特集

地域と命と暮らしをまもるために 協同の力で人間を主人公とした被災地の復興を

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命をつなぎ地域再生を  山古志からのメッセージ

・集落のつながりを今こそ大切に
・スタートラインは元の生活への「復旧」
・行政に求められる想像力
・集落機能の再生をめざす
・農村の生活を見つめ直す
・命の連鎖で地域をつなぐ

 2004年10月。新潟県で発生した中越地震で山古志村(当時、現在は長岡市)は全村避難した。交通が途絶えたためにヘリコプターで長岡市内に運ばれる住民や牛の姿を伝えたニュースが記憶に残っている。その山古志村は「帰ろう山古志へ」をキャッチフレーズに集落単位での仮設住宅暮らしをし、3年後には復旧した村に2000人の住民のうち7割が戻った。
 復旧・復興のキーワードは「山の暮らしの再生」。伝統的な日本の暮らしを改めて取り戻そうという復興で、農業や闘牛も復活、今では都市との交流も盛んになっている。
 本特集の提言では京大の岡田教授が東北の復興にはこの山古志の例が参考になると指摘している(/archive03/proposal/proposal/2011/proposal110726-14348.html)。山古志のどこに学ぶべきか。当時は村の企画課長で、山古志に戻ってから支所長を務めた青木勝さんを訪ねた。

◆集落のつながりを今こそ大切に


長岡市山古志支所元支所長 青木 勝 氏 中越地震で山古志村は全村避難を余儀なくされました。長岡市内に8か所の避難所を用意してもらって、とにかくヘリコプターから降りた順に入ってもらった。一泊たりとも野宿はさせないぞという気持ちでした。
 それでなんとか仮設住宅ができるまでしのげると思いましたが、できません。やはり濃密なつながりを持っている集落単位で意思疎通ができないと長期避難には耐えられないんです。だから1週間ほど経って、8か所の避難所の収容量を全部計算して集落ごとに入り直してもらった。それからは集落機能が発揮され、住民に安心感が出てきました。
 ヘリで避難するとき、ほとんどの人たちはこれだけ痛めつけられた山古志に二度と戻ってこれないのではないかという気持ちでした。しかし、避難生活のなかで住民の意向を確認すると、とにかく山古志に帰りたいという気持ちがいちばん強かった。それならどうすれば帰ることができるのかを追求していくことが行政の務めだと、当時の長島村長を先頭に「帰ろう山古志へ」というキャッチフレーズを打ち出したわけです。
山古志からのメッセージ とはいえ何年かかるか分かりませんから、仮設住宅も当然、集落単位で入居することにしました。さらに村役場も一緒に仮設住宅地内に避難したことも住民の安心感につながったと思います。そこには農協の店舗も郵便局も出してもらった。想定外の災害のときは、臨時でいいので必要なものはどんどん作っていかなければ前には進まないんです。
 一方で私たちが山古志に帰ることを前提に国も県も最大限努力するという意思確認ができて、その方向で動き始めた。それを目にしたときに、帰れるようになるかもしれないと住民が思い始め、では、どういう山古志にしていくのかという、地域再生の方針をつくっていくことになったわけです。つまり、何とかなりそうだということが目に見えてきたから復興に向けた話も始まったということです。

(写真)長岡市山古志支所元支所長 青木 勝 氏

 

◆スタートラインは元の生活への「復旧」


 そのときにビジョンとして掲げたのが「山の暮らしの再生」でしたが、これは大まかな目標でした。しかも震災から6か月後です。今回の震災では、復興プランがなければ前に進まないと思っているようですが、実際、山古志の場合はそんなことはなかったんです。
 ところが、今回は政治も行政も海岸近くには住んではだめだというようなことばかりを前提にし、目先のことに目をつぶって5年後、10年後の話をしています。そんな話をしてもらっても避難している住民にとっては何の支えにもならないと思うんです。
 東北地方は津波の被害を何回も受けていると思いますが、そのなかでもちゃんと生活してきたじゃないか、という思いがあるはずです。
 今、目の前にある危機に目をつぶって将来のことを話す―、格好はいいけど被災者の助けにならない。
 スタートラインは、そこに帰ってもう一度同じ生活をしようということです。そのために復旧に動く。もちろん最終的には元に戻れないと判断しなければいけない地域もあるでしょうが、地域に根ざして暮らしている人たちを地域から引き剥がし、あとはここに家を作ってはダメ、では展望が持てない。
 だから、仮設住宅をつくっても入れないわけです。復旧という将来展望がなく、今は仮設住宅をつくること自体が目標になっている。何でもいいから仮設住宅をつくってそこに入ってもらって避難所を閉鎖することができればとりあえずいい、と。これは阪神大震災のときと同じです。住んでいたところから2時間も3時間もかかるところに仮設住宅をつくって、自分たちで生活しろよでは、もっと住民が悲惨な状況になる可能性があると思います。

 

