「人はコミュニティのなかで生きる存在」
◆リバタリアンとは何者か?
――サンデル教授は日本での講義で「イチローはオバマ大統領の42倍もの年俸に値するのだろうか」と問いかけましたね。それに対して学生からは「これは個人の努力の成果。野球ファンを喜ばせており社会のために再分配する必要などない」との意見が出ました。その学生に教授は「君はリバタリアンだね」と指摘しました。このリバタリアニズムとはどういうものか。まずお聞かせください。
米国ではレーガン政権やブッシュ政権、日本では中曽根政権や小泉政権などで行われたのがさまざまな規制緩和と民営化、そして福祉政策の切り捨てですね。こうした経済政策の背景にあるのがネオ・リベラリズム、新自由主義的な考え方と言われるもので、小泉政権の郵政民営化は象徴的でした。
一方、政治哲学でいうリバタリアニズム(自由原理主義)とは、基本的にネオ・リベラリズムと経済政策では同じ方向ですが、哲学ですからその考えの基礎づけをすることになります。それは自己所有という考え方に基づいています。
要するに「自分の体は自分が持っているのだ」というところから出発し、したがって「自分の労働の成果は自分のものである」、したがって「自分の所得や資産は自分のものである」として「これが正義である」と考えるのです。
だから、自分のものであるお金を国家が課税によって取り上げるのは不正であり、言ってみれば「人を強制労働させる奴隷制度のようなものである。だから不正義だ」という批判をしているのですね。
この考え方は経済の効率性や公平性をめぐる議論とは違い、「正義か、不正義か」という非常に強い言葉を使った根本的な議論で、つまり、彼らは、課税やそれに基づく福祉政策などは「してはいけない!」と主張することになります。
これはそれなりに一貫した論理ですので、市場原理主義が破綻した今でもおそらくエコノミスト以上に同じことを言い続けると思います。日本ではリーマンショック後に懺悔した経済学者がいましたね。ああいう例はリバタリアンからは聞いたことがない(笑)。
(写真)
千葉大・小林正弥教授
◆モラルを崩す市場主義
――「白熱教室」では身近な問題を取り上げ、それに対する古今の思想家の考え方は紹介されます。しかし、そもそもサンデル教授自身はどのような思想を主張しているのですか。
あの講義ではあまり明確にされませんが、サンデル教授も、そして私も、実は今お話したリバタリアニズムに対して根底から批判をする立場です。その哲学的な基礎そのものを批判し、それに代わる新しいビジョンを提示していこうとしています。
サンデル教授はこれを1980年代から行ってきたわけですが、ここに来て非常に注目を浴びているというのは、やはりリバタリアニズムの全盛期にはそちらに目を向ける人が多かったのに対し、経済が動揺し、どう見てもこれは成り立たないということが分かってきたからだと思いますね。
そこでサンデル教授をはじめとするコミュニタリアニズム(共同体主義)が注目を集めるようになっているということでしょう。
サンデル教授はとくに市場主義が、社会の各領域にどんどん広がっていて、さまざまな価値や理念を押しつぶしていくことに批判的です。米国は市場主義のもっとも徹底している国ですから、福祉や教育などの領域に市場主義が入っていった。それによって従来もっと人々が共有できたもの、公共的に利用できたものがなくなっていることを非常に問題視しています。
その本質的な論点のひとつはモラルの問題です。
彼の言葉では「善」です。「何が善いことなのか? 何が善く生きることなのか?」といった問題を考えることなしには「正義」を考えることはできない、というのです。たとえば教育においては善く生きるための人格形成が大事ですが、教育の場に市場主義が入り込むと、それができなくなるわけです。
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もうひとつ大事なのは「共」、「ともにある」ということです。
ここがコミュニタリアニズムと言われる理由でもあります。リバタリアニズムは人間をばらばらの存在と捉え「ばらばらの一人ひとりの人間が肉体や財産を所有する」という考え方をします。
一方、コミュニタリアンと言われる人たちは、たとえばコミュニティの「善」に影響されて人格形成が行われるとし、そこにおける共通性を大事に考えて、そのなかで人々が共有する善(共通善)の実現を重視します。つまり、共に何かを実現する、ということが重視されるのです。ここがリバタリアニズムに対する根本的なアンチテーゼとなっています。
アメリカの政治哲学でリベラリズムと言われる思想もリバタリアニズムと同様に、分離した個人として人間を考えていますが、その代表的な議論は人間を抽象的に考えるので、それをサンデル教授は「負荷なき自己」と批判します。人間の具体的な属性、たとえば立場、資産、収入、性別などなどを無視した抽象的な自己だ、というわけです。
これに対してコミュニタリアンは、人間という存在を「負荷ありし自己」と考える。
負荷というと、日本語では悪い意味に聞こえるかもしれませんが、この場合は、育った家族、ローカルなコミュニティ、さらにはナショナルなコミュニティ(国)やそれを超えたコミュニティも含めて、さまざまな実際の状況や価値観のなかで、どう生きるべきかを考え行動しているのがわれわれだ、と考える。
その観点からすると、コミュニティは極めて大事であるわけですが、米国では市場経済が非常に浸透したためにローカルなコミュニティさえも浸食された。米国の場合、このローカルなコミュニティこそ民主主義の担い手だったのに、市場主義でそれが掘り崩されてしまい、すべて市場経済ないし私企業の考え方に圧倒されている。これが「何かおかしいのではないか?」という人々の無力感につながっている、という。
