◆平成の開国論は幻想
この研究で、日本のTPP参加が米を主食とするアジアの食料安全保障にどんな影響を与えるかを報告しているのは辻井博教授だ。
日本の米生産費はタイの20倍、米国の10倍と高い。この格差の理由は、日本には谷地田や棚田が多いことことから平均経営規模に大きな差があるからだ。
日本の平均稲作規模はよく知られるように約1ha。米国平均184haで水田一筆あたり面積も日本の平均0.2haに対し30haと圧倒的に広い。この「2重の格差」のために、農業機械や施設の種類と規模も異なり、それが生産費の10倍格差になっているという。
タイの稲作は平均6haで日米ほど格差は大きくないが、労賃や地代が大幅に低いことから20倍の差となっている。
辻井教授は、これまでの研究で日本の稲作の最適規模は15ha程度と報告されていることなどを指摘し、規模拡大してもタイや米国とは競争にならず、ゼロ関税のTPP参加によって日本の米生産は激減、10年後には700万tの米を輸入することになると試算、「菅直人の平成の開国論は幻想」だと強調している。
(写真)(財)アジア人口開発協会常務理事・楠本 修氏
◆大量輸入で価格が急騰
日本が年間700万tもの米を輸入するようになったら米を主食とするアジアの人々にどんな影響を与えるだろうか?
米はアジア・モンスーン地帯の約6億戸の家族農家で生産されており、ほとんどが自国・地域内で消費される。小麦やトウモロコシの貿易率が20%程度なのにくらべ、米は5%しかないことにそれが表れている。
このように少ない世界の米市場から、日本はかつて一挙に大量輸入したことがある。1993年、平成5年の大凶作(作況74)のときだ。250万tの緊急輸入を行った。
辻井教授がこのときの例と韓国が1979〜81年の冷害で3年で300万t以上を輸入した際の国際貿易米価の動向を分析、緊急輸入量と価格との関係を推計したところ、ジャポニカ米の緊急輸入が10%増えると、国際貿易米価は30%程度急上昇することが分かった。
さらに、この関係を日本が700万t輸入にあてはめた試算した。
現在の世界の米貿易総量は2000万tほど。国際米価は1t600ドル程度(タイ米価格)となっている。これを先の関係にしがって試算すると、価格上昇幅は1t630ドル、つまり、2倍以上の急騰となることが示された。
◆日本が新たな飢餓を生む
米はアジア人口42億人のうち約27億人、6割強の人々が主食としている。
一方、世界の飢餓人口9.3億人のうち、5.8億人がアジアの人々だ。このうち米を主食とする人々の割合も6割強とすれば、3.7億人ほどが米食民のうちの飢餓人口となる。
モンスーン・アジアの人々のエンゲル係数は平均で40%程度。すなわち、家計支出の半分近くが食費であり、その大部分が米への支出だという。
辻井教授は、アジアの人々が食費をすべて米に支出すると仮定、その場合に先に試算したように米価が2倍以上に高騰したとするならば食費は2倍になる…。所得が同じであれば食べる量を減らさざるを得ないことになる…。そもそも所得が少ない人はもっと食べる米を減らさざるを得なくなる…。
このような考え方で試算したところ、日本が700万tもの米輸入すると「アジアの米食民の飢餓人口を約10%、すなわち2.7億人ほど大幅に増加させる」との結果となった。
これらの人々は価格高騰がなければ飢餓に陥らなかった人々である。「日本は途上諸国、とくにモンスーン・アジアの米産米食諸国の食料安全保障に大きな負の影響を与えないためにもTPPに参加すべきではない」と辻井教授は強調している。
◆増産で環境への負荷が高まる
そのほかの研究成果も含めて楠本常務に聞いた。
◇ ◇
自由貿易推進派は、日本の食料輸入が増大し世界の食料価格が高騰しても、それが新たな生産と供給を生みだすから世界的に効用は増大する、価格が上がれば日本の農産物にも競争力が生まれるではないか、という考え方ですね。
TPP参加による日本の食料自給率の低下で世界は生産を増加させようとするかもしれません。では、どこで生産を増加させるかといえばブラジルのセラードなどがあげられます。
しかし、セラードは環境的にいえば実は脆弱な地域で、なおかつ生物多様性のホットスポットです。ということは、自由化は世界に効用をもたらすといいながら、猛烈に環境負荷を増やすことになります。
◆世界の食料は今、……
1950年代以降、世界は確かに人口増加を追い抜く勢いで穀物生産を増やしてきました。
しかし、その趨勢に暗雲が垂れ込み始めています。上の図は、穀物生産から消費を差し引いた変化を示したものです。この図でゼロを下回れば備蓄穀物を消費していることを意味し、その逆なら余剰として備蓄されているということです。
この穀物需給収支の変動傾向を示した線が中央の横線ですが、見ると1980年代をピークに弓なりになって近年は下がってきていることが分かります。つまり、世界の食料は決して安心できるものではないということです。
今回の研究で日本が大量に食料輸入を増やせば新たな飢餓人口を生むということが分りました。
世界人口という点から言えば雨が多く持続可能な農業の余力がある日本が食料生産をしないということは環境面からも倫理的からも問題だということです。
今、世界が取り組まなければならないことは飢餓、環境問題などたくさんあるにも関わらず、議論は経済活動の自由化一辺倒―。われわれは、人間が尊厳を持って生きるためにはどうしたらいいか、を中心にした発信がもっと必要だと思います。
人口・開発研究委員会の研究委員
▽内嶋善兵衛(お茶の水女子大名誉教授・元宮崎公立大学長、農業気象学)▽辻井博(京大名誉教授・石川県立大教授、農業経済学)▽原洋之助(東大名誉教授・政策研究大学院大特別教授、農業経済学)▽大賀圭治(東大名誉教授・日大生物資源学部教授、食料需給予測)▽横沢正幸(農業環境技術研究所、農業気象学)▽楠本修(財団法人アジア人口・開発協会常務理事・事務局長)