◆日本医師会がTPP反対の見解発表
日本医師会は、昨年の12月1日の定例記者会見で「日本政府のTPP参加検討に対する問題提起――日本医師会の見解」を発表しました。それによりますと、「TPPへの参加によって、日本の医療に市場原理主義が持ち込まれ、最終的には国民皆保険の崩壊につながりかねない面もあると懸念される」とし、4つの懸念事項を挙げています。1つは、混合診療の全面解禁です。2つ目は、公的医療保険の安全性の低下です。3つ目は、株式会社の医療機関経営への参入による患者の不利益の拡大です。4つ目は、医師・看護師・患者の国際的な移動によって医師不足・医師偏在に拍車がかかり、地域医療を崩壊させる恐れがあるということです。
TPPと医療の関係については、具体的な事が不明であり、推測の域をでないので、日本の医療の現状と過去の医療政策の流れの中で捉える以外にないだろうと思います。日本医師会の「見解」に沿って、TPP論議が医療に与える問題を考えてみます。
(写真)日本文化厚生農業協同組合連合会・ 武藤喜久雄代表理事理事長
◆財界が求める混合診療の解禁とは?
まず、混合診療の全面解禁の懸念についてです。この要求は財界から、医療への株式会社参入の目論見と軌を一にして以前から出てきていたものです。すでに2004年には、規制改革・民間開放推進会議が、「第一次答申」(2004年12月24日)で混合診療の解禁と株式会社等の医療経営への参入を求めました。
株式会社も社会的使命を持って事業を行う側面もありますが、本質的には株主への配当を第一義的に行うという“営利”が目的です。営利企業として日本の医療を見たとき、多くの病院が赤字を余儀なくされていることからも分かるように、低い診療報酬の保険点数で縛られている皆保険制度では魅力がないことになります。
厚生連病院は、経営改善努力をかなり厳しく行っていますが、それでも医療事業本体の損益(115病院総計)は、平成20年度は147億2800万円の損失、平成21年度は経営改善が進みましたが、2億6100万円の損失です。平成22年度は診療報酬のプラス改定(実質0.19%)もあり55億ほどの黒字になりそうですが、それも医師・看護師などの過重労働を省みない使命感にもとづく働きがあって得たものです。このように経営維持のために四苦八苦しているような日本の医療の現状では、営利企業にとっては魅力がないわけです。
営利企業にとって魅力ある市場に変えるには、どうしても現在は禁止されている混合診療の全面解禁が必要になります。混合診療の全面解禁というのは、保険診療と自由診療の組み合わせを医療機関の判断で任意に自由にやっても良いということを意味します。100%自己負担の自由診療でもよいし、あるいは基礎的な診療や検査は保険診療で行い、アメニティの良い病室や新技術の医療部分は自費による自由診療という組み合わせもありえます。並定食、特別定食、極上定食というメニューが用意され、並定食は、100%保険診療で行い、窓口での自己負担は3割。特別定食は保険診療と自由診療の組み合わせで、保険診療の部分は3割の自己負担、自由診療の部分は100%自己負担。従って、個人負担は3割プラス自由診療部分の代金。極上定食は、100%自由診療で全額個人負担というものになります。
医療機関は現在でも100%自由診療は選択することができます(かっての日本医師会長の武見太郎氏は自由診療をやっていました)。しかし自由診療を受けることが出来るのは金持ちだけです。一般の医師は保険医の指定を受けて保険診療を行わないと患者は来ませんので、保険診療で経営を維持することになります。
営利企業としては100%自由診療では患者を集められませんし、そうかといって公的に価格が決定されている保険診療では旨みがありません。そこで、保険診療と自由診療を任意に組み合わせることが可能になる混合診療の全面解禁を求めることになるのです。患者に合わせて医療の価格を自由に決定できるようになりますので、保険診療よりは利益を上げられます。したがって混合診療全面解禁と株式会社参入はワンセットの要求なのです。
