【酒井惇一・昔の農村・今の世の中】第28回 戦後も残った農家の貧困2018年11月15日
敗戦から5年、世の中が少しずつ落ち着き始めた1950年頃(私の中学生の頃)、作業小屋で農作業の手伝いをしていたとき父からこう言われたことがあった。
「これまで『百姓は馬鹿でもできる』と言われてきた。しかし決してそうではない。だからお前が大学に行きたいというならどんなことをしてでもお金を出してやる」
その話をされたのは普通の農家の子どもがましてや長男や女性が大学に行くなどということがほとんどなかったころなのだが、そうした父の考えもあって都市近郊農家の長男だった私は大学の農学部に入った。
そのころの私の思いは、まずは農家の「貧しさからの解放」、「過重労働からの解放」、「自然災害からの解放」だった。そして「格差・差別からの解放」であり、「戦争からの解放」だった。
なぜそんなことを考えたのかはこれまで書いた戦前から戦後にかけての私の子どものころの話で若干はおわかりいただけたのではないかと思うが、これらの私の思いは戦後の新憲法制定、農地改革、財閥解体等々で展望が開けてきていた。しかし「解放」にはまだまだほど遠かった。
その一例としていつも話したり書いたりしているのが次のような話だ。聞いたことのある方には申し訳ないがまた書かせていただきたい。
◇ ◇
1954(昭29)年のことである。この年は私が東北大学に入学した年だったが、その晩秋、子どもをおんぶした農家の若い母親が大学病院の門をくぐった。岩手の山村の医者からの紹介状を読み、子どもを診察した医者はすぐに入院させるように言った。母親は家に戻って相談してくると答えた。医者は言った。このまま帰れば子どもの命はないと。母親は子どもをぎっちり抱きしめながら、目を伏せて、やはり家に帰ると言う。医者は繰り返し繰り返し入院を説得した。最後には怒鳴りつけた。しかし態度は変わらなかった。母親はまた子どもをおんぶして門から出ていった。うつむいて一歩一歩地面を踏みしめながら歩くねんねこ姿の彼女はとても小さく見えた。
農家は貧しかった。遠い仙台まで来て大学病院に入院させるお金などなかった。近くの医者に診てもらうことすら大変なことだった。しかも当時の農家の嫁は家での発言権もない。入院する、しないを決める権利もなかった。
彼女の姿を大学病院で再び見ることはなかった。入院させる金がないということになったのかもしれない。子どもが死んだからかもしれない。
この一部始終を見ていたのが、看護学生で実習に来ていた私の家内だった。自分の力で自分の子どもを救えず、涙も流せられなかったその母親を見たとき、その姿に同性としての自分を重ね合わせ、世の中をもっとしっかり見つめていかなければと考えたという。その話を私なりにイメージして書いたものである。
これは極端な例ではあるけれども、当時の農家は本当に貧しいものだった。私の生家も例外ではなかった。戦前からの自作農で、稲作と都市近郊であることを利用した野菜作をいとなんでいて食べるものには不自由しなかったし、医者にかかることもできた。しかし、家族総ぐるみで稼ぎに稼いでようやく生計をまかなう程度であった。
こうした農民、農業、農村の状況から何とか脱却したい。
他の職業にはない農業の喜び、楽しみ、感動をかき消してしまうような貧困、苦役的過重労働、自然災害、そして古い慣習の残る家と村、都市と農村の格差、農民に対する差別意識、戦争の被害を何とかなくしたい。
これが大学に入った理由だったのだが、それから約60年、その思いを達成するために私がいかほどのことができたのか、私のその思いが本当に達せられたのか、と思うと胸が苦しくなる。それはまた後に語らせていただくことにして、「その昔」になってしまった戦後の時代の農業、農村のことをもう少し話させていただきたい。
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