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【特別対談】不屈の精神で災害からの復興を  小野田寛郎・(財)小野田自然塾理事長 加藤一郎・JA全農専務理事

・人類の知恵が試されている
・便利さに頼っていてよいのか…
・あらゆる人から教えを請うて…
・苦しい時は過去を振り返らない

 南方の密林で終戦後も約30年間戦い続けた小野田寛郎さんの1974年の帰国は、世間を驚倒させた。その後、ブラジルに移住し、牧場を営んでいるが、その生きざまは正に不屈だ。東日本大震災からの復興に取り組むにあたり、改めて、その体験を聞くため、2007年12月以来、JA全農の加藤専務と小野田さんとの農業協同組合新聞紙上2度目の対談となった。

己を知って挑戦を「断行」
そして「拙速」も尊ぶ


◆人類の知恵が試されている

toku1107010101.jpg 加藤 小野田さんはフィリピン・ルバング島のジャングルで30年間孤独な戦いをされ、帰国後は環境激変の中で、ブラジルに移住するなど普通の人間にはできない体験をされました。今日はその中から、人生再出発に関わるお話をいただき、東日本大震災の被災者に対する応援にもしたいと思います。最初に今回の震災について思われることは…。
 小野田 関東大震災を踏まえて、「文明が進むほど天災による損害の程度も累進する傾向がある」と随筆家であり物理学者でもある寺田寅彦が、昭和の初期に注意喚起をしてます。まさに、この言葉のとおりの結果がもたらされており、人類の知恵が試されていると感じます。確かに効率の良い機械ほど壊れやすいのですよ。例えば木を切る道具で一番原始的なのは斧ですが、これは石でたたいても壊れ難い。だがチェーンソーは子どもでも簡単に壊せます。中間的存在の鋸も斧よりは壊しやすい。原発の問題もまさしく、こうしたことと隣り合わせにあるわけです。科学の粋を尽くして、技術が結集されているからこそ、災害の影響はとてつもなく大きくなっていると実感させられています。
 加藤 想定外の災害であったということも、関係者からは当初言われていたようですが…。
 小野田 想定外などというのはいいわけに過ぎません。東電は原発の安全をいい続けましたが、絶対安全というのは、明らかになっているデータに2倍も3倍もの安全係数を掛けたものをいいます。原子炉の中はいわば火です。燃えている火からは目を離してはいけないのは当然のこと。キャンプファイアーでも水を張ったバケツを傍に置きます。昔は天ぷらを揚げる傍に濡れむしろを置くことも多かったのですよ。
 燃料棒は冷まさなくてはいけない。“津波で冷却装置が壊れた”ではすみません。津波が来るのはわかっていても、火を消すことをしっかり考えていなかったのでしょうね。
 「起こした火は起こした者が消す」古来からの戒を忘れていたのです。

(写真)小野田寛郎氏・おのだ・ひろお 1922年3月和歌山県生まれ。上海の商事会社に勤務したが、現地召集され、陸軍甲種幹部候補生に合格。陸軍予備士官学校を卒業。さらに陸軍中野学校で情報将校として育成された。1944年ルバング島着任。陸軍少尉。1974年日本帰国。間もなくブラジルに移住し、やがて小野田牧場の経営に成功した。その後財団法人・小野田自然塾を主宰。子どもたちの逞しい成長を願って全国の学校などで講演会や野外体験活動などを実施。日本とブラジルを往復し続けている。

 


◆便利さに頼っていてよいのか…

toku1107010102.jpg 加藤 話は飛びますが、私には帰国時の小野田さんの軍服が印象に残っています。あの軍服は現地の民家から取ってきたぼろ布を縫い合わせたものであり、縫い針は自分で作ったとのことでした。今は何でもそろう世の中ですが、一方では、その便利さに頼っていて良いのかといった思いもあります。針1本までを自給した小野田哲学として現代の便利さどう思われますか。針を作った苦心談をもう少し聞かせて下さい。
 小野田 米兵のナイフや鋼線を取ってきて、焼きを戻し、メドの部分は薄く平べったくして糸の穴を開けますが、それらの細工には鏨(たがね)がいるので、まずは鏨を作りました。鏨の材料はホールディングナイフのスプリングです。
 散髪用のハサミも作りましたよ。鋸の焼きを戻してね。とにかく作り方を教わったわけでなく、すべてが独学だから失敗をくり返し、針1本の完成に2日以上もかけたりしました。
 加藤 気の遠くなる作業だったのですね。
 小野田 後日の話ですが、そうやってぼろ布を縫い合わせた軍服を、ドイツの映画監督が見て「これならファッションデザイナーのピエールカルダンも絶賛してくれるだろう」と私に話しました。
 加藤 困難な状況にも自身の経験や知恵、何より強靭な精神力で乗り切ってこられた小野田さんですが、環境に“適応する”ことと“打破する”ことの違いをどう考えますか。このような震災の影響が出ているなかで、人間はどうすべきなのでしょうか。
 小野田 人工的環境なら、知恵を使えば突破できますが、自然の環境は打破できない、そこを分けて考え、原則的にできないことには挑戦せず、諦めることです。自分にとって重要なのは、己を知るということではなかったかと思います。自分はどれだけの知識をもっているか、体力的にどれだけの能力があるか、これを知っていれば、あとは、それを利用できる仕事を探せばよい。そうした結果、自分の場合はブラジルでの農場経営へのチャレンジにつながっていったのだと思います。
 加藤 帰国後は日本に落ち着く生活設計もあったはずですが、敢えてブラジルに牧場を開いて新たな挑戦に出たのは、どういう心情からですか。

