変わる米国の対日意識
アメリカは本当に日本を守るのか?
◆日本人の「思い込み」
田代 国民の間にはTPPについて、どうもよく分からないというモヤモヤ感があります。そのモヤモヤ感は「いろいろ言っても日本の安全は米国に守ってもらっている。だからTPPもやむを得ないのではないか」といった考えがあるからだと思います。今日はまずこうした見方についてのお考えを聞かせてください。
孫崎 日本人には経済と安全保障の両面で、ある思い込みがあります。1つは「日本は米国に依存することによって経済発展してきた」。もう1つは「日本の安全保障は米国によって守られている」です。
しかし、調べていくといずれも正しくないことが分かります。その点への理解がTPPをどう考えるかに関係してくる。
日本は1990年ぐらいから安全保障でアメリカと非常に一体感を持ちました。湾岸戦争後です。お金だけではなく人も出せと言われ、日本の外交、安全保障政策は米国との一体化、別の言葉でいえば追随ですが、これが非常に深まった。ただ、多くの人はこれで日本の経済が繁栄したと思っているわけですね。しかし、これは単なる思い込みなんです。
具体的なデータで見ていきましょう。
1990年には世界の銀行の上位10行に日本の銀行は7行入っていました。しかし、2009年には上位10行中、9位に三菱UFJフィナンシャルグループが入っているだけです(表)。ということは、米国と一体化を図ったはずの日本経済は、実はこの間に衰退していったということですね。
GDPの伸び率を見ても、たとえば1990年代始めにくらべると今の米国は2倍強になりましたが、日本は90年代半ばから横ばいで全然伸びていません(図1)。さらに貿易を見ると対米輸出は1995年から2010年までまったく横ばいです(図2)。
なぜこうなったか。そのいちばん大きな問題は1985年のプラザ合意で円高に誘導され日本の製品が高くなって売れなくなったことです。その後もずっと円高基調が続けられているわけですね。
(まごさき・うける)
1943年生まれ。66年東大法学部中退、外務省入省。駐ウズベキスタン大使、国際情報局長、駐イラン大使を経て2009まで防衛大教授。著書に『日米同盟の正体』、『不愉快な現実』(講談社現代新書)など。7月24日に『戦後史の正体』(創元社)、7月25日に『転ばぬ先のツイ』(TPP等についてツイッターしたものに解説・漫画をつけたもの)を多くの読者に呼んでもらうため刊行予定。
(たしろ・よういち)
1943年生まれ。66年東京教育大卒。農林省入省。横浜国立大教授を経て2008年から大妻女子大教授。著書に『反TPPの農業再建論』、『地域農業の担い手群像』など。今年6月に『TPP問題の新局面―とめなければならないこれだけの理由』(大月書店)刊。
◆輸出は東アジアに依存
孫崎 こうしたことから分かるのは、たしかに1950年の朝鮮戦争から1980年ぐらいまでは米国経済の繁栄にあわせて日本からの米国市場への進出が連携し、日本経済は発展しましたが、今はそうではなくなっているということです。現実は1995年から対米輸出が伸びなかったかわりに、対中貿易が伸びたということです。1995年ごろ、対中貿易は対米の6分の1程度でしたが、今は対米貿易を超えました(図2)。
事実、2010年の日本の輸出のうち米国向けは15.3%、中国向けは19.4%です。さらに韓国8.1%、台湾6.8%、香港5.5%となっていて東アジア全体で38.8%です。つまり、日本経済の輸出先は米国ではなく、東アジアになっているということです。
だから、日本は貿易を拡大して経済を発展させるんだというのであれば、中国、韓国、台湾とどうするかが問題なのであって、経団連会長らがTPPに参加しないと日本は孤児になる、世界の趨勢から遅れるなどと言いますが、それはまったく違うということです。