◆行政に求められる想像力


山古志にある復興公営住宅 中越地震で私たちが実感したのは行政とは地域力を構成する要素のひとつだということでした。だから、避難所には市町村の職員をつけるべきだと思います。もし職員が不足しているなら臨時職員を採用してでも、集団で避難しているところには確実につける。それぐらいやらないと住民と行政との一体感は保てません。役所というよりも、自分たちの地域の仲間が仕事をしているという意識が大事なんですね。
 それが希薄になっているのは市町村合併があったからだろうと思います。山古志村も震災の翌年には長岡市と合併しましたが、今回は市町村合併後に東北を震災が襲ったということになりました。
 だから、2つの町が合併したとすれば、異なる文化、歴史があるはずで、その地域を再生するということは、地域ごとに異なる問題を行政が拾い出して問題解決がきっちりできるかということです。そこはイマジネーションなんですよ。
 当初は、これだけ被害が大規模だと山古志の例は参考にならないのではと考えていましたが、被災地に入ると、これは山古志だと思いましたね。だから、山古志でできたことができないはずはないと発信していくことが非常に重要だと思っています。

(写真)
山古志にある復興公営住宅

 

◆集落機能の再生をめざす


 これからの問題は、まず家が作れるのかどうかです。山古志の場合も住宅を作ることができなければ、帰ろう、といってもどうしようもなかった。住宅再建が個人にとってはいちばん重要な話になります。
 ただし、山に帰って暮らすには住宅再建は必須の条件だけれども、十分ではないわけです。というのは、住宅を作っただけでは山の暮らしは完結しないからです。それこそ生業の部分も復活させなければならないし、何よりも自然条件の厳しいところで安定的に暮らすには集落がきちんと機能をしなければいけない。
自力再生した住宅のなかに建つ公営住宅 そこで山古志では住宅再建というよりも、集落機能を再生することが山で暮らすためのいちばん重要な条件だと考えた。だから住宅を再建するのではなくて、集落再生だとしたわけです。
 そうした考え方のなかから、どうしても自力で住宅を作れない人たちのために公営住宅を山古志村のなかに作ろうということになったわけです。しかし、1か所に鉄筋コンクリート3階建ての公営住宅を作って、そこに入ればいいというのでは山の生活は成り立たない。そこで集落ごとに集落のなかに作ることにしたんです。

(写真)
自力再生した住宅のなかに建つ公営住宅

 

◆農村の生活を見つめ直す


 さらにそこまで考えたとき、こうした集落機能を再生させた山の暮らしとは、将来的に意味があるのかということを議論しなければならないことに気づきました。というのも、過疎地域対策を40年間もやって、ある程度、生活環境は整ったわけですが過疎化は止まらなかった。そこにもう一度お金をかけて地域を再生するということに、地域政策としての意味がなければ国民の理解を得られないということです。
 そのために私たちがコンサルタントを委嘱したのは都市計画が専門の人でした。再生させようとしている山の暮らしに都市からの理解が得られなければと考えたからです。私たちが考えている地域づくりと都市の見方をすり合わせていこうというのが山古志の集落再生の考え方でした。
復興後、アルパカ牧場も開設。都市との交流人口も増えた その議論では、再生させた地域の環境を都市に開放していかなければならないということになりました。山の暮らしの再生には都市が山の暮らしを価値あるものとして認める必要があるということです。ですから公営住宅も、将来、そこに都会から人が入居してもきちんと地域資源を活かして生活できるように設計した。
 過疎対策を続けても過疎化は止まりませんでしたが、生活環境は大きく改善しました。除雪をすれば冬でも暮らせるようになったし、インターネット環境も整備されています。つまり、過疎対策によって過疎化はとまらなかったけれども、生活環境の面では地域格差が少なくなったわけです。
 一方、人口格差はものすごくアンバランスです。国土の7割を占める中山間地域に暮らす人は15%しかいない。85%の人が3割の土地に住んでいるのが今の日本です。
 しかし、定年後の20年間を山村に戻ってもう一度、生活を楽しむということができるようになっているわけですね。生活環境は整備されていますから、これからは山村を都市の財産としても使えるということです。それがアンバランスな人口格差を解消できる。
 山の暮らしは、実は年取った人にはベストマッチだということです。ある程度の年金では都会では苦しいけれども、地方でなら十分なわけです。自分ができる範囲の畑仕事をやったり、もっと豊かに安心、安定的に人生の後半部分を送れるだけの環境は整っている。それを都会に開放する。

(写真)
復興後、アルパカ牧場も開設。都市との交流人口も増えた

 

◆命の連鎖で地域をつなぐ


 その考え方で東北を見れば、今後の国の地域政策を変える、あるいは国土経営を変えるインパクトのある復興もできる。日本を変えるための契機にするということです。
 それは経済成長を争うのではなくて、安定成長のなかで国民が本当に安心して暮らせる日本、そのように変わっていくことに生かすということが復興にとって大切だと思います。
 その考え方を山古志では山の暮らしの再生としましたが、これは日本人の伝統的な暮らし方です。地域の歴史や環境、風物を生かしながら安定的に暮らしていく。それは東北をはじめとした地方の暮らしにある。そういう転機として、この震災を捉えると非常に可能性があると思います。しかし、今のやり方はその可能性を全部潰していく方向でしかないのではないかと思います。元に戻れないということを前提に考えては活力は出ません。途方に暮れるばかりです。
 そもそも日本の伝統的な暮らし方とは、人生には限りがあることが分かっている暮らし方です。ただ、地域が持続していくかどうかは、命の連鎖があるからだということを日本の伝統的な考え方は常に持っていると思います。
 歴史上、何回も津波被害を受けている東北の人たちが今回の津波で全部だめになってしまうはずがない。生きている人たちがそこで暮らすことによって命が連鎖し地域が次の代につながっていく。そういう生き方をもう一回見直して評価していくことも実は重要だと思います。

(2011.07.25)