ですからこれを克服するためには、私は家族やローカルなコミュニティなどを新しい状況に即して復興し、自由を尊重する開放的なコミュニティとして再生させることが大事であると思います。
写真提供:NHK
「ハーバード白熱教室」マイケル・サンデル教授が問いかけていること
8月に来日し、東大で講義するマイケル・サンデル教授。10月17日(日)午後6時NHK教育「ハーバード白熱教室」(予定)には小林教授も登場。解説とともに千葉大の講義の様子も紹介される。
◆米国社会の原点は「農民」
サンデル教授はこのようなコミュニタリアニズムの考え方を基礎として政治的には共和主義を主張しています。それは、人間は公共的な美徳(公民的美徳)を持って政治に参加し、自己統治(自治)を行うのが望ましい、という考え方です。
アメリカ建国の父で共和主義的な考え方を持ったジェファーソンは実は農業を非常に重視しました。それは「農民こそ自己統治の主体だ」と考えたからです。というのも「農業は自分で経営し独立をしている。したがって自分自身で考え行動をする主体である」というのです。その意味では美徳の担い手であると期待されました。
日本では農業者や農協が、自己統治、そして美徳の担い手であるという発想は今ではあまりないと思いますが、この議論は本来はそういう可能性があることを示していると思います。
実際には、環境問題もふまえれば農業は大事であって、しかも農業は日本の多くのローカル・コミュニティの中核にある。そしてそれを支えるのが農業協同組合であるという発想となれば、サンデル教授の言うコミュニタリアン的考えの担い手になる可能性があるだろうと思います。
◆「新しい公共」と協同組合
――それは「公共」の担い手でもあるということでしょうか。先生が提唱されている公共哲学、あるいは政府も掲げている「新たな公共」とはどう考えればいいのでしょう。
私たちが提唱している公共哲学プロジェクトでは「公」と「公共」を使い分けようと言っています。それは日本では国家や官僚制を「公」と思ってきたからです。
しかし、本来の「公共」とは、「民」が担うものではないか。ところがリバタリアンが主張する「民営化」の「民」の意味であればそれは私企業ということになってしまう。そうではなく、自立し独立し自ら考え行動する「民」。その「民」が共に語り合って作り出すのが「新しい公共」である。これが私たちの公共哲学の基本的なスタンスです。
ただ、一般的に「新しい公共」と言ったときには都市型の自発的な結社、というイメージを持っている人が多いわけですね。農協ではなくて、NPOとかNGOとか。ただ、サンデル教授らコミュニタリアンの考えは、農村共同体を含めてコミュニティを重視する立場です。国家から独立した自治、自己統治の担い手は都市にあるだけではなく農村にもあるべきだし、また家族もその主体として再生すべきだ、ということになります。もちろん、そのためには55年体制における多くの農村や農協のままであってはならず、そちらが新しく生まれ変わる必要があるのです。
この視点からの「新しい公共」については、日本でまだ議論を深める必要があると思います。どうしても都市的イメージになるので、私も公共を論じるときに市民ではなく「公共民」という言葉を使っています。
――お話いただいたコミュニタリアニズムは協同組合運動にとってどういう意味があるのでしょうか。
協同組合でいえば、賀川豊彦は市場主義経済の徹底に反対して、別の経済のビジョンを説きその中心を協同組合に置きました。実は賀川の議論とサンデル教授の議論はオーバーラップするところがあります。
米国でも19世紀の末に労働共和主義という運動が出てきます。これはその後の労働組合の出発点となる労働騎士団に代表されますが、そこでは協同組合的な方向が提案されていた。なぜかといえば、協同組合的な形態はまさに自治の担い手だという考え方があるからです。
協同組合は、自分たち自身でどうするかを考える組織ですから、コミュニティの自己統治をめざす主体として協同組合は非常に強力な解決策になる。農業はもちろん都市の労働者でも、今で言う「新しい公共」を担うひとつの形態であるということになります。
こう捉えると農村と都市を分断するのではなく、共通の原理からアプローチしていくことも可能になると思いますし、賀川も協同組合の連帯を強調しました。
◆国際的な連帯運動を
2012年はせっかくの国際協同組合年なので、これは国境を越えた問題だということも考えたいですね。賀川は協同組合を中心とした国家の構想を持っていて、協同組合の国際的な展開により世界平和が実現すると考えていた。そして日本でも世界連邦の運動を起こします。
ここも思い出してほしい。つまり、国境を越えて諸外国の協同組合と連帯することによって、今世界で起こっているアフガニスタン、イラク以来の戦争の方向にストップをかけて実際の恒久平和を実現していく。とくにオバマ政権が「核なき世界」というビジョンを打ち出しているこのタイミングで、日本の協同組合運動からそういうビジョンを打ち出していく。
2012年は今のオバマ政権が再選されるかどうかという大統領選の年でもあります。私としてはこのオバマ政権が持続して「核なき世界」を実現していくステップになってほしいと思っています。
実は今日話題となったことは、資本主義経済を超える新しいビジョンでもあります。新しい政治・経済の原理、大きな方向を協同組合の連帯によってめざしていく、それがひいては日本政治の根本的な転換につながっていくことも望みたいと思っています。
PROFILE
こばやし・まさや
1963年生まれ。東大法学部助手を経て、2003年千葉大法経学部教授。04年から同大人文社会科学研究科・公共研究センター共同代表、06年から地球環境福祉研究センター長。著書『政治的恩顧主義論―日本政治研究序説』(東大出版会)『友愛革命は可能か?公共哲学から考える』(平凡社新書、本年3月15日刊)ほか。