日本は過去20年ぐらい米国市場ではまったく伸びていなかった。日本からの工業製品輸出にかかる関税は平均3%程度ですが、これがゼロになってもほとんど影響はない。つまり、TPPに参加しなければ日本経済は繁栄しない、というこの論はまったく嘘であるということ、これをまず日本国民が知っておくべきことだと思います。
◆中国を重視する米国
孫崎 次に大きな問題は安全保障です。中国が非常に大きくなってきた。それに対してどう対応できるか――。
多くの人は米国は常に日本を助けてくれると何の疑問も持っていないですね。ところが今何が起きているかといえば、米国の輸出も対日よりも対中のほうが多くなったということです。
さらに米国では今、国民に東アジアでどこがいちばん重要な国かを聞くと中国だという意識に変わってきています。
外務省から公表されている「米国における対日世論調査結果」をみると、米国の国民は1975年からずっと日本がいちばん重要だと考えてきたことが分かります。それが09年から中国のほうが重要だという意識に変わった。これは米国の指導者層でも同じで、中国は東アジアでもっとも重要な国になってきていると考えています(図3、図4)。
この状況が意味するのは、日本と中国の間で何かあったときに米国は自動的に日本側につく、という思い込みはもうやめるべき時期に入ってきているということです。とくにオバマ政権になってから、世界では米中が指導力を持っている、米中で金融や安全保障の問題について手を握っていこう、という考え方が非常に強くなった。
きわめて断片的なことだけを見ても、先日、野田首相が訪米してもオバマ大統領による夕食会は開かれず、クリントン国務長官が付き合いました。
その一方で、中国の習近平の訪米のときはどうだったか。まだ国家主席に就任してはいないのに、オバマはきちんと晩餐会を開き、地方旅行には副大統領がついていった。もう米国内では日本より中国のほうが重要だと切り替えられているのは間違いない。
それでも中国の脅威に対して米国に守ってもらえるはずと考える日本人がまだ多い。それは「核の傘」があると思っているからですね。しかし、核の傘は基本的にはないんです。
◆「核の傘」も思い込み
孫崎 核の傘とは、中国と日本の間で安全保障をめぐりかなり緊迫感が出て、中国が日本を核の力で脅しにかかる事態になったときに、米国が中国に対して「日本を攻撃するなら中国を攻撃するぞ」と言うことによって、中国が日本を攻撃するのをやめる、ということです。これが核の傘です。
しかし、そのとき中国が「分かった。それならわれわれはロスかシアトルに核を打ち返します」と、こう言ったときにはもう核の傘は働かない。というのは米国の大統領にしろその他の政治家にしろ、日本のために米国の都市が攻撃されていい、という選択はできないからです。つまり、核の傘はないということです。
これは私が説明しているだけではなく、キッシンジャーや米国高官も言っていることです。たとえば、すでに1980年代、ターナー元CIA長官が読売新聞のインタビューで日本に対する核の傘はない、という趣旨の発言をしています。だから、しっかり調べれば核の傘は基本的にないということが分かるわけです。
◆尖閣諸島と日米安保
孫崎 次は尖閣諸島の問題を考えてみましょう。
この問題でも米国が日本を守ってくれると思っています。その理由のひとつは、民主党の前原政調会長が2010年に外相として訪米したとき「クリントン国務長官は、尖閣諸島は安保条約の対象である、と言った」と説明していることなどです。確かに尖閣問題は安保条約の対象ではあります。日米安保条約では、日本の管轄地が攻撃されたときには米国は自国の憲法に従って行動をとる、という趣旨が第5条に書いてあるからです。
だから、今、尖閣諸島は日本の管轄地ですからそれは十分に可能性があります。しかし、問題は05年に両国が署名した『日米同盟―未来のための変革と再編』という文書です。
そこでは「島嶼部への侵攻への対応は日本の役割」となっているんです。つまり、最初に中国が攻撃してきたときには、実は米国は来ないということになっている。これは岡田元外相も前原前外相もそのとおりだと記者懇談で発言しており、だれもこれに疑念がない。
