協同組合の力で日本を救ってほしい
復興とは「社会を転換させる」こと
経済評論家 内橋克人氏
◆巨大複合災害への怒り
先ほど、庄條会長の、内なる怒りを抑制なされた、終始、穏やかな語り口を崩さぬ、懸命なお話しぶり、私は深い感動とともに拝聴させて頂きました。不条理な被曝にうたれた「フクシマの農」を担う当事者として、恐らくは、お心のなかに何百万倍もの怒りを沸々とたぎらせておられたことと拝察します。
私たちが生きるこの日本とは一体どういう社会なのか――。庄條会長のお話を伺いながら、代わって私たちがフクシマの方々の怒りを言葉にしなければならないと、再び三度、心に期した次第です。
あの福島の地から放射線被曝を免れるために幼い子どもを連れて県外に出ることを、政府もマスコミも、何の抵抗もなく“自主避難”などと呼ぶ。いったい、誰が好きこのんで、自ら育った故郷を後にし、見知らぬ地へと逃亡などするでしょうか。自主ではない、不条理な強制に追われ、住み慣れた、愛するふ故郷の地を心ならずも離れゆく人びとではないですか。追い立てたのは誰か。原発安全神話の作り手たち、原子力ムラに居座り、甘い汁をすすり続けた連中。国家、政府、政治家、学者、巨大資本。彼らをそのままに、まるで自由気ままな逃亡者のように自主避難などと呼んで区分けする。被災者軽視の魂胆が透けて見える。余りに人間復興から遠い。このような無神経で鈍感な統治者を許すことなどできるでしょうか。私は“賠償”という言葉づかいにさえ不快感に打たれ、怒りを抑えることができません。
◆「風化」にどう抗するか?
今回の災害を私は当初から巨大複合災害と呼んできました。地震と津波は天災ですが、原発事故は明らかに人災です。天災と人災が複合した巨大複合災害。もうひとつ加えるなら戦災があります。私は出身地の神戸で二度も大空襲に襲われました。67年前のことです。そして17年前には阪神・淡路大震災で実家が倒壊いたしました。
阪神・淡路大震災については先日も神戸において東北大震災の悲惨を共有するシンポで基調講演してきたばかりです。いま、あの17年前の惨事を目に収め、肌に感じた人は、もはや神戸市民の3分の1になってしまったといいます。その後に生まれた人、あるいは新たな神戸への転入者がはやくも3分の2を占めているのです。大震災のなか、当時苦闘なさった市役所の職員でさえ経験者はもはや半分しか残っていないそうです。
そうすると、阪神・淡路大震災からの再生を指して創造的復興モデルなどという言葉が平然と語られるようになりました。17年前、災害に打たれた被災の当事者たちは当時のあり方を「復興ファシズム」と呼びました。被災者が惨事に見舞われ、呆然自失している間に、何があったでしょうか。平時には、住民の抵抗で難航していた都市区画整理事業の一挙なる強行、幹線道路の貫通、復興の象徴と称して建てられた巨大高層ビルの商業施設群、神戸空港…。震災を「千載一遇のチャンス」と自治体トップが明言し、強行されたこうした復興事業、いまやすべてニッチもサッチも行かぬ経営危機の絶壁です。
けれども、災害の生き証人である当事者は消えていき、命失った犠牲者は声に出して叫ぶこともできず、こうして美化された物語がひとり歩きする。政治が巧みに利用する。
庄條会長は“風化”を怖れると言われた。今回の大震災、なかでも福島での悲惨を決して風化させてはなりません。しかし、悲しいことにあの阪神・淡路大震災もすでに歴史のなかに足早に駆け込み始めたようにみえます。人間の受けたかくも耐え難い悲痛、悲惨がなぜ風化していくのでしょうか。どうして物語になってしまうのでしょうか。
ある時、私はさる著名な方との対談で問いかけました。「どうして人間は同じ過ちを繰り返すのでしょう?戦争、災害、飢餓、恐慌…。果てもなく」と。すると、相手の先生がおっしゃった。「それは、人間が死ぬからです」と。悲惨な体験を強いられた当事者、その当人がいつかは死んでしまうからだ、と。いかに記憶し、記録に残そうとも、それだけでは時間に勝つことはできない。太平洋戦争の敗戦から67年、阪神・淡路大震災から17年、世界で戦争は繰り返され、巨大自然災害の災厄を最小にすることもできていません。単なる人間の記憶、壮大な活字の記録、それらもまたいかに非力であることでしょうか。