また、混合診療全面解禁になると、民間の医療保険が売れるようになります。アメリカは以前から民間保険会社の日本参入の解禁を執拗に要求してきました。本稿では立ち入りませんが、それは郵政民営化や共済攻撃ともつながっています。
(写真)日本医師会の中川俊男副会長は昨年12月1日、記者会見を行い、政府による環太平洋連携協定(TPP:Trans-Pacific Partnership)参加検討に向けての問題提起として、日医の見解を明らかにした。(日医HPより)
◆参入は限定的だが公的保険制度の縮小の危険
現状ではTPPが締結されたとしてもアメリカ資本が大々的に日本の病院経営に乗り出してくることは考えられません。アメリカ資本が流入してくるとすれば、株式会社参入と混合診療の全面解禁が認められ、なおかつ公的医療保険がカバーする範囲が「最小の医療行為」のみになった場合です。「最適の医療」が公的保険でまかなえる状況が維持されていれば、高いお金を出して自由診療または混合診療のアメリカ資本の病院に多くの国民が行くとは思えないからです。日本に参入するとしても富裕層を相手にする医療機関が限定的に出てくる程度でしょう。
公的保険がカバーする医療の範囲が徐々に狭められた場合には、事情が変わってきます。一定以上の収入のある患者がいざという時に備えて民間の医療保険に加入し、自由診療で受診する流れも、一部に出てくると思われます。
しかし、アメリカの病院の医師数はベッド対比で日本の7倍くらい、看護師も日本より圧倒的に多い環境で働いていますので、労働条件の悪い日本に来たがらないとも言われています。アメリカと同じだけのスタッフを揃えると、ごく限られた患者しか行けない病院になってしまいます。
このように総合的に判断して、TPPが締結されても外資が日本の医療に一気に流入してくるとは考えられません。むしろ怖いのは、TPPを口実に、株式会社参入と混合診療全面解禁の糸口を与えるというところではないでしょうか。日本医師会もTPPに反対せざるを得ないのはその理由からです。
株式会社が医療へ参入することで問題になることとして、日本医師会は、(1)医療の質の低下、(2)不採算部門等からの撤退、(3)公的医療保険範囲の縮小、(4)患者の選別、(5)患者負担の拡大――を挙げています。介護保険が導入されたとき、全国的に展開した某社が、不採算地域からはすぐに撤退した事例からも明白なように、営利企業が医療に参入した場合には、不採算地域、不採算診療科の医療を当然やりません。その地域が必要とする医療を提供することをしませんから、地域医療は守られず、地域住民が安心して暮らしていけなくなります。
混合診療の全面解禁により、公的保険では「最適の医療」ではなく、「最小必要な医療」のみをカバーする政策の導入を可能にします。そのことで国庫負担の削減なり抑制は可能になりますが、患者負担は拡大します。「命の沙汰も金次第」になりかねません。日本医師会の株式会社参入による5つの懸念は当然の懸念であるといえます。
◆不採算の農村医療を支える厚生連病院
我々の厚生連病院は、大正・昭和初期から人道主義の立場から農民の生活と健康を守るために無医村地域での診療活動を行った産業組合がルーツです。
戦後も農協連合会が経営する厚生連病院として、他の医療機関が進出を好まない人口の少ない農山村でこそ地域住民の健康、ひいては生活、農業を守るために医療が必要と考え、歯を食いしばって医療を提供してきた歴史があります。それも待ちの姿勢ではなく、地域に出て、病気の早期発見や健康づくりに取り組んできました。政策医療と言われる不採算診療科も地域が必要とするなら当然維持してきました。