問題はここからです。
では、尖閣諸島が中国に奪われてしまったらどうなるか、です。中国が尖閣諸島に出てくる、日本の自衛隊が戦う―。日本の自衛隊が勝てばそれでいい。しかし、負けたらどうなるのか。管轄は中国に移るわけですね。
管轄が中国に移れば、その段階で米国は日米安保条約に従って、尖閣には出てこないということになります。つまり、どっちにしても米国は出てこないわけです。
これも私だけが言っているのではありません。
アーミテージ元国務副長官は、最近の著書『日米同盟VS中国・北朝鮮』のなかで、「菅総理は日米安保条約を何も知らない、なぜなら、もし自衛隊が戦わず中国が尖閣諸島をとってしまえばこれは中国の管轄地になるので、われわれは戦えないのだ」と言っています。
多くの人は中国に対して米国に戦ってもらえると思っていますが、そうではないということです。
◆中国の軍事力の現実
孫崎 もっと軍事的な面から考えてみます。これまで中国の軍事的な正面は台湾だったわけですね。台湾が独立しないように、ものすごい軍事力を配備した。たとえば戦闘機であれば300機いますが、これは尖閣諸島に飛んできます。台湾の隣ですから。
この300機の戦闘機と自衛隊は戦闘できないし米軍も出撃できない。なぜなら、かりに米軍がこの300機を相手にしたら、それは日本から飛び立っているわけですから日本国内の米軍基地を中国のミサイルが攻撃することになるからです。
今や中国には中距離弾道弾ミサイルが80以上あります。それからクルーズミサイルは300。この軍事力で米軍基地がつぶされる可能性があるということは米国自身が言っていることなんです。
つまり、もう米国は通常戦力でも尖閣諸島をめぐって日本と一緒に戦える状況ではないんです。
◆尖閣は「棚上げ」論が正解
孫崎 では、尖閣諸島問題で中国に負ければいいのかという話になるけれども、実は周恩来首相と田中角栄が会談したときに、尖閣諸島は「棚上げ」にすると合意したんです。棚上げにするとは日本の管轄は容認し、これを軍事力で変更しない、ということでした。
中国は尖閣諸島は自分のものだとずっと主張しているわけですが、お互いに主義主張をぶつけるなかで、管轄は日本がしてもいい、それを軍事的にどうこうするなんてことはない、という合意に至ったんですね。この約束はその後、1978年に鄧小平も認めた。これは日本にとってもっとも望ましいかたちでの解決方法なんです。
したがって、この問題は別に日本側から変えなくてはいけないことではない。
尖閣諸島の問題を考えるとき、日本国民が間違っているのは、これは日本固有の領土であって領土問題は存在しないと思っていることです。しかし、日本の領土になったのは1895年です。そのときの日本のロジックはこの島は誰も領有権を持っていないから、というものです。しかし、明や清の時代は中国はそこに影響力を持っていて、たとえば、倭寇が出てきたときには倭寇討伐総督が任命され、その総督の守備範囲には尖閣諸島も入っていた。
そういうことからすると、一方的に日本が正しいと言える状況じゃない。米国も領有の問題では中立と言っているのですから、棚上げというのがいちばんいい解決方法なんです。
◆平和を望む中国の本音
孫崎 それでも多くの人は中国は危険な国と思っていますね。
しかし、たとえば米国の国防総省が毎年議会に提出している報告書では、中国は中国共産党がいかに統治を維持できるかを中心に考えているが、もう共産主義では誰もついてこない、とみていると分析しています。ではなぜ中国共産党の支配を中国の一般国民が認めているかといえば、唯一、国民の経済が良くなるから。
つまり、国民の生活が良くなるためには経済が良くならなければならない、経済が良くなるためには中国の製品が外国に売れなければいけない。それには市場が必要になるし、原材料も手に入れる必要がある。そう考えると、中国は基本的には平和的な国際環境を望んでいるということが言える、というのが米国国防総省による議会に対する説明です。