人間社会に何が必要なのか。いまこそ、その答えを問わねばならない。戦争も災害も…。私は、大きな犠牲の痛みと悼みのなかで、生き残った犠牲の当事者たちが「生きている間」に、大きな犠牲の痛みの続くなかでこそ、二度と再び悲惨を繰り返さないための制度や仕組みを「社会的装置」として築くことだ、といいつづけています。戦争を再び起こさないための社会的仕組み、たとえば日本国憲法九条はその役割を果たしてきた。戦後67年、私たち日本人は、戦争によって内外の人びとの命を奪ったことがない。
戦争も人災も、巨大自然災害の犠牲も、それを体験した人が生きている間に、再び同じ過ちを起こさないような社会のあり方を、制度、仕組みとして築き上げる。それ以外にない。それが生き残ったもの、生かされているものの責務である、と。悲惨を風化させないとは、つまり、そういうことではないでしょうか。
申し上げたいのは、いま、このマネー資本主義の荒れ狂うなか、そういう仕組みづくりの重い役割を担うのはだれなのか。それこそが、皆さん方、“協同組合”をおいてほかにない。被災者の救援、そして社会転換への重大な決意と行動。そこに協同組合の新たな役割を求めるほかに未来への道はない。このひと言を申し上げるために私はここに参りました。
◆原発とは何だったのか
再びの過ちを犯さないように社会的装置を「制度」としてつくる―、たとえば原発。他のあらゆる選択肢を排除し、原発エネルギーというただ一つを「国策」として推進してきたのはだれか。この狭い、海に囲まれた日本列島を、海沿いに54基もの原発で囲い込んだ。いま、動いているのはわずか2基。それでも停電はありますか?『原発への警鐘』(講談社文庫)を書いた時代、電力の需給バランスはすでに3分の1が余剰だった。電力は余って困っているのに、にもかかわらず、水力、火力など、それまでの発電設備を廃棄し、遮二無二、原発に置き換えていった。一時は「原発百基構想」が唱えられた時代さえありました。
いつ国民は合意(コンセンサス)を与えたでしょうか。
私は『原発への警鐘』という著書を27年も前にまとめました。今回の原発事故の後、そのごく一部を復刻版として出しました。この本にはたとえば福島第1原発がどのようにして作られたのか、安全神話はどのようにしてつくられてきたのか、すべて書いてあります。福島第1原発は1本のキーをもらい、そのキーを所定の鍵穴に差し込めば、それで稼働したというものです。だれが原子炉をつくったのか。だれがキーを日本の技術者たちに手渡したのか。すべて米国GEの技術者たちです。建設時、福島にはGE技術者のためのビレッジまで生まれた。東電の技術者たちは米国で2週間足らずの研修を受けて帰国し、福島でその一本のキーを受け取っただけでした。
自動車もキーを差し込んで右に回せばエンジンがかかる。エンジンの仕組みは分からなくてもたちまち車は走り出すでしょう。そもそも日本の原子力発電とは、そのようにして動き始めたものです。これを「フルターン・キー」と呼びます。設計から建設まですべて米国GE社任せ。東電の技術者はマニュアル通り、もらったキーを差し込んで原発を稼働させた。ただの一人として専門家も研究者もいなかった。
そのようにして受け取った原発であるにもかかわらず、原子力は未来のエネルギーだ、絶対安全だ、と説く原発安全神話が営々と作り上げられてきました。小学校から高校まで教師が授業で原発は安全だと教えていく。カラフルで豪華な副読本が何百冊となく無償で教育現場に配布された。原発への理解度が採点され、学業成績の評価対象とされた。
私の手許には、TV、新聞、雑誌はじめあらゆるメディアに対して、電事連が送りつけたブラフ(脅迫)の文書の多くが保存されています。いささかでも原発に疑義を呈する言論が現れると、電事連その他がたちどころに警告文を送りつける。また、著名人、タレント的文化人を総動員して原発は安全だといわせる。それらを含めてPA(パブリック・アクセプタンス)戦略と呼ばれました。原発に対して警鐘を発するものは徹底的に排除し、“科学の国のドン・キホーテ”と貶めてきた。それらの現実について、今回の事故後、私は『原発安全神話はいかにしてつくられたか』を書いています(『世界』11年5月号)。
3.11以前のTV、新聞、雑誌…、あらゆるメディアを振り返って下さい。原発安全神話づくりに加担した著名人、ほとんどあらゆる知識人が登場する。その彼らからいまだ内省の言葉ひとつ聞こえてきません。
