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新しい器では酒も新しくなれ 蒲生氏郷2017年2月10日

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【童門 冬二(歴史作家)】

◆信長の婿として

 蒲生氏郷は、戦国時代に"人づかいの名人"と呼ばれ、同時に、
「経営感覚に優れた武将だ」
 といわれた。氏郷は少年時代に父の計らいで織田信長の人質になった。この時信長は氏郷の並々ならぬ才幹を愛し、自分が作った楽市・楽座を見せたり、
「これからの大名は、ソロバン勘定も大事にしなければだめだ」
 と、経営の必要さや今でいうバランスシートを大事にすることも教えた。信長はしかも自分の娘(冬姫)を氏郷の妻に与えた。したがって氏郷は信長の婿ということになる。その信長が本能寺の変で変死したあと、跡目争いが起こった。この時、最も有力な候補が氏郷だった。これを案じた羽柴秀吉は、巧妙な政略によって信長の後継者になるが、氏郷がどうしても気になる存在であった。そのため最初は伊勢の松阪に、さらに会津(福島県)の黒川に転勤させた。いわゆる"敬遠人事"である。自分にとって鬱陶しい存在は、遠国に飛ばしてしまうというやり方だった。
 会津黒川に行った氏郷は嘆いた。
「これで、最早天下への道は閉ざされた」と思えたからである。しかしかれはだからといって落ち込んだりふて腐れたりはしない。政治が好きだし、また新しい土地で自分の手法を展開することに喜びを感じていた。
 会津黒川には、日野からも多くの商人が氏郷に従って行った。当時農民はその土地から離れることは出来ないが、商人は今までの大名と共に新しい任地に移動することが可能だった。しかし黒川には古くからの会津商人がいる。当然新来の商人と旧来の商人との間に争いが起こる。また、武士も同じだった。氏郷に従う武士たちを迎え入れる会津在来の武士たちが反目した。氏郷がまず直面したのがこの武士間あるいは商人間の反目の処理である。

◆酒と器の処世観

(挿絵)大和坂 和可 これは伊勢でも実験したことだが、氏郷は常に、
「酒と器の関係」
 でこの問題を考えていた。古い言葉に、
「新しい酒は新しい器に盛る」
 というのがある。氏郷はこの古語を、
「器が新しくなったのなら、盛られる酒も自分の体質も新しく変えなければならない」
 と、「酒側の自己改革」
 を大事にしていた。
 この時にもその考えを実行した。氏郷はまず「黒川」という地名を変えた。「若松」としたのである。若松は、日野商人が崇敬する日野の綿向神社の所在地の名だ。だからそのことを表面から言わなくても、日野商人に対し、
「おまえたちの故郷のお宮の名をこの地名にするのだ。あまり僻むな。だからあまり在来の商人と争うな」
 という心持である。さすがに日野からついて来た商人たちも氏郷の考えを理解した。武士たちも、そういう細かい氏郷の配慮を知って、
「あまり在来の武士と争うことは殿の御苦労を余計増すことになる」
 と自粛した。したがって、氏郷の方針は、
・会津黒川の地名を会津若松と変える
・したがって、近江(滋賀県)日野城からやって来たわれわれも、最早近江日野人ではなく、新しく城を構えた会津若松人である
・商人も同じだ。日野商人ではなく会津若松商人に変わる
 という考えに立って、意識改革を行わせたのである。いってみれば、近江日野城の武士たちも、その城下町で商売をしていた日野商人たちも、新しく氏郷が変えた、
「会津若松」という新しい器の中に、いってみれば発展的解消を遂げたのである。そしてこのことは、会津黒川の人々も同じだった。かれらも「会津若松」という新しい器の中に、やはり発展的解消を遂げ、その中で新旧の人々が完全に解け合ったのである。この方法は、蒲生氏郷の、
「AかBかを選ぶ二者択一」
 の方法ではない。AでもBでもない、Cという第三の道を設定したということだ。着任と同時に、会津黒川の人々は牙を剥く。決して歓迎はしない。特に商人の場合には、黒川商人がコツコツと努力をして培ってきた彼らなりのお得意さんを奪われる結果になる。当然眼を剥く。しかし、そのままにしておけば、
「会津黒川商人を立てるか、あるいは日野からやって来た近江商人を立てるか」
 という二者択一の立場に氏郷は追い込まれる。そのために氏郷はこの二者択一を行わなかった。そうではなく、
「会津若松」
 という新しい地名を設定して、その中に両者が入り込んで融合してほしいと願ったのである。こういう第三のCの道を設定できたのは、やはりかれが子供の時に織田信長の拠点であった岐阜城で、朝から晩まで経営の必要性やソロバン勘定を学んだためだった。武士だけの考え方を貫けばどうしても、
「あれかこれか」
 という二者択一になってしまう。それを退けて、新しく「会津若松」という地名を設定して、
「その中に新旧も溶け込んでしまえ」
 という才覚は、やはり氏郷が当時の戦国武将の中では新鮮な感覚を持ち、その感覚による新しい発想を行ったという事だ。しかし、天下を狙う秀吉に睨まれて、会津にそのまま置かれ、二度といわば中央の管理中枢機能に呼ばれることはなかった。そのためだろうか、会津にいて氏郷が、秀吉に殺された千利休の息子を引き受け、立派な茶室を造ってこれを優遇した。氏郷は、たとえば日野名物であった日野椀という木工品を会津に持ち込んでいる。しかしこの地でその製品を奨励しても決して「日野椀」と名乗らせなかった。逆に、
「会津塗」と名づけて、現地を立てる銘品生産を行わせた。この辺も、年齢に似ずかれの、
「新任地に対する心遣い」
 の現れである。蒲生氏郷は、あくまでも、
「相手の立場に立って物を考える」
 という、論語でいう「恕の精神」の実行者だったのである。
(挿絵)大和坂 和可

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