ですから、中国は国際協定を無視して国際社会に出てくることはなく、むしろ日本も国際的な約束を大事にすることで安全保障が保てるのであって、中国に対して軍事的に対抗することでこの国が維持できるという状況ではない。
このように考えてくると、日本経済は米国に輸出することで発展できるということもある種の伝説ですし、安全保障でも米国が日本を守っているということも伝説なわけです。
ここを理解すればTPP問題は、もう少しじっくりと考えることができると思いますね。
◆独自路線はつぶされる
田代 日本人の思い込みが政治やマスコミまで支配しているとのご指摘ですが、そもそも民主党政権がTPPも含め日米同盟の強化に走ってしまっている原因は何ですか。
孫崎 戦後の日米関係を振り返ると、日本で独自路線を主張した指導者はみんなつぶされていることが分かります。
日本の終戦を多くの日本人は8月15日だと思っていますが、本当の終戦は9月2日です。日本の場合、終戦とは降伏文書に署名することでしたから、それが9月2日です。
その署名は基本的には日本は米国の言うとおりにしますということですが、署名後、米国から「明日、この文書を公布してくれ」といわれました。その文書には、公用語はすべて英語、お金はドル、米国人の裁判権は米国が持つ、とあった。
そのときの外務大臣が重光葵ですが、マッカーサーと交渉しこれを諦めさせた。交渉に臨む心境を「折衝のもし成らざれば、死するとも我帰らじと誓いて出でぬ」と書いています。ところが、2週間後に重光外相はクビになった。
次に出てきたのは吉田茂です。しかし、吉田は、日本はまな板の上の鯉と同じようなものだ、という対米追随路線でした。その後、自己主張をした人、たとえば米軍基地の撤廃、有事駐留を主張した芦田均、これもだめになりましたね。それからずっと時代を経ても、たとえば田中角栄は中国問題、ロッキード事件で政治生命が絶たれた。
共通するのは、米軍基地に対する姿勢と中国に対して米国よりも先に進む、ということです。
こう考えると鳩山さんと小沢さんは、ともに米軍基地の縮小と中国との関係発展を言いましたね。これはこれまでの歴史からすると必ずつぶされるということになります。
しかもつぶされ方にはいろいろありますが、必ず重要な役割を果たすのがマスコミ。マスコミが徹底的にその人物像を歪める。典型的なのは田中角栄です。
そして検察です。この点は田中角栄と小沢一郎は非常に似ています。というのも裁くあたって今まで使わなかった手法を検察が導入したということです。田中角栄のときには、ロッキード事件の捜査での米国側証人であるコーチャンらに対する嘱託審問です。コーチャンには、証言にあたっては日本の国内法での罪には問わない、とした。こうした制度は米国にはあっても日本にはない。それを使ったわけです。
小沢さんの場合は、検察審査会による起訴。これもまったく今まで使わなかった手法ですね。
マスコミという点でいえば、田中角栄は『文藝春秋』が女性問題とお金で報道した。今回、小沢さんに対しても『週刊文春』が離婚問題を非常に重要な局面で出してきた。こういうかたちでマスコミを使ってイメージ操作をし、それを検察が利用するということです。非常に似通っている。
その背景にあるのは、米国からの独立志向がある日本人指導者はいても、それを日本人自身が止めるという構図です。
◆TPPは健康保険を破壊
田代 つまり、TPP交渉への参加を唐突に打ち出した菅前首相は、対米関係での鳩山元首相の失敗を見て、経済的メリットがあるかどうかなど何も考えずともかく日米同盟を離れることはできないという理由から飛びついた、と考えられるということでしょうか。
孫崎 それでいいと思いますね。鳩山さんは6月26日に消費税増税法案に反対票を投じたことについての談話を出しました。そこでは自分が首相のときいかに米国の意向を忖度した官僚、大手メディアの圧力にさらされたか、そして次の政権は180度転換し、まったく米国の言うとおりのところに駆け込んでいった、と言っています。
