◆有機農業を推進
ソウルから南に車で約1時間半、安城(アンソン)市にある古三(コサン)農協を訪ねた。
本店に入ると窓口対応をするカウンターがあり、フロアのソファでは組合員が談笑していた。カウンター横から回って中に入ると、奥には組合長室―。日本の多くの農協とそっくりなつくりである。広がる風景もどこか九州の農村を思わせる。
出迎えてくれたのは趙顯宣(ジョ・ヒュンソン)組合長。今年56歳。若いころからカトリック農民運動に関わり1994年に組合長に就任した。
古三農協の組合員は1038人、職員は25名と京畿道(キョンギド:ソウルを含む韓国北西部の行政区域)で一番小さな農協だ。
水田は500ha、畑は100haの地域で稲作農家は500戸。1戸平均は約1.3haだという。韓国全土の平均経営面積は1.45ha(09年)だからほぼ平均的な地帯だ(日本は2010年データで2.17ha、下図参照)。
農協は1990年代中頃から有機農業に力を入れてきた。生産部会にも有機農業をリードしている親環境農業作物部会がある。
部会長の嚴舜容(オム・スンヨン)さん(58)は3haの稲作農家だ。95年に10戸が集まってアイガモ農法に取り組みはじめた。きっかけは1994年のウルグアイ・ラウンド合意によるUR対策費だった。政府は、今後の国際化をにらみ農産物の差別化に取り組む農家を支援する助成を決めた。これを活用した。
もちろん最初からうまくいったわけではない。
「米とカモ肉を販売しようと思っていたんだが、カモをさばく技術がなくて。業者に頼んだら、結局、赤字ということもあったね」と部会理事の黄善榮(ファン・ソンヨン)さん(60)と笑い合った。
その後、鳥インフルエンザが発生、アイガモ農法はあきらめタニシによる除草に切り替えた。米ぬかを雑草抑制に利用する方法も導入するなど工夫を重ねてきている。「今は技術が完成した」と嚴部会長はいう。6年前、慣行農法による一般米の単収10a620kgに対して有機米は440kgだった。それが「今では620kgになった」と胸を張る。
現在は水田の6割まで有機農業による米づくりが拡大、これを7割にするのが目標だ。年間生産量は1200tで全量を農協が集荷・販売している。
(写真上から)
安城市の農地。4月初め、肥料をまく光景が見られた
趙顯宣組合長(古三農協)
嚴舜容さん(稲作農家)
◆消費者の支持がなければ…
この農法への取り組みをきっかけに都会の百貨店、スーパーへの売り込みや農協が売り場を借りて販売するなど、販路開拓に努力してきた。価格は一般米にくらべて3割ほど高く売っている。農協のスーパーでも「有機農業の米」とプリントして販売していたが、精米10kgで3万5000ウォン、隣に並べた一般米は同2万5000ウォンだった(1000ウォン=75.6円、5月末時点円)。
最近では都市住民との交流に力を入れており、幼稚園、小学校などの給食用販売が50%を占めるようになった。親環境農業を実践しているということから、何千人も視察や農業体験に訪れるようになったことが契約に結びついたという。
「学校給食用の米は今年は足りないほど。長期に安定した取引になるし子どもたちの健康にも貢献する。昔は農業は一段低く見られていたが、農家が農業を教えることで自信や誇らしさが出てきました」と趙組合長。
ただし、農家所得にすんなりと結びついているわけではない。
価格は3割高く販売しているがコストも上昇。
嚴部会長も「そんなに所得の助けにはなっていないですよ。ただ、魚やホタルが戻ってきたし、地域全体が親環境農業にならなくては」と話す。
◆口蹄疫被害で岐路に
米国とのFTAで米は自由化品目から除外されているとはいえ、FTAを推進する韓国の農村には稲作農家も含めて不安が漂う。
韓国の農家人口比率は6.4%だ。
「FTAにはもちろん反対です。食料主権を守れ、と言いたい。自給率を上げるという政府の意思が弱い。しかし農民だけでは対抗できません。農家以外の95%の国民が農業があって幸せだ、安心だという考えを持たないと希望がない。消費者の絶対的な支持がないと韓国の農業は成り立たないんです」
そう力を込めて話す趙組合長の思いをいっそう強める事態に今、韓国農業は立たされている。
この地域では肥育農家100戸が牛8000頭を、5戸の養豚農家が豚5000頭を飼っているという。
ただ、昨年11月に再発した口蹄疫はこの村にも波及し、村一番の養豚農家が1万4000頭を埋却したというから、少し前まではもっと家畜の頭数は多かったようだ。
◇ ◇
3月末に韓国政府は終息宣言をし、取材時は全国で移動制限が解除されていた(注:その後、4月17日に再発が確認されている)。この間、全国で1000万頭の豚のうち300万頭を埋却した。牛は450万頭のうち15万頭が埋められた。政府は発生時点での価格で補償し、生活費支援のため1000万ウォン(約76万円)の無利子融資を行っている。
肥育牛80頭、繁殖牛90頭の「韓牛」を飼う朴永雨(パク・ヨンウ)さん(52)は「今は大丈夫。でも本当に心配しました」と話した。畜産農家6人が1組となって1日2回、村のなかを消毒に歩いたという。
父親が細々と飼っていた使役牛2頭を受け継ぎ、1988年から肥育を、2000年から「おいしい肉にするには繁殖からやる必要がある」と一貫経営をしてきた。韓国では50頭以上を飼養していれば大規模経営だ。平均的な姿は米づくり+牛9〜10頭だという。
―米国とのFTAをどう考えていますか?