表1のように厚生連病院は、115病院のうち人口5万人以下のところに48病院が所在しています。人口10万人以下で取りますと72病院、厚生連病院の63%がそこに所在し、地域医療に奮闘しています。経営的にも医療職確保のうえでも不利な地域です。その姿にこそ、組合員・住民の願いに応える協同組合としての厚生連の価値があります。営利企業にはとても期待できない事でしょう。
民主党政権が、混合診療全面解禁、株式会社参入を政策としていきなり採用していくことは現時点では考えにくいと思います。ましてや東日本大震災で壊滅的な打撃を受け、そこからの復興と社会的救済策が重要な課題になっているときに、混合診療全面解禁による公的医療保険の給付範囲の縮小、患者負担の拡大を打出すことは到底出来ない相談ですし、絶対に許してはなりません。混合診療全面解禁で経営改善しようという錯覚を起こす医療関係者も一部にいるようですが、仮に、株式会社参入と混合診療の全面解禁が実現しても、医療収益を大きく上げることができるのは、限られたブランド病院のみになるでしょう。
農村の地域医療の現状や震災後の地域再建を踏まえるならば、いま最も大事なことは、公的な医療保障の総枠を縮小せず充実させる政策の実現を政府に迫ることであろうと思います。
◆日本から医師の海外流出の恐れも
次に、医師・看護師等の人材の流動化問題です。TPP締結で医師・看護師が日本に流入してくるのか、逆に流失していくのかという問題です。
深刻な医師不足については周知のとおりです。特に、今回の大震災で、元々医師不足の甚だしい東北地方は想像を絶する被害を受け、医師自身も犠牲になりました。病院・診療所の流失も見られます。そのために、さらに医師が不足することになります。それだけに、海外からの医師の流入に期待する声もあるかもしれません。
結論から言えば、TPPの締結によってアメリカから多くの医師が一気に日本に来ることは想像できません。前に見てきたように、高額な自由診療の広がりがなくして旨みはないからです。質の劣る外国人医師なら来るでしょうが、国民の側が受け入れがたいでしょう。
むしろ、優秀な日本の医師が海外に流れる恐れは一部ありえます。医師の外国への流失で医療崩壊に拍車がかかった事例があります。1979年に首相になったサッチャー政権時代のイギリスです。小さな政府をかかげるサッチャーは医療費抑制策を行い、病院の閉鎖、医師の海外への流失が起きました。その結果、入院待ち120万人という状況に陥りました。一旦崩壊させたハードや人材の育成には多くの時間がかかります。崩壊させるのは一瞬、再建は長期間というものです。ブレア政権になって医療費を大幅に上げる政策を実行しましたが、簡単には立ち直れない状況が続きました。2003年当時イギリスに行かれた李啓充・元ハーバード大学教授から直接伺った話では、何とガンの手術待ち6ヶ月とのことでした。日本は英語圏でないので、TPP締結で日本の優秀な医師が大量に海外流出することにはならないとは思います。しかし医師の海外流失を招いたイギリスの政策失敗の教訓はしっかりと押さえておく必要があるでしょう。
アジア諸国からの看護師や介護福祉士の受入も多くの課題があります。現在インドネシア、フイリピンとのEPAによって看護師・介護福祉士の候補者の受入をしています。しかし国家試験の漢字が読めないなど言語が壁になってなかなか合格しません。今回の看護師資格試験では、難解な漢字にはフリガナをつけ疾病名に英語併記するなどしたのでインドネシア15人、フイリピン1人が合格しましたが、合格率はたったの4%です。TPPによってこの国家試験がどのように変わるか分かりませんが、言葉の壁は、医療職間の連携の上でも、患者との意思疎通でもマイナス面として出てきます。ともかく、現在すでにEPAで人材交流をしていますので、あえてTPPを結び看護師・介護福祉士の受入を行う必要はないのではないでしょうか。
◆深刻な医師不足の解決の道は?