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脱原発集会で連帯のあいさつを述べる大江健三郎氏
◆災害が照らし出す私たちの社会
災害というものは、その社会が一体どんな社会だったのか、一瞬にしてさらけ出します。本当に人間を大切にする社会なのか、そうでないのか。社会の真の断層が浮上する。
阪神・淡路大震災のときもそうでした。当初は「日本は一つ」「日本の力 信じよう」「頑張ろう ニッポン」と。何かの一つ覚えのような言葉が被災者の頭の上から降ってきました。が、いつまでたっても“公的支援”はやってこない。住まいを失った被災者はブルーテントのなかで震えている。“ボランティア元年”とはやされるほど、人びとの善意は集まりましたが、待てど暮らせど、“正統な政府機能”は発揮されなかった。つまり、国、政府による公的支援は皆無のまま。
挙げ句、時の村山富市首相は何と言ったか。「日本は資本主義の国。住宅は個人の資産である。個人の資産の再建を国の税金で補てんしたり支援したりすることはできない、個人、個人の自助努力でやって頂く」というものでした。
私たちの社会はそれ以前にも大災害にしばしば襲われながら、ただの一度として被災者を「公的に救う」という考え方ひとつ存在しない国でした。考え方はむろんのこと、「制度」そのものが存在したことはなかった。阪神・淡路大震災では、今は亡き小田実さんを中心に私たちは「市民・議員立法」の運動を始めた。市民が主体的に考えをまとめ、それを議員をして国会で法律にさせる。これに参加して力を発揮したのが地元のコープ神戸でした。被災者の方々の叫び、そして懸命の市民運動によって、ようやく国は初めて「被災者生活再建支援法」という法律の制定に動いたのです。史上初めて…。以後、各地災害の被災者たちは、このようにして生まれた支援法の“支援”を受けることができるようになった。
しかし、その中身といえば、当初、住宅本体の回復への支援は一切ありませんでした。住宅は個人の資産、という考え方です。個人資産の回復に税金は使えない、そういう国の姿勢は基本的にいまも変わっていない。果たして、人間の生きる住まいは資産なのか。これだけ多くの大災害に見舞われ、悲惨な犠牲者を余儀なくされてきたこの国で、国がなすべきを、なし、政府が正当な政府機能を発揮し、犠牲者を公的に救うという考え方ひとつなかったということです。いまなお阪神・淡路大震災は終わっていない。被害のもっとも激しかった長田、灘、東灘などの各区で、自殺率も孤独死も突出して高い。二重ローンの苦悶は去っていない。社会を変えるとは何か。
国連の人権規約は「一定の居住環境を備えた住居に住む権利は、人間としての基本的権利である」(第11条・社会権規約)とうたっています。私たちの国はこの国連人権規約を批准しておきながら、いっさい遵守しようとしません。阪神・淡路大震災からの17年、いったいでどれだけの社会的制度が整備されたでしょうか。日本の政府も社会も、これまでうち続いた過去の巨大災害の悲惨から、実のところ、何ひとつ学んだとはいえないのではないか。
◆被災者の言葉から考える
心に響いた3つの言葉を紹介したいと思います。
まず、三陸海岸に面した漁業の地の、ある首長さんの言葉です。
「たとえ家が流されても、田んぼが消えても、私たちには海がある、と思っていた。この海は必ず元の姿に戻り、再び私たちに生きる力を与えてくれる、と。いま、その海から放射性セシウム、です……」と。最後の命綱を断ち切られてしまった。私はこの言葉を普段の表情で聞いていることはできませんでした。福島の地では何代もかけて一生懸命やってこられた土づくり。その土に再び種子を播いてはならないと。このようなことが孫子の代まで許せるでしょうか。
次に、フクシマの地で原発廃炉への運動を進めておられるNPOの方の言葉です。
私は「さようなら原発」運動の呼びかけ人になり、昨年の9月19日には東京・明治公園で集会を開きました。5万人の予定でしたが集まったのは6万7000人です。明治公園の周辺にあるビルの屋上や階段まですべて人で埋まりました。当日は地下鉄が最寄りの駅に停車することができないほどでした。人でホームがあふれかえっていたからです。
