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【童門冬二・小説 決断の時―歴史に学ぶ―】身を捨てて悪主人を告発する 栗山大膳2018年12月16日

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【童門冬二(歴史作家)】

◆父子二代にわたる忠臣

 戦国末期から江戸時代初期にかけて九州の一角で活躍した黒田如水(孝高)・長政父子は、共に名将の名が高い。それぞれ優れたブレーンがいた。如水には栗山備後、そして長政には備後の子大膳だ。備後は特に、敵の城の中にある土牢に閉じ込められていた如水を、奇策をもって救い出した。そのため如水は備後を生涯"命の恩人"として厚遇した。長政は筑前福岡藩の初代藩主になった。その時、長政は死んだ備後に代えて大膳を筆頭家老にした。長政の後継ぎ忠之は、生まれた時からわがままな息子で長政の気に入らない。長政は度々、
「忠之を廃して、弟を自分の後継ぎにしよう」と思い立った。が、その度に大膳が諌止した。大膳は林羅山に学んで、大義と人の道を知っていたので、とにかく、
「そんなことをすると、人道に背きます」といった。長政は大膳の諫言に従ったが、交換条件を出した。
「それでは、おまえのところに忠之を預けるから、真っ当な人間になるように訓育してくれ」
 と言った。大膳は承知した。大膳は預かった忠之より十二歳年長である。忠之は閉口した。それは大膳が、何かにつけて忠之を叱り、戒め、ああしてはいけない、こうしなさいと一々忠之の行動に苦言を呈するからである。忠之は心の中で、
(大膳は、口うるさくて仕方がない)と感じていた。やがて忠之は家を継いだ。死ぬ間際に長政は、
「くれぐれも忠之を頼む」と言った。しかし藩主になった忠之は、
「大膳はうるさくて仕方がない。自分なりの側近を持とう。大膳は遠ざけよう」と考えた。足軽に倉八十太夫という若者がいた。これに眼を着けた。これ見よがしに十太夫を登用した。倉八家は二百石の足軽身分だったが、忠之は思い切ってこれに九千石の高禄を与え家老の列にも加えた。そうなると、城内の武士たちも忠之の不当な人事よりも、
「もう栗山殿の時代は去った。今は倉八の時代だ」と思い、先を争って十太夫の所に挨拶に出掛けた。
 だれが見ても、福岡城内の勢力関係ははっきりした。大膳はすでに実権を失った名目上の家老に過ぎなかった。しかし大膳は屈しなかった。それは忠之が、この頃しばしば幕命に反する様な行動を行なっていたからである。幕府は大船の建造を禁じていた。にもかからず忠之は「わしの参勤交代用だ」と言って、大きな船を建造した。同時に、これも禁じられている藩の武士を三百名も新規採用し、しかもその指揮を十太夫に任せた。大膳は次第に不安になった。自分の立場のことではない。
(このことが幕府に知られたら、黒田家は潰される)と藩のことを思ったからだ。考えに考えた上、大膳はある日辞職を申し出た。忠之は喜んで受け取った。家に引っ込んだ大膳は、頭を剃って僧形になった。一歩も外へ出ない。忠之は警戒し、昼夜を問わず大膳の屋敷を見張らせた。ある夜、大膳の家から一人の武士が忍び出た。待ち構えていた忠之の家臣が捕えた。調べてみると、武士は一通の書状を持っていた。それは大膳の幕府に対する密告書だ。
「忠之に謀反の心あり」と書いてある。仰天した見張り役はすぐ忠之に報告した。忠之は怒り狂った。

 

◆大膳の決断と幕府の処分

身を捨てて悪主人を告発する 栗山大膳 このことが幕府に漏れた。呼び出しが来た。幕府は老中が調べ役になって忠之と大膳を対決させた。この時忠之は自分の代わりに倉八十太夫に答弁させた。十太夫は立て板に水の流れる如く滔々とまくし立てた。調べ役の老中たちは顔を見合わせ、次第に不快感を覚えた。大膳の取り調べは、老中たちが密室で行った。大膳の忠臣ぶりは皆知っているので老中たちは、
「おまえの真意は何だ?」と訊いた。大膳ははじめて心の中を明かした。それは、
 ・忠之には全く謀叛心などないこと
 ・しかし、倉八十太夫の突然の登用によって福岡城内が乱れに乱れていること
 ・十太夫のそそのかしによって、幕府禁制の大船を造ったり、あるいは兵力を急増したりしていること。しかしこれは十太夫のそそのかしであって忠之自身には全く罪が無いこと
 ・すべて自分(大膳)への嫌がらせなので自分と倉八を追放してほしいこと
などと言った。老中たちは感心した。大膳の告発が、黒田家安泰のためであって、決して自分が遠ざけられた恨みからではないと悟ったからである。老中たちは、
「栗山大膳に私心は無い。あくまでも黒田家の安泰のための告発だ。しかし、家臣の身で主君を告発するというのは道理に反する。処罰はやむを得ない」と結論した。判決が下された。忠之には、一旦領土を幕府が没収するが、あらためて同石高を忠之に与える。ただし十太夫は解雇するという寛大なものだった。大膳には、
「主人を告発した罪により、南部家(岩手県)にお預けとする。食祿として百五十石を与える。ただし、城外への散策は許す」というものであった。
 南部家に預けられた大膳は、心晴れ晴れとしていた。自分の策した通り、倉八十太夫が福岡城から追放されたと聞いて喜んだ。全てを失ったがしかし自分にとって心温まるものを得た。

 

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童門冬二(歴史作家)のコラム【小説 決断の時―歴史に学ぶ―】

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