医師不足の現状をまとめておきます。表2のように、日本の医師数は人口1000人当り2.1人、上から27番目です(2007年)。OECDの平均は3.1人です。1960年は人口10万人当たり医師数100人でしたが、2008年は213人です。ちなみに、OECDは平均110人から310人へと3倍近くに増やしていますので、日本は決して胸を張れる状態ではないのです。
その上、日本の医師数は届出医師数でカウントしているので、年齢に関係なく医師免許を持った数です。第一線でアクティブに働く医師数ではなく、すでに引退した医師も含まれます。届出医師数28万6699人のうち、実際に病院や診療所で働く医師数は27万1897人です(厚労省発表、2008年12月31日)。さらに年齢構成を見ると、70歳以上の医師が27、087人で約10%を占めています。
医師不足が起きているのは、昔のように、総合的に患者を診る医師が減り、医学の進歩の中で専門が細分化され、深くても狭い範囲しか診られない医師が増えたため、医師数が必要になっているからです。例えば、内科ひとつをとっても消化器科内科、循環器科内科、呼吸器科内科、アレルギー内科、内分泌内科、心療内科などに分かれます。このように細分化されていては、一人の人間の体を全体的に診ることはできません。クリニックなどプライマリケアを担う医療機関では総合的に全体を診られる医師の養成が課題になってきています。
女性医師が働きやすい環境整備が遅れていることも問題です。結婚、出産、子育てから現場復帰にあたっての再教育体制が不十分で、家庭に戻った女性医師を再び活かしきれていません。医師全体に占める女性医師の割合は、29歳以下36.1%、30歳から39歳では26.5%(2008年12月31日)で、前年対比の医師増加率も男性の2%増に対して、女性は8.6%増です。
医師不足で深刻なのは、病院勤務医です。外科系医師などは、36時間連続勤務が存在すると言われています。勤務医の過重労働、患者からのクレームや医療訴訟というリスク、その割に報酬が低いこともあって立ち去り型サボタージュと言われる開業医への転換が勤務医不足に拍車をかけています。特に、農山村地域の病院勤務医が不足しています。農山村での勤務は、子供の教育、奥さんの反対、医師としての成長問題等がからみ赴任したがりません。
また、臨床研修の義務化が地域偏在を助長させています。かっては大学教授の命令で農山村の病院にも赴任したものです。ところが臨床研修医制度によって、学生の意思で研修病院を選定できるようになりました。その結果、大学で研修医として残るのは50%弱になりました。そのために、研修医ゼロの医局も出るなど大学医局が抱える医師数は大きく減少し、派遣先を絞り医師を大学に引き上げざるを得なくなってきたのです。
医師不足については厚生連病院も大きな影響を受けています。医療法で決められている医師の標準人員基準から見て、充足できていない病院が依然として存在しています(表3)。また、表4のように診療科を停止したり診療の制限をしたりせざるを得ない状況が続いています。しかもこの標準人員基準自体が古く、高機能の病院では、標準人員基準の倍の医師が必要とされています。
医師不足の解決には、医師養成数自体の拡大、総合的な診療医の養成、女性医師の労働環境整備、病院勤務医の負担軽減、臨床研修医制度の改善等の総合的な取組みが必要です。TPP締結による人材の流入に期待することでは、医師不足は解決できません。
◆国民皆保険制度の解体への呼び水―TPP
医療に及ぼすTPPの影響についてストレートに関係づけて論じることは現時点では困難といえます。しかしTPPによって株式会社参入、混合診療の全面解禁、皆保険制度の弱体化の呼び水になることは確かであり、日本医師会のTPPに対する懸念に正当性があると思います。
いまやるべきことは、危機的状況にある日本の医療を競争原理の只中に放り込むことではありません。混合診療の全面解禁、外資の医療経営参入や外国人医師等の受入など、TPPの枠組みで想定される政策を進めていけば、国民皆保険制度は解体の危機に陥ります。大震災で大きな打撃を受けた農業と暮らしの再興を支えるためにも、農山漁村地域の医療を守り抜くことが必要です。農村医療・地域医療を守る視点から、多くの人々とともに医療関係者がTPP参加反対の運動を広げていくことが求められています。