演壇正面の広場は福島から幼い子どもを連れてバスで駆けつけた若い女性で埋め尽くされました。その福島から来られた女性は、声を振り絞ってこうスピーチされました。
「私たちは静かに怒りを燃やす東北の鬼です」。もう人間ではないということです。そして「毎日毎日、否応なく迫られる決断。逃げる、逃げない。食べる、食べない。子どもにマスクをさせる、させない。洗濯物を外に干す、干さない。畑を耕す、耕さない。さまざまな苦渋の選択がありました」。
そして彼女はこう絶叫しました。「国は国民を守らない。私たちは捨てられた。私たちを馬鹿にするな、私たちの命を奪うな」。そして「どうか私たちとつながってください、どうか福島のことを忘れないでください」と。
私は彼女の言葉を忘れることができません。
◆社会の仕組みを見抜く
最後に、福島の地に今も生き続ける方々には申し訳ないことですが、「スローデス」という言葉を紹介させて頂きたいと思います。これは20年、30年かけてゆっくりやってくる晩発性の死、という意味。米ピッツバーグ大のトーマス・F・マンクーゾ博士の言葉です。
マンクーゾ博士は『原発への警鐘』の取材者に、地球儀を回しながらいいました。
「この広い米国でさえ毎日毎日、原発の安全性が議論されています。日本列島はここ。この小さな島でもし原発事故が起きたらあなた方はいったいどこに逃げるのですか」と。博士は米国で低線量被曝問題をずっと研究されてきた。それが「マンクーゾ報告」です。
この報告の分析を当時、京都大学にいた信頼のできる6人の研究者の1人に依頼しました。当時、その先生の肩書きは助手でしたが、今も助教授です。原発に異を唱える研究者は万年助手のまま。日本の大学においては、常にこういう差別がなされてきた。異を唱えるものに対して投げつけられた罵りの言葉が「ドン・キホーテ」です。時代遅れということでしょう。この安全なエネルギーを提供してくれる原発に異を唱えるとは何たることか、と。
そういう数少ない研究者たちこそ、不屈の精神で人間のために闘い、人間のために優れた研究を続けてきた。この事実ひとつとっても日本の学問の府、そこでなされている研究なるものを信じることができますか。
私はいま協同組合人は、どっちの立場に立つ人間なのか。自らに問い、世の中の仕組みや、原子力の平和利用というデマゴギーを見抜くべき、とそう訴えたいと思います。
スローデス、20年後、30年後にやってくる晩発性の死。いったいだれが責任をとるのか。幼い子どもたちにこれからどのような運命が待っているのでしょうか。
この期に至ってもなお、日本経団連は何と言っているか。原発推進だと言う。原発がなければ、経済は停滞し、巨大企業は海外に逃げ、日本は空洞化だ、と。これこそ、相も変わらぬ時代遅れの、ノホホンとした、危機感なき非人間の認識ではないのか。経団連の代表者は、時代を追うごとに劣化し、愚者の歴史を紡いでいます。彼らに倣ってはならない。歴史が裁くときがくると思います。
◆深刻な現実が進行
愚行を重ねる日本経団連。たとえば少子化は困る、人口減少は危機だ、と叫んでいる。
その一方で、なおも原発推進だ、再稼働だ、と主張する。自らの矛盾に気づいていない。
国民を放射線被曝の恐怖にさらしておいて、その国で人口減少は困る、だと?いま、若い母親たちは「もう子どもは産みたくない」と呻いています。若い女性たちも「生まれてくる子供への不安」に怯えています。そのような国が、どうして人口増加に転じることなどできるでしょうか。
事実、明らかな変化が現れてきました。厚労省が先日、被災3県での出生数について速報値を発表しています。
岩手県では生まれてくる新生児の数が前年にくらべ5.6%減、宮城県は7.3%減、そして被曝を怖れる福島県では、実に11.7%のマイナスです。全国平均はマイナス1.9%ですよ。
この現実に対して私は怒りを言葉に、と被災地のシンポジウムで申し上げた。すると、その帰り道、ある方が私に寄ってこられてこう言いました。「言っても言わなくても、詮ないこと(効果のないこと)ですよ。この国では…」と。私には返す言葉もありませんでした。この気持ち、私たちは、どこまでも引きずっていかなければならないでしょう。
◆思想が問われる協同組合
