いのちの儚さ伝えたい
詞のなかの主人公を歌に乗せ
◆芝居で知った歌の魅力
吉武 クミコちゃんは花が咲き始めたのは50代に入ってからなのよね。
クミコ そうですね。ここ10年間でやっとなんとか、といった感じです。
吉武 そもそも音楽学校出身じゃないわよね。
クミコ 出身は早稲田大学の教育学部ですが、芝居をしたくて演劇サークルに入っていました。幼少期にテレビで見た岩崎加根子さんの「森は生きている」というお芝居にものすごい感動を受けたのがきっかけとなり、舞台が作り出すこの世じゃない世界に生きる人間になりたいと思いました。
吉武 なぜ演劇から歌手の道に?
クミコ サークル活動のなかでやっと一回、別役実さんの不条理劇をやることになったんです。別役さんの劇には必ず劇中歌があるのですが、そのシーンがびっくりするくらい気持ちよくて、歌うことに快感を覚えたんです。そこで私は芝居に向いていなかったんだと、子ども時代からの夢が一気に覚め、芝居より歌をやっていこうと決めました。
吉武 なるほどね。誰かに付いたの?
クミコ 歌の勉強方法を考えていたとき、情報誌で見つけたシャンソンとカンツォーネを1週交代で6カ月間学ぶ、という教室に通いはじめました。終了後はどちらかの先生に付くのがそのときの主流で、当時私はシャンソンにあまり魅力を感じなかったので、カンツォーネを選びました。
◆「縁」と「運」に導かれ
吉武 それでデビューは?
クミコ カンツォーネ教室に通う人はカンツォーネの歌手になるというのが当時の流れのようなものでしたが、ある曲のレッスンを受けたとき、先生の解釈した表現で指導されたんです。私は昔から人に表現を強要されることがとても苦手で、自分との解釈にズレを感じたときカンツォーネへの熱がさーっと冷めてしまい、そこでやめました。歌というのは誰かに表現方法まで教わるものではないし、基礎以外のことまで踏み込まれるのは危険だと思いました。
吉武 なるほどねぇ。
クミコ そうして将来のことを決めないまま大学卒業間際になってしまったのですが、久しぶりに行った大学でバンドのボーカルをやっているという知り合いに偶然会い、私がピアノを弾けるということでバンドの練習にピアニストとして参加することになりました。でも次の練習から彼女がいなくなってしまって…そこで私が急きょボーカルをやることになったんです。
それから自分たちで作った音楽をコンテストに応募したところ、「世界歌謡祭」という最終の大舞台に出られるところまでとんとん拍子で勝ち抜いていき、「これでスターになれるんだ」と思っていた矢先、予選で落ちてしまいました。
その後、せっかく作った歌をどこかで発表したいという私と同じ夢を持っていたバンドのリーダーと結婚したんです。そのとき発表の場所として思いついたのが「銀巴里」(東京・銀座のシャンソン喫茶店)でした。偶然にも、オーディションを受けたのが大ブレイクした歌い手を輩出した数年後という銀巴里の社長が太っ腹になっているよいときだったので、運良く合格したんです。だから自分で「すき間歌手」といっているんですが…(笑い)。
◆「音」に感じた生きる力
吉武 それからどのような生活をしていたの?
クミコ パブやレストランでピアノの弾き語りをして生活費を稼ぎながら、好きな歌は「銀巴里」や「渋谷ジァンジァン」(小劇場)で歌ってバランスをとっていました。
生活費を稼ぐのが目的だったピアノの弾き語りでしたが、とてもよかったと思うことは普通は関わることのできない従業員の人たちとたくさん関われたことです。世の中はいろんな人で成り立っているんだ、ということに気付き、人間勉強ができました。今でも財産です。
吉武 それが今、若い人にちょっと足りないのよね。自立してるから他人に迷惑はかけていないというけれど、自立すればするほど支援度って高くなる。ごはんを食べるにしてもお米一粒自分で作っているわけじゃなく、お百姓さんのお世話になって生きてるわけでしょ。
クミコ そのとき一番感動した出来事がありました。働いていたレストランで、東北の農村から来た従業員のおばちゃんが入ったトイレの個室から、ものすごい勢いのおしっこの音が聞こえたんです。その音を聞いたとき、恥ずかしいといって音を消す時代にありながら、恥じらわない彼女のその行動に生命力を感じました。逆に音を気にしている自分は生きていることに対して後ろ向きで、生を謳歌していないなと恥ずかしくなりました。
彼女の働きぶりを見ていても、いつも前向きで明るくて愚痴も言わない。たまに農村での苦労話をしてくれましたが、その強さこそが彼女の今の生きる強さなんだと知り「人間はただの生きものである」という原点をずっと忘れてはいけないと思いました。
◆目標は風呂場の鼻歌
吉武 「銀巴里」がなくなってからはどうやってがんばったの?