「心配が多いです。ただ、今入っている米産牛はまだ質が低い。私たちは韓国人の口に合う牛肉を作っていきたいと思っています」。 稲作農家の嚴部会長は「反対しても来るのものは来る。畜産農家には自信がある人も多いんじゃないか」という。それは「韓国人の口に合うおいしい肉をつくる」ということだろう。
しかし、趙組合長はこう言う。
「今までは景気がよくて韓牛はいわばバブルだった。たしかにおいしい肉をつくる努力をしてきたが反省しなければならない。本当においしい肉でいいのか。健康でなくていいのか。工場のような畜産を見直さなければならない。農家の所得も大事だが健康な飼育環境も大事なんです」。
今回の口蹄疫禍で韓国国民には、農村地帯に大量に埋却された家畜による将来の環境問題を不安視、農業は何をやってるのか、という気持ちが出てきた。「消費者の絶対的な支持」がなければ成り立たないという韓国農業にとってこれは危機だ。 「おいしい肉が健康を支えるわけではないということを私たちも考える必要がある」。
(写真)
上:古三農協
下:朴永雨さん(右)、長男の朴天英さん(左)
◆グローバル化で格差が拡大
朴さんには地元のハンギョン大農学部をこの春卒業した長男、天英(チュンヨン)さんという後継者がいるが、嚴部会長に後継者はいない。
韓国農家の一戸あたり人数は2.6人(08年)。日本の4.4人(同)よりも少ない。専業農家率は58%と日本の24%よりずっと高いが、60歳以上の割合が56%と高齢化している(いずれも09年)。農村には高齢の親世代だけが残って農業を続けてきたという構図だ。
ソウルへの人口一極集中は日本より激しい(関連記事)。安城市に向かうときも漢江を渡り南に向かう片側5車線もの道路は上下線とも大渋滞だった。道沿いには高層アパートが林立する。そんな風景がずっと続く。
40〜50坪の部屋で高層階が人気でソウル一の繁華街、河南にあるアパートは30坪で10億ウォンだと聞いた。ちなみに、韓国農家の年平均所得は3420万ウォンだ(10年)。
韓国農村経済研究院の前院長の李貞煥(リー・ジョンウォン)さんは「教育問題は日本よりも重要。農村にいてはいい大学に入れないと高校から都会に行かせることも」と語る。農村にいないで都会に出て仕事をと、親は子どもたちにいうようになった。
「農村で世代交代が起きる前に、日本の高度成長時代よりも早いスピードで経済成長が起きた。今の農業構造はその歪みです」。
韓国農村経済研究院の金泰坤(キム・テゴン)研究委員は都市勤労者と農家間の所得格差を示すグラフを取り出し説明してくれた。
見るとUR合意のころまではほとんど差がなかったのに、96年以降に差がどんどん開いている。ワニが口を開けているようだ(上図)。
UR合意後も農政の目的は所得均衡だったが、金研究委員は輸入品の増加による価格の下落、生産の縮小によって所得が下落したとする。
都市・農村の格差拡大に加えて最近では農家階層間の所得格差も広がっている。
45歳未満の農業後継者らが加入する韓国農業経営人中央連合会の孫在範(ソン・ジェバム)事務局長によると稲作で30ha経営の青年農家も出てきたという。畜産でもこれに特化して経営規模を拡大してきたため、農家間の格差は確かに大きくなっているという。
金研究委員によれば、所得の低位2割層と上位5割層との格差は、98年には7.2倍だったが、06年には9.1倍にまで拡大。さらに農家所得全体が下落した07年から08年にかけては11.2倍となった。
「農家所得の下落局面でも格差が拡大。都市住民と農家、農家と農家の間という二重の格差が存在する」(下図)。
これは何も農家に限ったことではない。都市住民の間でも格差が拡大、約7倍だという。「不均衡が韓国社会の分裂をもたらすのではないか。これがグローバル化の問題です」という。
こうした状況のなかで韓国はFTA戦略を進めてきた。
政府の農林水産食品部地域貿易協定課の金鐘模(キム・ジンモ)さんは「政府としては同時多発的FTAは国の成長の動力と考えている」と話す。