こういう状況のなかで協同組合は何をなすべきか、です。協同組合を支えている方々、担っている方々は明快な思想性を持って対抗していかなければならないでしょう。
たとえば経団連は何をやってきましたか。これは何度も言ってきたことですが、自民党政権時代から「政策ランキング」をやってきた。政策の「経団連との合致度」でランクをつける。原発推進はAランクです。労働を解体し非正規雇用を増やす、これもAです。このランクに応じて政治献金の斡旋額を決める。これはまさに「もうひとつの選挙民集団」ではないですか。
私たち国民は1人1票です。協同組合もそうですね。しかし、1人1票の外側で何が進んできたのか。財界は政治献金でもって政治、政策を誘導してきた。その結果が今回です。
こうした勢力に対抗するには、協同組合同士が価値や思想を共有しなければなりません。被災地に対して今回、協同組合は大変な支援を展開しました。頭が下がるばかりです。協同組合でなければできません。ですが、協同組合が果たした大きな働き、支援の行為がなぜもっともっと日本中の人々に認知されないのでしょうか。生協はなぜTPP問題で農協と共同歩調がとれないのですか。あるいは原発に対して、あるいは今回の「社会保障と税の一体改革」に対して、基地の沖縄に対して…。「協同の協同」の力でもって、協同組合の確たる存在感を国民にひろく認知して頂くべきときではないですか。いまこそ…。
茨城県では、放射線のホットスポットになった地域の酪農家が大変な被害を受けました。土づくりからがんばってきた酪農家が悲劇に巻き込まれた。そのなかで安全を取り戻そうと、酪農家を支え、放射線量を計ったり、エールを送ったりしたのは生協の方々でした。生協と農協ががっちりと提携して、本来の意味で価値観を共有し、闘っています。協同組合にとって事業性は大切ですが、いま、この危機の時代、協同組合の思想性こそが問われているのだ、と思います。
災害は終わったのではなく、これから始まる。スローデスをもたらす放射線被曝が現実化するのは、これからです。「いのち・水・土・農」が原発と共存することはあり得ない。
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福島県郡山市での「原発いらない! 3.11福島県民大集会」には県内外から多数の参加者が
◆今こそ共生セクター
何度も申し上げていますが、共生セクターと競争セクターがあるなかで、世界も、日本も、まさに競争セクター一辺倒の世になってしまいました。「格差ある社会は活力ある社会だ」と。これをよしとする考え方が日本を覆ってしまったのではないでしょうか。
「競争セクター」とはまず分断ありき、です。都会に生きる人と農村を分断し、米は安いところから買えばいい、と対立を煽る。学者のなかにうようよといる。あっちの審議会、こっちの諮問会議と、霞が関の“天空回廊”を忙しげに走り回っている。そういう人物が世論を動かす。メディアもそうです。すべて競争セクターの論理です。生産者と消費者を対立させ、競争させ、安いところから買えばよい、と主張する。その隙間にマーケットを作り出し、利益追求のチャンスを置く。これが原理です。
こういう考え方一辺倒の世に私たちは安心して生きていくことなど可能でしょうか。協同、参加、連帯を原理とする「共生セクター」が足腰強く存在していなければなりません。
また、競争セクターは労働も解体しました。非正規雇用は今3人に1人以上です。協同組合もまたこの罠にはまっていないか。正規雇用は働く者の「権利」です。非正規、パート、アルバイトなどの働き方は、人々の生活に合わせての「選択」でなければならない。ですが、現実の日本で選択などできますか。協同組合が経団連と同じように労働をみなしているのであれば、いまこそ考え方を変えていただかなければならない。
今回の被災地の復興には、漁業という「生業」の復興が欠かせない。その漁業を復興させるには造船も、さらにその漁業に欠かせない船周りの電機、IT産業、また冷凍、冷蔵などの設備産業も復活してくれなければなりません。つまり、生業というのは、このようにもっとも多面的に社会全体を覆うものです。そして、そのような生業の価値をいちばん深く理解し、コミットできるのが協同組合です。
