「共に学ぶ」が協同組合運動
運動家にとって、大事なことは悩むこと
◆「挫折」と「経験」農協のはじまり
敗戦後、農協発足のころ、私など昭和3年生まれですから20歳そこそこだったわけですが、生意気にも村の先輩たちに混じって定款作成委員会に出ました。こういう農協をつくろうや、という話し合いです。そのなかの1人に加えてもらったのが私の農協運動の始まりになりました。
当時、農民の全村組織としては農民組合があったんです。それが片方にあったなかで、戦前の農業会からの財産を引き継いで農業協同組合ができて、私たちは青年部をつくったわけですが、農協も全村組織なわけです。だから、この2つをどう融合させるかが、実は当時の農民運動家のいちばんの悩みになったんです。
そして農協はつくられはしたものの、あっという間に苦境に陥って昭和26年に再建整備が始まります。
なぜそうなったかといえば、農民組合運動出身者がリーダーになったから。全村組織だからということで、農協の役員もさらに組合長も農民組合運動家出身が圧倒的に多かった。しかし、その人たちには残念ながら村を治めた経験がない。リーダー格はみんなレッドパージにあっていたし、次の若い優秀な世代は戦争に引っ張られて、帰ってきた人たちは大きく世の中が変わってしまって……、と。
だから全然無経験な人が新しい農協の経営をやることになったんです。協同組合ですから自分たちが理事にも監事にもなりましたが、現実をふまえた運営の経験のないものが、理想を追い過ぎて、結局、不良在庫の山を築いたり、貯払い停止を起こしたりした。
◆運動は「理念」と「実務」
私はまだ役員ではなかったので、その経験はありませんが、全国的にそういう情勢であったことは事実です。しかし、それで農協は経験をしたと思う。いわゆる再建整備を通じて、農協運営はそんな生易しいものではない、理想だけを追って実務を知らないのはだめだという大きな経験をしたと思います。
その後に私は農協の役員になるんですが、役員になるまでの間に2つのことを経験しました。
1つは、いわゆる協同組合の運営をどう考えるべきかを考え、バイブルではないけれども2冊の本に出会いました。
1冊は近藤康男先生の『貧しさからの解放』です。これは理念。もう1冊が東畑精一先生の『協同組合論』で、これは実務。つまり、片方だけ追ったのではだめで農協は、いわゆる実務を知って理想を追う、というかたちにしなければならないことをこの2冊から徹底的に教えられたような気がしました。
もう1つの経験は胸を患って3年間ぶらぶらしていたことでした。その間に先輩や仲間が心配してくれてさんざん励ましてくれたんですが、結局、百姓は務まらないかもしれない、と昭和35年に周囲が農協の専務にしたということだったんだろうと思っています。この2つの大きな経験がその後に影響をしたと思います。
◆「自立経営」こそ「協同」が大事
昭和30年代初めには、新農村建設運動が始まりました。戦後の新しい農村づくりの1回めの運動です。それで農林省が若い連中を集めて1週間、講習をやるというので、県を代表して行ってこい、となった。
講習には団野信夫先生の規模拡大論がありましてね、規模拡大には2つのやり方がある、と。1つはアメリカ型。個人でどんどん規模拡大をする方向で、いわゆる競争のなかで勝ち残って規模拡大していく。もう1つは中国型の、合作社からはじまる人民公社的な、まだそうはなってない時代でしたが、みんなで農地を出し合って規模拡大するという方向だ、と。
そのうえで団野先生は、もう中国型しかない、とはっきりと言われた。農業で生活していくには規模拡大は必然だが、しかし、その方法としては、周囲を蹴散らして競争のなかで規模拡大を追うのではなく、みんなで助け合って共同化のなかで規模拡大を追っていくという方向が今からの農業だ、と。私もこれしかないだろうと思いました。
ところが、その後、当時の全販連(全農の前身)石井英之助会長(昭和28〜40年会長)が各県の農協関係者を集めた懇談会に出席したとき、ある県の先輩が、懸命に協同組織をつくって農業をやってきたけれども残念ながら失敗した、だから、農業は結局、競争しなければだめになるかもしれない、と言われた。協同組織による農業はあり得ないかもしれない、と。
先輩の話は自らの経験から出たものだから重い。私は本気になって考えました。農協が営農指導する場合の農業経営とは、競争を前提にして考えなければいけないのか、そうではないのか・・・悩みましたね。
◆ ◆
その後に、たまたま北海道の士幌町に行く機会があったんです。当時、馬鈴薯栽培ですでに自立経営が実現していました。平均20町歩です。2町5反で自立経営農家、と言っていた時代、馬鈴薯20町歩の所得は米10町歩の所得なんですね。当然、農業でメシが食える。
そこで士幌町農協の役員に、協同する意味はありますか? と聞いたんです。さっき話した懇談会での件が頭にあったから、自立経営とは競争に勝ち残ったということではないか、と。
そうしたらね、自立経営になればなるほど協同しなければだめだ、という。当時、士幌の指導理念は3戸協同でした。3戸協同だと6人の労働力が出る。そうすると1人が病気になっても5人の労働力があるから60町歩の馬鈴薯はできる。もしバラバラにしておいたら、たとえば旦那さんが病気になったらそれで終わりになっちゃう、だから「自立経営になればなるほど協同でなければだめだ」。
これには目を開かれました。やはり基本的には団野先生が言われたような、みんなで農地を出し合って規模拡大していくべきだと考えるようになり、地元で基盤整備するときも村ぐるみでどういう営農をするかを考えたうえでなければだめだと訴えるようにもなっていった。それが私のいう集落営農の基礎になっているわけですよ。