クミコ 40〜45歳がいろんなことが重なって一番暗闇の時代でした。シャンソニエという小さいライブハウスでお客さんが一人になってしまったことがあって、自分が需要と供給という世の中の仕組みから抜けているなと思ったら、歌をやめたくなりました。そのとき「人生の扉はいろんなところにある」とよくいうので、他の道を考えたんです。シナリオライターをめざして学校に通ったり、知り合いの店を借りて水商売を始めてみたりと、一応扉を開けてみましたが、やってみてどれも向いてないということがわかり、やっぱり今まで何十年もやってきた歌に戻ろうと決めました。それからは暗闇をどう打破しようかという戦いでした。
吉武 頭の中だけで考えるんじゃなくてきちんと行動して歩む道を確かめたのね。
クミコ そうして自分の音楽を模索しはじめたとき、声帯出血で手術することになってしまったんです。手術が成功した翌年、そこに光を射してくれたのが作詞家・松本隆さんとの出会いでした。松本さんがプロデュースしてくださることになって、ようやく今の「クミコ」という礎が築けたんです。
吉武 それから10年になるけれど、紅白歌合戦に出るまでになる自信はあった?
クミコ いいえ、私の人生にはないものだと思っていました。
笑いをとっちゃう言い方ですが、シャンソンって同じ“ソン”がついても私が一番伝えたい「農村・山村・漁村」へは届かない音楽なのがすごく引け目でした。歌謡曲世代に育った私は、老若男女がみんな知っていて歌える歌こそが本当の「歌」だとずっと思ってきました。故三木たかし先生と出会い、2004年に「わたしは青空」という歌を作っていただいたことがきっかけで、視野がメイドインジャパンの歌謡曲に定まったんです。私には目標のイメージがあって、農山漁村のおじさんが一日働いたあとに入るお風呂の中でなにげなく出る鼻歌であったり、花見の宴会をやっているおじさんたちの輪に入って歌える歌なんです。
◆役目は儚さ伝えること
吉武 人の命をはずませるような歌ね。クミコのコンサートには必ず行くけど、最近あなたは「命」をテーマにしているわね。それはどうして?
クミコ 歌の中に登場する主人公はどの人も一生懸命生きている。その人をよりリアルに立ち上がらせることが歌い手の役目だと思っています。主人公が歌になってリアルに表れたとき、聞いている人が「私もどこか似ている」と感情移入すると「わたしも同じように生きているんだ」という励みにつながります。
歌は生きることの儚さを表現しているんじゃないかと思うんです。「命はすばらしい」と歌いながらも、その裏では「それだけ儚いものなのだ」ということを意味する隠し絵のようなものです。この世の中はすべて儚いもの同士なのだから、支えあって生きていかなければいけないと思います。その儚さを自分がどれだけ感じて歌えるか、ということだと思っています。
吉武 私は15年ほど前に呼吸困難で病院に運ばれたんですが、集中治療室で目を覚ますと娘夫婦や夫、兄弟が見守っていたのをみた瞬間にものすごい孤独が押し寄せてきてね。何十人と私のことを心配して駆けつけてきてくれる人はいても、一緒に死んでくれる人はいない。人間ってみんな最後は孤独死なんだと思ったら、人間の見方が変わりました。これまで夫といい関係が作れなかったのは、夫のことを「人間」というよりも「夫」という「役割」でしか見ていなかったということに気付いたの。人間は存在そのものが孤独なんだということを知ることができてから、「夫」と「妻」というよりも、やがて孤独に死んでいくもの同士という関係で接し合えるようになって、二人旅を楽しんだりするようになりました。その後、夫は肝臓がんで亡くなってしまったんだけど、そうやって過ごせたおかげで思い残すような後悔はないのよ。
クミコ よかったですねぇ。そう思い合えてからで。
吉武 本当に人間って儚いものね。それに気が付かないで生きていると人にやさしくなれない。クミコちゃんの歌はそれがわかっているからものすごく人をやさしくする。人間の存在としての孤独を肌で感じ取ってそれを表現しているんだなぁと感じます。
PROFILE
くみこ
1954年茨城県生まれ。早稲田大学卒。82年に銀座「銀巴里」のオーディションに合格し、プロとして活動をスタート。99年に作詞家・松本隆氏との出会いで現在の「クミコ」として再デビュー。昨年末は「第61回NHK紅白歌合戦」に初出場。同年に発売した「INORI〜祈り〜」を歌った。