まさに協同組合とは「使命共同体」です。私は第3の共同体と言ってきましたが、使命を同じくする人々がつくる協同組合が生き続けなければなりません。そうでなければ東日本大震災からの復活、再生などはない、と思います。
悲しいことに人々は忘れる。今は目の前に悲惨の現実があり、心動かされ、共感し、添い続ける。が、そのうちたとえば、「いつまで(被曝の損害)賠償、賠償と求め続けるのか」と罵りを始めるかもしれない。
現に神戸では行き場がなく公園にブルーテントを張って長く生活をしていた人びとに対して、「いつまで公共の場を占拠し続けるのか」と市民が抗議したケースがあります。あるいは人間とはそういうものかもしれない。残念ながら当事者にならないと真の痛みは分からない。だからこそ、協同組合が必要なのです。
◆日本社会の転換を協同組合の力で
昨年、井上ひさしさんの一周忌の集まりで大江健三郎さんが、私たちはすでに取り返しのつかないものを失った、取り返しのつかないものをどう取り返すのか、とみんなに問われました。
井上さんの作品に『父と暮らせば』があります。この作品は広島の原爆で生き残った娘が、亡くなった父親の亡霊と会話をする物語で、娘は父を置いて自分だけ逃げて生きていることを父に詫び続けてきました。取り返しのつかないことをした、と。しかし、いまは亡きその父の魂が「そうではない、お前に逃げろといったのは私だ」と。そうして、取り返しのつかないものを取り返すためには、お前が生き続けることだ、最後の頼みだ、生き抜いてくれ、あの恋人と結婚して…と父の魂が娘を諭す。取り返しのつかないものを取り返すただ一つの方法は、生き抜くことだ、と。
私たちは放射線被曝と無縁に生きることはもうできません。このような悲劇をもたらした日本社会を転換させる。これがみなさん方の大きな使命、ミッションです。国際協同組合年が言葉だけで終わって震災、原発事故の風化を招いてはなりません。私たちはいまこの日本で何をなすべきか、それが問われています。協同組合の力で真の「あんしん社会」を築き上げていただきたい、そう心から願っています。
現場からの報告
農業の再生が復興の原動力
福島県における被災の状況と課題
庄條徳一JA福島五連会長
東日本大震災で福島の農業生産額である2450億がもろに被害を受けました。震災が起きたのは23年度の作付けが迫っていた3月中旬だったので、果たして農業できるのか、作付けできるのか、作っても売れるのか―という状況にありましたが、先祖伝来の地域を守り、農地を守ってきた農業という生業が作物を作らなければ生産者は働く喜びや生きがいを失ってしまうとして、JAでは「とにかくチャレンジすべきだ」との指示を出しました。
◆次々に出された出荷停止
しかし3月下旬になると、酪農家は放射性物質による原乳汚染で廃乳にせざるをえなくなり、その後はホウレンソウと、次々に生産されるものが出荷停止となり廃棄されました。「この怒りを誰にぶつけたらいいのか」、そのときの生産者の心情は計り知れないものでした。この大きな被害によって農業を生業とする仲間が県下で3人も自ら命を絶ち、原発事故による被害の奥深さを思い知らされました。また、原発の「安全・安心神話」を信じてきたわれわれは、このような大きな震災にただ慌てふためくだけで、正確な判断で対応することができなかった。そのため、「かたちあるものは必ず壊れる」として正しい放射能対応への教育の必要性を総理や各大臣に要請陳情しましたが、時間の経過は恐ろしいものです。災害を受けた福島県が声を大にして政府や国民に風化させないようメッセージを伝えなければいけないと思っています。
◆「除染」という言葉の一人歩き
福島県ではいまだ15万人が避難生活を強いられ、そのうちの6万人が県外に避難しています。それらの人々は「福島に帰りたい」というその一心が、日々の生活を支えているわけですが、いずれ、国や県、町村の首長の決断がその夢を打ち砕く日が来るのではないかと思っています。国は4次補正予算まで決定しましたが、実際に現場では「除染」という言葉が一人歩きしているのが現実です。剥ぎ取ったものを持っていく仮り置き場や中間貯蔵施設が見つからず、天地替えやゼオライトの施用など、外から改良する取り組みはできても表土の剥ぎ取り作業は試験的にしか行われていないのが現状です。