田代 日本は米国に逆らえないと思い込むことが問題ですが、野田政権はだからこそTPP参加に走りかねないという懸念があるわけです。そんななかで、われわれ国民としてまさに日米安保の呪縛を解消し、どう舵を切り替えていくことが大事なのでしょうか。
孫崎 重要なことは、これまでの多くの日米問題はあまり個人とは関係がなかったということです。基地が普天間から辺野古へ行くか、国外に行くかは、個人には関係ないと思ってきたし、自動車交渉もそうです。自衛隊がアフガンに行くか、イラクに行くかも個人には直接関係がなかった。
だから、日米交渉で米国の要求どおりに事が進んでいても問題はなかったと思います。
しかし、TPPは国民を直撃するんです。
そのいちばんは、農業の問題もあると思いますが健康保険だと思っています。これは米国が参入してきたら必ず崩れます。
日本も米国も健康保険制度を廃止することはないと言います。確かに廃止するという決定はしないでしょう。しかし、何が起きるか。今、米国の産業構造のなかでは保険と医療が非常に大きなウエートを占めています。
そこで米国は高額の医療技術や薬を日本に使わせたいので、これを健康保険で面倒をみろと要求してきます。しかし、高額な医療や薬を対象にしてしまえば、健康保険はパンクするに決まっています。では、この制度がつぶれれば米国にとってマイナスかといえば、そうではなくプラスなんです。
なぜかといえば、民間の医療保険が参入できるからで、健康保険制度がパンクすれば日本国民は米国の医療保険に入るしかなくなります。
このような参入をどう実現するかといえば、たとえば、いわゆるISD条項を使ってです。一般企業が損害賠償を国家に訴えるというものですね。このISD条項による訴訟の判事は誰なのか分からないし、どんな議論がなされたかも分からない。ISD条項の裁判はまったく透明性がありません。
しかし、米国主導であることは明らかで基本的にはほとんど米国企業が勝っている。たとえば、カナダで米国製ガソリンに健康への懸念があるとして輸入を規制したら、米国はわれわれにとって当然予測される利益が担保されなかったと訴えた。つまり、環境や健康問題で米国と違う規制を日本が持っていたら、それは貿易の邪魔であって日本政府が補償しろというかたちになる。国民の多くは日米関係の摩擦はわれわれの問題ではないからどうでもいいと思ってきたかもしれないが、今回はそうではないということです。
◆ISD条項をどう考えるか?
田代 ただ、ISD条項は日本が結んだいくつものFTAにも入っています。それと今回のTPP協定に盛り込まれようとしているISD条項はかなり性格が違うのでしょうか。
孫崎 私はTPP問題で外務省の赤尾信敏元大使と議論になったことがあります。赤尾さんは外務省でも多国間協定の専門家で、今のご質問と同じように、君はISD条項を問題にしているが、たとえば日本とASEANの投資協定のなかには入っているではないか、と私に言いました。
そこで私が主張したのは、ISD条項の問題はこれをどう運用するかが問題なのだということです。日本企業はたとえばタイに進出して、タイの法律がおかしい、われわれの儲けるチャンスが失われている、と主張することはないと思います。他の国の法律自体がおかしいと言うことはありません。
ところが、米国は1980年代からずっと日本の法律がおかしい、おかしいと主張してきているわけです。だから、相手の国の法律を基本的に受け入れるという姿勢を持つ国同士が持つISD条項の意味合いと、そうではなくて常に自分が正しい、もしもおかしなことがあればそれは相手の国がおかしいんだという国が持つISD条項の意味は違うということです。
米国もかつては、悪いのは相手国ではない。もし悪いとすれば競争力の弱い米国だと思っていました。ところが、80年代なかばから米国の産業が輸入品に負けるのは相手国が悪いからだという哲学に変わった。負けるのは市場が閉鎖的であるなど相手国が不公平なことを行っているからに違いない、という思想です。