◆「生活」から農協を考える
農業は今話したような方向をめざしてきたわけですが、昭和47、8年ごろだったかな、親しくさせてもらっていた東北大の吉田寛一先生から「今からの農協の行き方は組合員の生活をベースにして考えなければならない」と言われた。
これまた新しく目を開かされたことです。農業ではなく組合員の生活をベースにして考えろ、ですから。そうすると専業も兼業も、正組合員も准組合員も、その区分けは全然関係ない、というわけです。農業協同組合だから「地域」はある。だから、その地域のなかの住民すべてが参加する協同活動はどうあるべきかを問え、ということです。
たしかに、そこから出発すれば協同組合運動はもっともっと発展できる。これが産直運動になったり、協同組合間提携をしたりという取り組みに進んでいった。生活をベースにすれば、地域の違いやそれぞれの団体の性格の違いがあっても特徴を発揮しながら協同組合運動を進めていけば、無限に広がる。
だから、私の考え方は率直にいえば、地域協同組合論なんだね。当時はそれに基づいた農協基本構想も書きました。これが農業と協同組合運動の私の基本的な考え方になったのかなと思います。
◆「平和運動」と「協同組合」
私にとっては全中の研修も忘れられません。昭和30年代には新任の農協リーダーを集めた学習会をやってくれていました。
私が出た学習会で一楽照雄さんが言ったのは「協同組合運動の目標は公正な社会の建設だ。その建設のための一翼を担う協同組合運動でなければだめだ」でした。公正な社会とは何ぞや? これまた難しいことを例の独特の口調でおっしゃった(笑)。
ただ強調されたのは、協同組合は事業論ではなく社会のなかの位置づけを考えるべきで、それは公正な社会を創るための一翼を担う運動体の1つなんだということでした。一楽さんといえば有機農業、となるかもしれませんが本当の基本はここにあったんじゃないかと思いますね。
もう1人の講師は神奈川知事も務めた長洲一二さんでした。まだ横浜国大の助教授だったと思います。
長洲さんは、今からの協同組合には、3つの大量死にどう対応するかを考えてほしいと言われた。3つの大量死とは、核戦争、環境汚染、それから人口爆発、つまり食べ物の問題です。この3つに農協はどう向き合うか、と。
3つの大量死から組合員を救うということを考えるのであれば、3つの運動をやるしかない。
だから、考えてみれば一楽さんは、有機農業の推進というかたちで環境汚染問題に取り組んだということになる。人口爆発と食料問題については、今は全中も東南アジアの農協などと連携した取り組みなどをやっていますね。
しかし、手がつかなかったのは核の問題です。あれから何十年経っても核はなくなっていませんが、長洲さんの話で思ったのは平和運動と協同組合運動は別ではなく、協同組合運動の一環としてやらなければならないということでした。
私は県中会長だったときにもこれはできなかった。
しかし、平和でなければ組合員の生活は守れない。平和運動は協同組合運動とは別だと考えるほうがおかしいと、やはりこれぐらいの気持ちがなければだめだと今思っています。
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もう1人が東京教育大の太田暁さんでした。
人は助け合わなければいけない、協同しなければならない。いわば協同のある社会、協同のある人生というのは、人間だからそうするものだ、と自然発生的に出てくるものか、それともそうではないのか―、どっちなんですか? と太田さんは問いかけをなさった。
自然発生的というのであれば何も農協が教育問題を言わなくていい。放っておいても組合員はその通りになる。ところがなぜ、みなさんの先輩たちは『家の光』をつくったりしてきたんですか? と。これは教育でしか協同のある人生、社会はつくれないからだ、と言われた。3人の講義は思い起こしてみても、あれ以上のものはないですね。
◆新しい社会を担う覚悟を
農協運動に携わって50年を振り返ってみてもこれらの話は決して間違ってはいなかったと思います。
もちろん地域の協同組合だといっても、みな農協でやれるわけではない。助け合いを基本にして、いろいろなところとつなぐ機能を持てばいい。大事なのは大いに悩んで、行政もNPO法人も、さまざまな団体を巻き込むことが組合員のためであり、運動論なんだ、と考えることです。単なる事業ではなくて。そこをリーダーはどう見極めながら考えていくか。
みんな悩んでいると思います。しかし、協同組合運動をまじめに考えれば考えるほど、悩みのない運動家はいないと思う。運動家とはそういうものです。
世の中、新しく変わろうとしていますが、まずは今の世の中をどうみるかです。
たとえば、年金制度ひとつとっても、営々と築き上げてきたものと思っていたが、極端にいえばやり直しですよね。
だから、やり直し社会のなかで、もし私どもの経験が役立つとすれば、戦後の廃墟のなかで何を目標にして担ってきたかが改めて問われることになると思っています。それをまた担う、新しいものをつくり上げるという覚悟は、今からの協同組合運動にとっては、うんと必要じゃないですか。
若い人たちへ、ですか?
教えることなどはできません。共に学ぶ、という言葉は協同組合運動にはありますが、教えるという言葉はありませんから。
【略歴】
こまぐち・さかり 昭和3年宮城県生まれ。35年南郷町農協専務、48年同代表理事組合長、62年〜平成11年宮城県農協中央会会長。この間、平成2年全中理事、同水田農業対策中央本部長、5年県4連会長、全農理事、8年JAみどりの代表理事会長など。現在、(財)蔵王酪農センター理事長。第31回(平成21年)農協人文化賞一般文化部門特別賞受賞。