「この地域は20〜30年住むことができない」と正直に国が判断し、国がその土地を借りるか買うかして責任を取ることで住民と話し合いがつけばいいが、そう判断することは「ふるさとに帰りたい」という避難者のこの1年の思いを奪ってしまうことになるとして、地域の首長さんたちはこの苦渋の選択に悩んでいるという事実も、マスコミに報道されていない現実の姿としてわかっていただきたい。
23年産米については県内のある地域で暫定規制値の500ベクレルを超える米が検出されました。そうでなくても若い母親は放射能に敏感で「福島」と聞いただけ買わない、売り場の前を通るだけでもいやだという人もいる。応援して買ってくださる方々がいる一方で、出しても売れず、市場に持ってくるなと風評被害に悩まされてきました。規制値超えの米が検出されたとき、「農家が悪いのではないか」という報道記事を目にし、国や東電が推し進めてきた原子力行政の犠牲にもかかわらず、なぜ農家が責められなければならないのか、非常に残念でなりませんでした。長年の努力によって築き上げてきた「福島ブランド」は一瞬にして崩壊し、やり場のない怒りを禁じ得ませんでした。
◆生産者間での分断も発生
4月からはじまる新基準値に向け、農水省は24年度の米の作付方針として、500ベクレルを超えた地域は作付制限、100〜500ベクレルの地域では土壌の除染と特別な水管理をするといった条件付きで作付けを許可しましたが、「後継者がいないなか、万が一作らなければほ場が荒れてしまう。ぜひ作らせて下さい」との声がある一方、放射性物質が不検出だった地域からは「一日も早く福島ブランド再生のために検出値が高濃度の地域では作付けさせるべきではない」という両論の台頭もありました。
24年産米は全袋検査体制を構築するため、袋のまま検知できるコンベア式の機械の導入に向け準備を進めています。たとえ100ベクレル以下の米であっても「福島」という名前だけでなかなか安心安全であることを消費者には理解いただけない。万全な検査態勢の中で流通しているんだということを声を大にして申し上げたい。
◆協同の絆で戦っていく
原発被害は東電と国の原子力行政が招いた人災であるとして4月下旬、「JAグループ東京電力原発事故農畜産物損害賠償対策福島県協議会」を立ち上げました。2月現在、福島県のJAグループだけで請求額は537億円にのぼり、日々被害は拡大していている状況です。東電に支援機構ができても、今後、公的資金として税金を賠償金に投入せざるをえなくなれば、「いつまで賠償金をもらう気なのか」、「国民の税金だぞ」といわれるのではないかとの懸念もあります。
2月の理事会ではこれまで全国の関係機関から寄せられた募金5億3800万円ほどを復興基金として創設し、やれることから力を合わせてがんばっていこうと「JAグループ福島復興ビジョン」も策定しました。
福島の農業を再生することが福島の復興とこの痛めつけられた日本の状況から起きあがる大きな原動力になると確信しています。津波で家族が分断され、地域コミュニティが分断され、賠償や米の作付けでも一線を引かれることによって分断されていく姿をみてきた。何としても協同という絆を構築しながら福島県の復興のために組織あげてがんばっていきたい。
活動のご報告とこれからの方針
次なる大災害への備えをしよう
「脱原発」は小さな活動の積み重ねが大事
村上光雄 JA全中副会長・JA広島中央会会長
◆JAの活動に自信を持とう
いまだ、夜になると思い出して眠れなくなることが一つあります。
それは昨年9、宮城県石巻で74人の子どもが津波で亡くなった小学校を訪れた時のこと。大人は「なぜ、山に逃げなかったのか」ととても悔やまれてなりません。やはり子どもを救うのは大人の責任。われわれ大人が、しっかり子どもたちを守り、子どもたちの命が無抵抗に奪われてしまうような世の中にしてはいけません。
このような惨事の中、JAグループはさまざまな支援を行いました。特に全国のJA職員が被災地で田んぼのガレキ撤去作業などを手伝ったことで、被災者に「われわれも立ち上がろう」という元気を与えられたと思います。
共済事業では、建更を中心に1兆円近く支払いました。民間の損保会社25社が合計で1兆2000億円を出したのに比べれば大変な金額です。そもそも共済は誰がいつ、どういう目的で作ったか。お互いに助け合おうという理念の下で先輩たちが作りあげた制度であり、それがしっかり機能し、支払いができたことは大変すばらしいことです。
