梶井功氏(中央)・内橋克人氏(右)