つまり、この前提でISD条項を使おうとしているわけです。日本のように相手の国の法律を認め、そこにISD条項があるという状況とはまったく違うということです。
◆異常な秘密交渉の真相
田代 このISD条項に関するやりとりが先日リークされましたが、TPPは秘密交渉で行われています。外交関係にはもちろん秘密が伴いますが、それにしてもTPPは異常な秘密主義ではないでしょうか。
孫崎 基本的にはこんなに条項が隠されるということはないですね。というのは条約ですから。これから合意をしようという条文が隠してあるというのは異例ですよ。条文とはオープンにして国会で審議し批准するものですから、条文自体が交渉の間は示せないなんて、こんな交渉は本当に異例です。逆にいえば、ここまで秘密主義なのは、表に出せばマイナスが分かってしまうからでしょう(笑い)。
田代 確かに米国は中国と経済的な関係は強いけれども、しかし、他方で米国は中国封じ込め作戦を考えてもいるのではないかと思います。それがTPPではないか、ということについてはいかがですか。
孫崎 先ほども申し上げたように米国の対中政策でいちばん重要なことは、手を握ること、です。これはもう間違いない。
しかし、考え方としてヘッジ理論というものがあります。つまり、手を握るけれども対立もあるかもしれない、だから、そのために日本を使っておこう、というわけです。
したがって、日本に対しては中国と手を握るほうには入れさせない。日本は対立するほうに取っておき、自分は中国と手を握るんだ、ということです。
実際、米国は中国は安全保障と投資をテーマに大臣レベルで戦略対話を頻繁にやっているわけです。日本と米国との間で大臣レベルの会話はもうなくなっていますね。
田代 つまり、米国は日本に対しては、やはり自分は中国封じ込め作戦をとっている、だからそれに協力しろ、というポーズをとるということですね。
孫崎 そうですね。ジャパンハンドラー的な人たち、アーミテージ元国務副長官などが中国を封じ込めるために日本の協力を求める趣旨の発言をしているとみたほうがいいと思います。
しかし、オバマの周辺はそうは言っていません。米中で手を握ると言っていることが重要だと思います。
田代 いろいろな問題点が明らかになってくるなかで、私たちはどう行動すればいいのでしょう。
孫崎 日本の民主主義はまだまだ成熟していないところがあるかもしれません。しかし、国民が本当にまとまって自分の意見を表明し始めればすべてを政府の判断で動かせないということになると思います。
典型的なのが浜岡原発です。依然として中部電力や経産省は浜岡を再稼働させようとしている。しかし、なぜ再稼働できないかといえば、住民です。周辺の人たちが反対で固まっているからですね。ですから、これからますます一般国民は発言をしっかりする必要がある。TPPも同じでまずは事実を知ることが大事です。
私は原発事故で国民は変わったと思います。今までは政府の言うこと、首相が言うこと、大手メディアの言うこと、東大の先生が言うこと、これは正しいと思っていた。ところがあの事故で、そうではないだろう、やはり事実はひょっとすると別のところにあるかもしれないということをものすごく強く国民は思ったわけですよね。
これを契機として議論を始めるべきです。それもできるだけ特定のブロックに属さない人たちが集まる。TPPは国民全体の問題なわけですから、広範な人々が参加できるような場をつくる。力があるのはJAですからそういう場をつくり出しTPPについて議論を深めていく。そういうかたちで盛り上げてほしいと思っています。
田代 同時に今日のお話からはどんなかたちでアジアとの貿易を伸ばしていくかが課題だということでした。そのなかで東アジア共同体の現実性についてはどう考えていますか。
