問われるのは日本の政治
米国大統領、オバマ再選の意味
◆自由競争至上主義は見直されるか?
オバマは、過度の自由競争経済が米国を壊しただけではなく、世界に非常に悪影響を及ぼしたので、すべてを民間の自由競争に委ねるという方向は改め、政府の力によって貧富の差を解消しつつ経済を上昇させる必要がある、という切り替えを主張して4年前に大統領に就きました。
その時はアメリカ国民も、共和党政権が過剰なまでに弱肉強食をあおるばかりで貧富の差の拡大を放置し、一方では海外で戦争を拡大させたことにこれは行き過ぎではないかとの気持ちから、変化を求めてオバマを登場させたのだと思います。 しかし、傷は深すぎました。つまり、レーガン革命以来のこの傷は4年ぐらいでは回復できず経済も上向きにならず失業率も改善されなかった。同時に民主党のなかにもオバマが掲げた方向をまだ理解できていない人もかなりいて、オバマは指導力が発揮できず停滞感が生まれた。
したがって、今度の大統領選は、これ以上オバマに託すよりはもう一度共和党時代の自由競争主義に戻ったほうがいいのではないかとロムニーの支持が高まって一時はほぼ五分五分になりました。しかし、最後にオバマは逃げ切りました。
この結果は、オバマの現状維持政策を国民は支持したということになりますが、これにはいわば運命的なものがあったのではないかと私は感じました。
◆巨大ハリケーンと大統領選挙
そう思うのは投票直前、巨大なハリケーン・サンディに襲われたことです。これには政府が立ち向かうしかない。共和党の大統領候補で当選する可能性があるとはいえ野党のロムニーに政府に匹敵する力はない。だが政府には力がある。政府を指揮し巨大ハリケーンに立ち向かったことによって、オバマは最後に逃げ切ることができました。
つまり、巨大ハリケーンの襲来が大統領選挙の直前だったことがオバマを最後に勝たせたのではないかと思います。ロムニーは政府の力じゃない、民間の力こそ重要だと主張したのですが、天がこの共和党の自由競争至上主義の復活をとめたのではと私は感じました。 オバマの勝利は天が与えたものです。同時に「政府の役割」というものを支持したアメリカ国民の“悪くない選択”だったとみることができる。これは世界各国に対しても政府の役割を自覚した運営をやっていかなければならないことを示していると思います。
◆最悪の日米関係 なぜ、従属的なのか
しかし、今の日本政府はどうか?
日米関係は私は率直にいって最悪だと思っています。その意味は米国べったりでやっていたのでは日本に発展はないことがはっきりしてきたにもかかわらず、現在の日本政府はあまりにも従属的で米国の機嫌をとりながらやっていこうという姿勢だということです。
米国もこれに馴れてしまい日本は何でも言うことを聞くと思い込んでしまった。この意味で日米関係は最悪です。
今世紀に入ってブッシュ政権以降、日本は細かなことまで米国の言う通りにするようになり、ついには初めにイエスありきにまでなってしまった。
さらに政権交代後も菅政権ではもっとひどくなって米国が日本に対して何を望んでいるかを分析するだけではなく、それを想像しあらかじめ貢ぎ物を献上するかのような姿勢に堕している。
たとえばTPPについては、初めに受け入れありきの姿勢で表明した。こんなことは狂気の沙汰といわなければなりません。
◆日本人はどう生きていくのか
私は資本主義は工業においては使いようによっては有効であるけれども、自由競争を過度にすれば工業すらも崩壊させると思っています。自由競争主義は、過ぎれば害をもたらします。政府の力で制御しなければ工業すらもうまくいかないのです。
その一方で自然を相手にし自然と共存しながら成り立っている農業や水産業や林業、つまり広い意味での自然産業には人間の力を万能と見るような市場経済、競争主義を適用してはいけないのです。
ところが自由競争至上主義者は何を思い違いしたのか、市場競争主義を執拗に農業に入れようとしてきた。極端な自由競争を農業に入れれば農業がうまくいくという倒錯したとしか言えない議論すら出てきた。しかもその考えが万能だと思うような人間が政治家や一部の経済官庁、学者の主流になり、ジャーナリズムでも主流になって日本の農業を痛めつけてきました。
そのうえ今度は米国を主体とする自由競争至上主義的経済運営のなかに日本の農業を無条件に入れ込もうとしている。これがTPPです。これを野田民主党政権が推進するという。
私は大学入学で東京に出てくる18歳まで母親を手伝って農業をやっていました。本当に原始的な農業でしたが人間の原点だという思いがあります。
つねに自然に対して畏敬の念を持ち、自然の存在を認め自然が生み出す恩恵だけではなく厳しさとも共生しながら自然からの富を頂戴していくというのは人類の、ある種の宗教性をも持った営みです。農業を中心とした自然産業の恩恵によって日本人はこの日本列島で生き続けてきました。