また、数字には表れませんが、組合員の被害状況をまとめたり、原発事故への損害賠償の書類を記載するなど、JAの地域のまとめ役としての機能も大きかったに違いありません。
しかし、このようなJAグループの活動は一般マスコミにはほとんど取り上げられていません。われわれ自身でも素晴らしい活動をしていることをよくわかっていないのではないでしょうか。JAグループには大変な力がある、という自信をもっと持つべきです。
◆災害対策積立金の創設をを
今後のわれわれの役目は、この1年間の取り組みをまとめ、マニュアル化するなどして、将来的に起こりうる大災害においてどう活かすかを考えることです。
例えば、災害に備えた支援体制を構築しておくことも必要です。日本は地震大国であり、絶えず災害に見舞われる可能性があります。それに対し、人員や施設などをどう備えるか。例えば剰余金の中からの積立金で、地元が被災したときには最優先で使い、ほかの地域で大災害が起きた時にはその中から何%かを支援金として出すような災害対策基金を創設してはどうでしょうか。
震災の被災地では、再建に向かってコツコツと積み上げていっているという兆しが見えましたが、原発事故の被害地はまったく先が見えませんでした。
飯舘村は、田んぼに黄色い稲穂がたわわに実っているのに草はぼうぼう。町中に人っこひとり姿が見えず、まるで時間が止まったようでした。
実は私の父は原爆の被害者で、核兵器についての反対運動をしていましたが、なぜもっと原発についての反対運動をしなかったのか、と今さらながらに悔やまれます。広島は原爆を最初に落とされた町だから、平和利用として最初に原発をつくろうなどという恐ろしい話もあったぐらいです。原爆も原発も、放射能であることに変わりはありません。原発と官僚の癒着、マスコミ報道によって作られてきた安全神話に対し、憤りを感じ、さらなる反対運動をしていかなければいけません。
◆自然環境の汚染を防ぐ
われわれ農業者は自然環境を相手に生業をしており、原発事故のように環境が汚染されれば、どうしようもありません。そういう意味でも、自然環境を守ることは食と農を守ることにつながります。
そのために必要なのが脱原発です。秋に予定されている第26回JA全国大会の議案にも、これを盛り込む予定です。わが国にはさまざまな地域資源があり、小水力発電やメタンガスの利用など、これらを活用したエネルギー自給の取り組みを進めていきたいと思います。大事なのは、小さくてもいいので地域でできることを取り組んでいくこと。そうした活動の積み重ねが、全国的に再生可能エネルギーを利用しようという運動につながります。
◆農協と企業は根本的に違う
TPPについて感じるのは、企業と協同組合とには決定的な違いがあるということを、もっとJA職員は知るべきだということです。
農協は人的つながりであり、企業は資本によってつながっています。企業は金儲けのためには海外まで出ていく、いわゆる根無し草のようなものですが、われわれ農協はそうはいきません。組合員がいる以上、儲けようが儲けまいが地域と一体になって一生懸命やるしかないのです。我々は運命共同体なのです。その覚悟を持って活動しなければいけません。
TPPに入らなければ企業は海外に進出し日本の産業は空洞化すると言われていますが、実際にはTPPに入ればより海外に出やすくなり、関税の問題ではなく為替や人件費などの理由から安価なところを求めて転々とするでしょう。それが資本の論理であり、農協とは根本的に異なるのです。
今年は2012国際協同組合年でもあり、協同組合セクターとして何をすべきかを考えるべきでしょう。とりわけ日本生協連には、早くTPP反対運動へ加わってもらいたいと願っています。
やはり今、全国的に農協の広域合併が進んでいる中、地域や組合員との絆が薄くなっているということを率直に認めるべきです。その上で、それぞれの地域にサークルでも、趣味の集まりでも、なんでもいいので「小さな協同」をたくさん作り、人が集まり、話し合いをしていけば、例え大きな農協でも、組合員とJAの意思疎通ができる基盤ができます。
2012年が終わる時、国際協同組合年と呼ぶにふさわしい1年だったな、と自信を持てるような活動をしたいと思います。