孫崎 私は一気につくる必要はないと思っています。東アジア共同体の推進論者はすぐにEUのようにしたいと考えます。それは大変に難しい。
考えてみればEUが最初にやったのは石炭・鉄鋼共同体ですね。石炭と鉄鋼だけ。そこから広がっていったわけです。
だから、いろいろな分野でプラスになるものを個別に立ち上げていけばいいと思います。何も大上段に東アジア共同体を、という必要はない。通貨で、医療で、あるいは水資源で協力をする、それをずっと広げていく。お互いの利益になることから進めていけばいいと思います。
◆日本農業に期待する
田代 今日は日米関係を歴史的に振り返る話を中心にお聞かせいただきましたが、ご著書のなかでは戦後日本が農業・農村を切り捨てる必要はなかったのでないかということも指摘されています。最後にその点をお願いします。
孫崎 私は石川県の農村地域の出身です。外務省OBで私がTPPに反対していることを知っている人があるとき、孫崎さん、がんばってくれと言って近づいてきました。75歳ぐらいの人でしたが、聞けば、自分は世銀の融資一号案件に携わったという。世銀の融資一号案件とは愛知用水ですね。この用水のおかげで渥美半島で農業ができるようになったわけですが、それだけではないという。われわれは60歳ぐらいまで会社で働き、それが終わると農業をやる、それほど収益性はないかもしれないが老後に働くことによって60代、70代、80代と生きていっている世代が大勢いる、と。だからもし農業がつぶれてしまえば多くの人がつぶされてしまう、これは絶対に賛成してはいけない、というんです。
農業の大規模化が言われていますが、棚田などはそんなことはできるわけがありませんね。TPPによって農業の発展が促進されることはない。つまり、つぶれることはあってもTPPによって農業が栄えるということはないと思います。
一方では、こんな体験もあります。私は1999年ごろ国際情報局長だったんですが、ヨルダンの今の国王、当時のアブドゥッーラ王子が来日しました。それで私が食事のお相手をすることになったので、なぜ日本に来たかを尋ねると、実は松阪牛と青森りんごを手に入れに来たというんです。そのとき病床にあった先の国王の好物がそれで、もう亡くなるまでに時間がない、だから、空軍のパイロットでもある王子は自分で飛行機を飛ばしてきたわけです。
こんな話が実際あるものですから、私は日本の農業はブランドで勝負できるし、そうすべきだとも思います。いかに独自性を強く出すか、ですね。そんな農産物であれば価格の問題は超えられる。そういう意味で日本農業にはチャンスがあるし、中国が市場になればあの国の富裕層はべらぼうな数ですから、必ず食でもいちばんいいものを求めてくる。日本の安全性のある、すばらしい味のものは中国にどんどん行ける。そういう意味では農業は違った方向性を打ち出していけば生き残っていけると思います。
しかし、重要なことはそれはTPPとは何の関係もない、TPPに参加しなければ農業は変わらないなどという話ではけっしてない、ということを強調しておきたいと思います。
対談を終えて
TPP反対の声はいまいち国民に浸透していない。なぜか。菅政権は日米同盟強化でTPPに飛びついた。にもかかわらずTPPについては経済の話ばかり。これでは民主党路線とかみ合わない。そう考えている折りに孫崎先生の著書に出会い、「これだ」と思った。しかし外務省国際情報局長、防衛大学校教授というキャリアはいかにもとっつきにくい。恐る恐る緑に囲まれた都心のご自宅を訪問したが、あんに相違してなかなか気さくな先生。出版予定の『戦後史の正体 1945〜2012』を前にたっぷりお話をうかがうことができた。
戦後日本は日米同盟の呪縛にからめとられ、それを破ろうとする政治家はことごとく引きずり落ろされてきた。アメリカの差し金を検察やマスコミが手助けした。そういう呪縛から解き放たれて日本の将来を考えよう。国民の変化のなかにその可能性が開けつつある。このようなメッセージをTPP反対の運動に活かしていきたいものである。
(田代洋一)