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【酒井惇一・昔の農村・今の世の中】第38回 皇紀・西暦、元号に思うこと2019年1月31日

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【酒井惇一(東北大学名誉教授)】

 1940(昭15)年、その正月早々からラジオは毎日毎日、朝から晩まで何度となく「...紀元は二千六百年 ああ一億の胸はなる...」(注1)という歌を流した。神武天皇が即位してから2600年になるというお祝いの歌で、戦前私たちはこの「皇紀」の年号なるものを紀年法として昭和などの元号と並行して日常の暮らしや教科書で使わせられていた(「西暦」という紀年法があり、それが世界各国で使われているなどとはまったく知らなかった)。しかし明治以降政府から使用を強いられてきた「皇紀」は史実にあわない非科学的なものであること、皇威発揚など日本軍国主義に利用されてきたことなどから戦後使わなくなった。
 ところが、明治とか昭和とかいう「元号」はそのまま使われてきた。しかも公文書等ではこの元号を使うようになっている。今もそうだ。国際化だ、グローバルスタンダードだなどと騒ぎながら、これだけはいまだにそのままである。

 しかし、この元号はきわめて不便である。まず他の国の人々と共有することができない。欧米諸国の西暦と元号とを置き換えることが必要となり、その換算が面倒だ。また、元号では今から何年前か計算するのが難しい。天明とか元禄とか言われてもいまから何年前なのかがすぐにはわからない。昭和と平成を連続させて年数を計算するのも面倒だ。さらに天皇が変われば変わるのできわめて複雑である。そもそも天皇の交代に合わせて年を数える、名前を変えるのがおかしい(注2)。だから私は使いたくない。
 そうは言っても、明治、大正、昭和で小さい頃から育ち、周囲もそう使ってきたので、元号の年代で言った方が時代のイメージがわかる場合がある。だからといって元号を使うのもしゃくである。そもそも天皇制、身分制がきらいだからだ。それで本稿でも西暦を使っているのだが、もしかして昭和・平成との換算で計算がまちがったりしていないか不安になる。

 それでは西暦に全面的に切り替えるべきなのか。それもまたしゃくである。もちろん科学的にあるいは国際的に決められたものであればそれにしたがうのはやぶさかではない。しかし西暦はキリストの誕生した年をもとに決めたという。必ずしも科学的なものとはいえないし、国際的な協定で決められたわけでもない。そもそもクリスチャンでもないわれわれがどうしてその年を世界の紀元とし、その年号を国際基準としなければならないのか。なぜ釈迦の生まれた年ではだめなのか。人類が正確に年代を表記した「紀元」は周の時代の共和元年(キリスト紀元前841年)が始めなのだそうだが、なぜそこから年号を始めないのか、欧米ではないからなのか。

 そんな疑問が生じないように、世界のあらゆる人々が納得できる年をゼロとして、それを世界共通の年号として使えるようにしたらどうなのだろうか。たとえば地球にとってあるいは人類にとって貴重な年を紀元とする。彗星が大接近した年でもいい、第二次大戦が終わった年でもいい。もちろん戦争による死者が一人も世界で出なくなった年をゼロ年とすることにし、それまでは便宜上西暦を使うということにしてもかまわない。年号変更でパソコン等を切り替えるのは大変だし、混乱もするだろうが、いまの技術では簡単だし、大変なのは一時的でしかない。ぜひそうしてもらいたいものだ。

 年号ばかりではない。他の面でも欧米基準、キリスト教基準が横行しているが、それを変える必要もあるのではなかろうか。さらに最近では法律から経済、文化あらゆる面でグローバルスタンダードという名のアメリカンスタンダードに切り替え、それを「世界の常識」にしようとしているが、それを押しとどめる必要があろう。世界は多様な国家、民族、言語、宗教、文化から成り立っているのである。

 日本の元号も何とかならないだろうか。今年は平成から何かまだわからない元号に変えるという。私の研究対象としてきた明治維新以降の明治・大正・昭和・平成の元号と西暦の換算で苦労してきたのに、またもう一つ、それに新しい元号が加わる、しかも私は高齢でボケも始まっており、換算が間違ってしまうのではないかと不安になってしまう。

 さらに今年は平成30年であると同時に新元号の〇〇元年になることも換算に不便だ。カレンダー、手帳を新たに印刷したり、手直ししたりするわけにも行かない。とくに秘密にする必要もないのに、伝統とか神事とか言って元号を隠し、神秘性を持たせ、崇拝させようとして国民に迷惑をかける、困ったものだ。
 でも、そんな愚痴を言っても始まらない。国民の多くは元号を当然のこととして受け止めているようだし、当面はその存在を認めるよりほかないだろう。

 明治、大正、昭和と日本は戦争をしてきた、しかし平成は自衛隊の海外派遣等いろいろありながらもともかく国が武力で他国民を殺すことはなかった、その点では「平成」=「平静」の年代だった(日本の農業・農村にとっては「弊衰(へいすい)」の年代=疲弊衰退させられた年代だったが)。
 新しい元号も平和憲法にふさわしいものであってほしいものだ(もちろん、日本の農業・農村の発展、食料自給の向上を願うような元号であってもいいが)。

 まあ西暦・元号換算に頭を悩ませるのもボケ防止に役立つかもしれない、今年もまた換算にいそしむことにしよう(私の息の根が止まらなければの話だが)。

(注)
1.「紀元二千六百年」、作詩:増田好生、作曲:森義八郎、1939(昭14)年
2.交代しなくとも、つまり在位中に元号を何度も変える天皇もいたが、これはもっと大変だ。今は1代1元号となっているからまだいいが。

 

そのほか、本コラムの記事一覧は下記リンクよりご覧下さい。

酒井惇一(東北大学名誉教授)のコラム【昔の農村・今の世の中】

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