04年のチリとのFTAを皮切りに10年12月までに8か国・地域とFTAを締結・合意をしている。
チリとのFTA交渉では▽廃園補償と所得補償▽競争力強化対策、▽農業の体質改善を柱と04年から10年まで1.2兆ウォンの対策を打った。
07年には米国とのFTA合意後に08年から10年間に20兆ウォンの対策を決めた。対策の柱はチリとのFTA対策のときを同じだ。
ただし、農林水産食品部農業政策課の朴蓮珠(パク・エンジュ)さんは「今回はチリ対策のように対象品目は決めていません。今、すべてを対象にした直接支払い制度を検討中です」と答えた。
朴さんによれば、今検討されているのは農家所得を基準に(5年平均の8割)、それを下回った分の8.5割を補てんする直接支払い制度だという。
◆食料政策をどう考える?
農林水産食品部をはじめ関係者からは、各FTA交渉の中身や農業対策についての説明を繰り返し受けた。
たとえば、チリ対策では施設ブドウやキウィなどを対象に「基準価格の8割まで下落したら、下落分の8割を補てん」、「廃園したら3年間純所得を支援」などだ。そして米国とのFTAでは被害が広範になるから、まだ品目は決めていない―と。
しかし、この国の食料政策の全体像がなかなか見えてこない、というのが率直な印象だ。
日本だって偉そうなことは到底言えないのだが、農村経済研究院の金さんにその疑問をぶつけると「確かにその都度、被害が補てんされさえすればいい、という考え方があったかも。これは財界にとっては非常に扱いやすいでしょうね」。
日本の農林水産省の試算では韓国のカロリーベース食料自給率は1990年63%が07年には44%と急激に低下している。
品目別にみると麦の生産量はほとんどなくなってしまった(上図)。理由は米の統一品種導入で作期が早まり裏作ができなくなったことに加え、麦の生産が多かった山間部から経済成長にともなって人が離れたことなどだという。
米韓FTAでは米は除外品目だが、麦とトウモロコシは関税撤廃に合意した。前出の農林水産食品部でFTAを担当する金さんは「小麦は米国へのプレゼント」と答えた。
驚いた。
―それでいいのですか?
「いや、保護したかったが面積も少なくなっていて、そうせざるを得なかった。やはり奪われた…という思いです」。
そして現在、交渉中の豪州との間では「奪われた小麦」は米国と同じ関税撤廃を条件に差し出し、その代わり酪農で条件を設けられないかという交渉になっているという。
韓国農業経営人中央連合会など農業団体は今も米韓FTAを国会で批准しないよう反対運動を続けている。
原産地表示をしっかりすれば、たとえば韓牛ならば生き残れるという声もある。しかし、孫事務局長は「結局は安いものを買うようになるのではないか。影響のない品目なんてとくにないと考えています」と語り、そのうえで「この国は自給率を上げることが政策ではなかった。所得を高める、競争力を高めることばかりだった」と話した。
◆東アジアの食料安保を
農村経済研究院の金さんによると、FTAの推進は都会にも亀裂を生じさせはじめているという。FTAで利益を得ているのは4%の企業にとどまる。恩恵にあずかれない中小企業にもその利益の還元を求める声が出てきたという。金さんはそれを農業保護にも活用すべきと提起している。
一方で韓国では米は保護するものの、小麦や大豆の生産をどうするかといった食料全体の議論はない。しかし、東アジアの穀物輸入量は中国6000万t、日本2600万t、そして韓国が1450tと合計で1億tに迫る。「食料安保は東アジア共通の課題」として認識すべきで、韓国は市場開放のスピード調整をし、一方で農業は、今回の口蹄疫禍を機に、より高い水準での親環境農業をめざすべきだろうという。
食料をどう確保するのか。それを可能にする農業、そして農村をどうつくるか―。
孫事務局長は「こういう議論の仕方を私たちは日本に学ばなければならないと思っています」と語った。それはもちろん日本の問題でもある。