【酒井惇一・昔の農村・今の世の中】第6回 「サムサノナツ」2018年6月7日
1980年ころではなかったろうか、岩手・三陸沿岸のある村に行った時のことである。高台の畑から太平洋を見ていたら足元が涼しくなってきた。見ると白い霧のようなものが海の方から流れてきて足元を冷たくしている。見る見るうちに足元の畑の野菜が見えなくなるくらいになる。上を見上げれば青空だが、もう海は白い霧におおわれている。やがてすべて真っ白でまわりの景色は見えなくなる。「やませ(偏東風)」である。寒い。こうした天気が続けば間違いなく冷害・不作だ。
こうした事態に対処すべく寒さに弱い実取りの作物ではなく寒冷地に適する葉物野菜をつくろうという活動を始めた地域の調査だったのだが、日本海側生まれの私にとってまともにやませを見たのは初めてのことだった。太平洋沿岸はこのやませ・冷害常習地だったのだが、日本海側も積雪寒冷地帯、冬の豪雪に加えて夏の寒冷の被害に遭った。
東北地方は少なくとも10年に一度くらい寒さの夏にあうと言われていたのだが、戦前のことでいえば1934(昭和9)年の東北大冷害はすさまじかった。私の生まれる2年前のことだった。お盆のときでさえ褞袍(どてら)を来ていなければならないほど寒かった、こんな経験はこの一度だけだったと父は話していたが、当時の科学技術、稲作技術の水準ではいかんともなしがたく、この年は記録的な大冷害となり、地域によっては米は収穫皆無となった。
その5年前(1929年)の世界大恐慌により米が半値に、東北農業のもう一つの柱であった繭の値段が3分の1に暴落した影響がまだ色濃く残っているところに大凶作だから、たまったものではなかった。
とくに重い小作料にあえぐ小作農などは生きていけなかった。だからといって小作料を払わなければ土地を取り上げられてしまう。そしたら生きていけない。しかし払える米がない。それを手に入れなければならない。しかし金などあるわけはない。
売るものは、売れるものは娘しかなかった。売らなければ家族全員餓え死にするしかなかった。山形の農民歌人結城哀草果は次のように詠んだ。
「貧しさは きはまりつひに 年ごろの
娘ことごとく 売られし村あり」
ある村では役場が「娘の身売り相談に応じます」と書いた紙を掲示板に貼った。悪質な人買い(人身売買業者)の横行を放置しておけなくなったのだろう。異常寒冷気象という自然と、地主制という社会経済との両面からの災害は娘の身売りを急増させたのである。
宮沢賢治はこう書いた、「サムサノナツハ オロオロアルキ」と。たしかに農家はそうするしかなかった。同時に「サムサノナツハ ヒトカイアルキ」でもあったのである。
こんな話を聞いたことがある。娘を売った金で酒を飲んだ親もいた、ひどい親もいたもんだと。たしかにそうである。しかし娘を売らざるを得なくした自分のふがいなさ、娘への申し訳なさ、それを飲んで忘れたかったのではなかろうか。もちろん飲んだらそのお金は生活にまわせなくなる、貧しさからは抜け出られなくなる、それはわかっている、でもそれを思い出したくない、だからからこそますます飲んでしまう。
弱い人間だ、だからだめなんだと責めるのは容易だ。しかしそこまで追い込んでしまった方に問題はないだろうか。貧窮と絶望が醜悪な行為をさせてしまったのではなかろうか。もちろんそれを許す気にはなれないし、そもそもそんなことをする人は本当にごくわずかでしかなかったのだが。
売られた娘の中には身を売った金の中から家族に毎月仕送りをするものもいたという。どんな思いで故郷に便りをしたのだろうか。
東北の窮状は全国に報道された。それは「貧しい東北」「飢える東北」「哀れな東北」「遅れている東北」「暗い東北」というイメージを植え付けるものでもあった。
この『東北』は『農山村』に置き換えることができ、程度の差こそあれ日本の農山村、農家のイメージとしてそれは定着していた。
そしてそれは一部真実でもあった。
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