今後もこの日本列島で生きていくのです。農業などの自然産業は日本の基幹産業ですが、単なる産業ではなく日本そのものです。そしてこの農業を守るのが政府の役割です。これを阻害するようなことは政府が排除しなければいけないのです。
ところが現在の政府は初めに受け入れありきで米国政府と話を進めてきた。今では日本国民を騙すように米国に参加時期を申し出ようとしている。許しがたいと思います。
◆ニヒリズムさえ生み出すグローバリズムの危険
今度の米国大統領選の結果は、政府の役割を自覚し、レーガン革命以来の自由競争至上主義の経済運営を止める方向に米国が進むという点で私は評価しています。日本もこの米国の動きを参考にし、極端な自由競争主義を止めなくてはならないと思います。これによって異常な日米関係を正常化したい。
そのためには今こそ新自由主義、グローバリズムは百害あって一利なしだと日本政府はきちんと自覚すべきです。新自由主義グローバリズムが生み出したのはエゴイズム全盛時代です。ジョージ・ソロスの言葉を借りれば、“自分さえよければ思想”です。これがまん延し、あたかも正義であるかのごとく考える指導者まで出てきている。
“自分さえよければ思想”は、つまり、他人の幸せなんかどうでもいいということですから、ある意味でニヒリズムです。希望に対する否定、過去から積み上げてきた人類のプラスの要素を否定する破壊主義ともいえます。こういう考え方が新自由主義、グローバリズムの裏側で育ってきていることをきちんと見極めなければなりません。
◆農業がなぜ大切なのかを改めて考える
経済人のなかに、TPPに参加しなければ日本経済が潰れてしまうという者がいます。
しかし、こんなことを言う大企業の経営者はもはや日本国民ではない、こんなことを言う大企業経営者は日本から出ていけばいいのです。自分たちが世話になっている日本の労働者を、日本の社会を見捨てて出ていくというならやってみなさい、と言いたいのです。真の愛国心を失った経営者は日本にいらない。
円高になれば海外に出て行くという安易なことをやっていますが、日本の経済財政の力で円高を是正することは十分にできるはずです。しかし、日本の金融財政当局は米国の手のひらの上で踊っていて手を打たない。日本の大企業経営者は円高を自然現象のごとくとらえて自分たちが日本から逃げていく口実にし、グローバリズムの名のもとに国家を超えるんだ、と自己満足している。
どうして日本の大企業経営者は日本国民の幸せに尽くすことを第一義的に守らなくなったのか。どんなことがあっても日本という大地から離れないという人間がリーダーたる資格を持つのです。だから大企業のコスモポリタン化した経営者には日本の国民を守る力はもはやないと思います。
自分さえよければ思想と反対の極にあるのが農業です。日本国民のなかに農業を大事にする思想を育てなければいけないと思います。これが日本を守る道だと私は考えています。日本の大地を捨て、自分の企業のもうけだけのために平然と離れていくような人たちはもはや指導者とはいえません。このことが理解できないような政府は変えなければならないのです。
◆調和、地方重視?先人の知恵を政治の基礎に
われわれが前進するときには基礎となるべき考えや知恵があることをきちっと認めたうえでさらに発展させるということが必要だと私は思っています。では、われわれの政治の基礎理論とは何かといえば、先人たちがつくってきた考え方です。
昨年のインタビューでも申し上げましたが、それを私は5つの言葉として整理しています。
その第1は聖徳太子の17条憲法「和をもって貴しとなす」です。日本は調和をめざすということであり、国際社会ではそれは平和の実現です。
ところが、今の政府は危ない状況に踏み込んだ。尖閣問題で戦争を辞さずなどという政治家もいる。とんでもないことです。ある地域について双方が領有権を主張するようなことは人類の歴史では無数にあったことです。過去にはそれを戦争で解決しようという権力者の愚かさもありましたが、あいまいな状況のなかで平和を守るという知恵を、日本人はもっているはずです。今の政権に知恵があればこんなみじめな事態にはならなかったはずです。
第2は最澄が残した言葉「一隅を照らすは国の宝」です。つまり、恵まれざる環境でもその場でがんばっている人たちを評価する、ということです。
第3は五箇条の誓文の「広く会議を興し万機公論に決すべし」です。みんなで議論して社会の方向を決めようという生き方です。ところがTPPなど野田内閣は初めに受け入れありきです。これではダメです。
それから第4は「天は人の上に人をつくらず、人の下に人を作らず」の平等主義。第5は徳富蘆花の「国家の実力は地方に存する」です。東京一極主義を反省し地方分権を進めるということです。
これらを政治のあり方の基本として今こそ固めるべき時期に来ている、と私は思います。