(写真)
JA全農代表理事専務・加藤一郎 氏


◆あらゆる人から教えを請うて…

 小野田 私の帰国は上官の命令が出たため降伏したので、だから現地では比島国大統領の事前の命令で捕虜としての取調べを受けることなく武装解除もされず将校待遇でした。ところが日本に帰って見ると、国は私を密林から助け出したというのです。だが私には“助けてくれ”といった覚えはありません。
 また、あの戦争は間違っていた―とするのが世間の通念でした。それに従えば、私の命をかけたルバング島30年の戦いや、一緒に戦って死んでいった部下たちをすべて否定し、捨て去らないといけない、そんなことは私にはできませんでした。
 一方、国からは私に見舞金が出たし、全国の有志からも応援をいただいたので、それを靖国神社に奉納したところ、軍国主義の復活に加担するものだと批判が出て、マスコミも騒ぎ立てました。
 こんなところに住んでいれば、やがて「悪うございました」と土下座しなきゃいけない羽目に陥るかも知れないと思ってブラジル移住を決意しました。
 あそこなら、うるさい人間もいないし、しかも牧場経営なら人間と余り関わらなくてもよいと考えて選択したのです。
 加藤 でも1人で再出発は困難です。人と人との絆や、つながりはいかがでしたか。
 小野田 ブラジルでは、ありとあらゆる人に頭を下げて教えを乞うほかはありません。移住者の先輩の中には、後から来た日本人に助言も指導もしないで失敗させては先輩としての面目に関わる―という考え方の同業者がいました。私はそういう立派な方に教えてもらいました。しかし世の中は面白い。その大先輩に教わって、牧場をうまく経営できた後輩はいないのです。
 加藤 やはり自分の知恵を使わないといけないのですね。
 小野田 そうです。後輩たちは大先輩の教えを応用できなかったのです。大先輩はそれぞれの牧場は何百kmも離れており、諸条件が違います。だから自分の牧場の周囲からも情報や意見を聞く必要がありますと教わりました。それをしなかったのです。
 ブラジルでは雨の周期がわからないため10、11、12月と年に3回の陸稲の種まきをしますが、単収が多いのは10月まきです。そこで私は近くの各農場で豊作と凶作の過去のデータを調べてグラフを作り、これと私が30年間ルバングの島で作っていたデータを併せて、雨の周期がわかるようにしたので、私はこれからは10月まきだけにする計画をしたのです。
 データという言葉からの連想ですが、今回は、1000年前に巨大な津波が東日本を襲ったデータが忘れられていましたね。農業は土地から離れられない仕事ですから、その土地で発生した災害は伝承していく必要があります。

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◆苦しい時は過去を振り返らない

 加藤 小野田さんは陸軍中野学校出身であり、中野学校というとスパイ学校といわれますが、米国ではC.I.A.インテリジェンスです。「情報」と「分析」にもとづく「行動」が日本人の弱いところかもしれません。
 小野田 のんき過ぎるといいますかね。危機管理という言葉がありますが、私は戦争中のそれは第一に命を取られないこと、第二に銃を放さないことでした。今も命が一番大切です。
 被災者の関わりで申しますと、亡くなった人はいくら悔やんでも戻らない。自分までがつぶれたら2人とも亡くなった形になります。これは一番不幸です。だから自分は再起して、苦しい時は過去を振り返らないこと。昔は戻らないのですから。
 そして現状をどう把握し、どう方策を立てるか。『今だからこそ伝えたい師小野田寛郎のことば 魚は水 人は人の中』(原充男著)という本には「思い切って断行すること」と説きました。状況の好転が望めない時は成功率が低くても、断行することが必要です。成功率半々なら博打ですが、それより低くても、それしかないのだから断行するということです。
 また「軍は拙速を尊ぶ」という言葉もあります。まずくてもいい、早くないとダメだ、巧妙であっても遅かったら時機を失してしまうというのです。
 加藤 ビジョンをつくって、これで大丈夫と確認してから動き出すのではなく、非常事態のもとでは動きながら考えることが重要というのですか。
 小野田 そうです。
 加藤 最後にまた原発の問題ですが、JA新ふくしま(福島)の菅野孝志専務の言葉を借りれば「チェルノブイリ、スリーマイル島と並ぶ世界史に残る事故が福島で起き、広島、長崎を加えると日本の被災は3度目となります。それに福島は米、畜産、野菜、果樹など多様な農業生産のできる土地であり、チェルノブイリとは違います。」これから、土壌汚染をどう解決するか、放射能の食物連鎖の解明などについて、全世界から基金を集めて英知を結集し、放射能汚染から農業の復興のモデルをつくることが全世界に放射能の不安をもたらした日本の義務だと思います。小野田さんはこうした状況をどうご覧になりますか。
 小野田 当面の問題として政府にはしっかりしてほしいですね。放射性物質による農産物汚染の基準にしても政府に信用がないから一種のデマが流れるのです。一般の人が知りたいのは、どれだけ浴びれば体に異常がでるのか、致死量はどれだけかです。“レントゲン撮影1回分”などといった比較には意味がありません。放射能についてきちんとした理解が進めば動揺も少なくなると思います。


【対談を終えて】

 小野田氏は二年前から全国の小・中学校・高校で未来を担う子供たちが「人は一人で生きていけない」ことに気づき、生きる目的を見つけ、その目的に向けて突き進む強固な意志をもった「逞しい真の日本人」として育つこと願って、特別授業をおこなってこられた。
 震災があった今、氏の授業は東日本大震災からの復興を、まさに予見するような取り組みではなかったか。
 また、氏は三陸海岸のある集落で「これより前に住居を作るな」の意を持つ石碑が立っていることに触れ、先人の言葉、伝承を見直すべきと云われた。
 二十一世紀。もう一度、歴史からの知見を考え直す時代がきたと思う。(加藤)

(2011.07.01)