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あゆちを守るために 信長の決断2015年10月6日

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【童門 冬二 / 歴史作家】

 時代が動くとき、必ず大きな決断が求められる。その大事なとき、決断できる人のいない国や組織、そしてそこに属する人々は不幸である。いま日本の置かれている状況は、戦後歴史の転換期にあると言ってよい。歴史上の人物がそのときどのような決断したか。歴史作家の童門冬二氏に登場を願った。

◆海からの幸福の風

 信長にこんなエピソードが残っている。あるとき合戦に出陣する信長が、領内の畑道を通った。小春日和の日で、畑の上で一人の農民がぐうぐういびきをかきながら眠っていた。家来が怒った。
「領主が合戦に出かけるというのに、こいつは農民のくせに高いびきで寝ている。血祭りに切りましょう!」
と息巻いた。信長は笑って首を横に振った。こういった。
「わしはこういう光景をみるのが好きだ。わしの領内では、いつも農民がこういうふうにのんきに居眠りをしてもらいたい。ほっておけ」
これは信長の天下を統一する思想の根源だ。
彼の生まれた尾張(愛知県)には古くから〝あゆち思想〟というのがある。あゆちというのは、幸福の風が海から吹いてきて日本の中部である尾張に上陸するという伝承だ。信長は早くから天下に志を持ち、その志も、
「あゆちの風を日本中に吹かせたい」
と考えていた。その根幹は農民であり、農民の耕す大地だと思っている。したがって信長の天下統一の根幹には
「日本の農民がすべて幸福に暮らせるような世の中づくりをしたい」
ということである。しかし当時の信長はまだ弱小で、軍も三千人ぐらいしかいなかった。そんなときに、駿河国(静岡県)の守護(国守)である今川義元が四万人の大軍を率いて京都に上りはじめた。今川家は足利一族で、室町の足利将軍に何かあったときは、かわって天下人になれるという資格を持っていた。時は戦国時代で、室町将軍家も幕府も衰微の一途をたどっていた。そこで義元は

「てこ入れをしよう。場合によっては自分が将軍に取ってかわる」

という考えを持っていたのである。東海道筋の豪族を片っ端から突破した。前方には若造の織田信長がわずか三千の軍を率いて妨げになろうとしていた。義元は「一挙に踏み潰す」という勢いでどんどん東海道を西へ向かってきた。

◆正しい情報で判断

信長の前線基地もいくつか突破された。そのころ信長は清州城にいた。城内で軍議が開かれた。重臣たちは悲観論で、
「戦ってもどうせ敗れます。潔く城を枕に討ち死にしましょう」
と主張していた。信長は沈黙した。気に入らなかった。彼にすれば、
(わしはあくまでもあゆちの考えを守りたい。今川の野望はただこの国の権力者になることだけだ。わしとは民に対する考えが違う。何としてもここは負けたくない)
と思っている。そこで会議をお開きにした。時間稼ぎである。信長は、現地からの正確な情報の伝達を待っていた。一旦軍議を休憩すると、その間に信長の待ち望む情報がやってきた。もたらしたのは、桶狭間地方で陣を構える梁田政綱(やなだ・まさつな)という武士である。梁田のもたらした情報によれば、
・今川軍は織田領に入ると、二手に分かれ一手は桶狭間に、もう一手は田楽狭間に陣を置いている。野営の構えだ
・領民たちは今川軍の朝飯の準備をさせられている。しかし、その種類が違っていて桶狭間のほうは握り飯と水だけ、田楽狭間のほうは鮮魚と酒までついている
・土地の故老の情報によれば、あしたは昼ごろにこの地帯に低気圧がくるといっている
 この情報を信長は分析した。そして、
(勝てるぞ!)と胸を踊らせた。
彼はこの情報を利用し、
・あしたは桶狭間の敵は無視する。田楽狭間だけを狙う
・なぜなら、桶狭間の野営軍は四万人近くであり、田楽狭間のほうはわずか五百人だ。ということは、義元並びに幕僚級は田楽狭間に宿泊するに違いない
・そのことを立証するのが食事の差だ。握り飯と水だけというのは一般兵だ。魚と酒がついているというのは大将と幕僚に違いない
・そこで、田楽狭間攻撃には土地の老人が教えてくれた気象状況を利用しよう
 と考えたのである。
 翌日、信長は三千の軍を田楽狭間脇の小高い丘の中に忍ばせた。昼ごろ確かに低気圧がきた。突然の風と雨だ。これを利用して信長は一斉に、「かかれ!」と命じ、乱戦の末に今川義元の首をとった。大将の首をとられて今川軍は総崩れになった。やがて、空はからりと晴れた。信長はすぐきょうの部下たちの論功行賞をおこなった。勲功一位として高額の褒美をもらったのは梁田政綱である。部下は文句をいった。普通なら今川義元の首をとった武士が勲功一位になるはずだ。信長はそうしない。そこでみんなはその理由を尋ねた。信長はこう答えた。
「これからの軍の勝敗を決めるのはすべて正確な情報である。それも現場に密着した情報だ。梁田はそれをもたらした。しかし梁田がその情報を得られたのは、普段からの日常行動による。つまり梁田とその部下たちが、地域に溶け込み地域のために努力してきたからだ。普通なら梁田のもたらした情報は今川軍にゆく。それを土地の人々は死を覚悟で梁田に教えてくれた。その意味で、おまえたちもこれからは梁田を模範とし、正しい情報が得られるように、日常の地域活動に努力してもらいたい。梁田を勲功一位とするのはそういう理由である」
これには部下将兵は言葉がなかった。やはり、新しい時代がきていたのである。その新しい時代を生き抜くためには、
「何よりも正しい情報だ。そのためには、地域に溶け込まなければならない」という信長の教えは、しみじみと部下たちの胸にしみ渡ったのであった。だから信長の決断は、単なる決断ではない。やはり、
「尾張に伝承されるあゆちの理想を実現し、農民を主とする住民と大地を守るためには、やはりトップリーダーの考え方もまず改める必要がある。そしてそれを成員すべてにいき渡らせることが、新しい大将の責務なのだ」
という考えにあった。つまり、
「部下の意識改革をおこなうためには、まずトップリーダーから自己改革をおこなわなければならない」
というのが信長の考えだったのである。普通伝えられるように、信長は冷酷な独りよがりのトップリーダーではない。一つの決断を下す前には、十分に情報を集め、分析し、判断し、その中に含まれている問題点を取り出して、どうすれば解決できるかという思考方式を重んじていた。そして決断の対象となる選択肢も、単一ではなくA、B、Cの複数用意した。その中から、
「これが一番正しい」と思うものを選んだのである。クールな判断力と、同時に果断な行動力を背景にした決断であった。


童門 冬二 歴史作家
(どうもん・ふゆじ)1927年東京都生まれ。 45年東京都庁に勤務。知事秘書、政策室長などを歴任。 1960年第43回芥川賞候補。 79年退職し作家活動に専念。 99年春の叙勲で勲三等瑞宝章を受章。日本文芸家協会・日本推理作家協会会員。JAマスターコース塾長。

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