【童門冬二・小説 決断の時―歴史に学ぶ―】唸る米蔵確保法・水野忠之2019年2月10日
◆吉宗将軍、老中を試問
徳川八代将軍吉宗は、運もあって紀州藩主から将軍になった。紀州藩ですでに藩政改革を行ない、特に米の増反に努力した。そのため〝冬将軍〟と呼ばれた。米価調整に介入した。
江戸城内では、そういう吉宗の噂を知っていたから、「江戸城へ入られると、おそらく大規模な組織改革を行ない、大幅な人事異動も行うだろう」と、戦々恐々としていた。ところが吉宗は組織も人事も「今まで通りのシステムを踏襲する」といって、ほとんど手を付けなかった。ただ、遠回しにチクリと嫌なこともした。老中(閣僚)が数人いた。これを集めて、
「困難な幕政を背負ってくれてかたじけない。ついては、新米将軍なので幕政の知識を持たぬ。教えてもらいたい。そもそも、今年度の幕府予算はどの位のものかな?」と訊いた。老中たちは顔を見合わせた。やがて代表が、
「金の勘定は、われわれは扱いませぬ。下の役人に任せておりますが、呼びましょうか?」と言った。吉宗は苦笑した。そして、
「いや、構わぬ」と質問を取り下げた。ところが、
「本年は、何万両でございす」と、明確に数字をあげて答えた老中が一人いた。水野忠之(みずの・ただゆき)だ。自室に退った吉宗は忠之を呼んだ。そして、
「おまえを勝手掛(財政担当)老中に任命する」と告げた。勝手掛老中といのは、老中の中でも首相の格を持つ。吉宗は、
「予算などという細かいことは下役に任せてあります」という老中たちの識見のなさに呆れたのである。財政だの予算といえば、すぐ古い武士は゛ソロバン勘定゛としてバカにする。が、吉宗は違った。かれは、
「財政を重視する将軍」だった。水野はその眼鏡にかなったのである。水野は岡崎城主で、水野家は徳川家康の生母お大の方の生家だ。名門だ。
吉宗は江戸城の前に「目安箱」を設けて、江戸市民からの投書を求めた。その意見に従って幕府政治を改革しようとしたのである。ある日、その中に、
「蔵前の役人が、蔵の米を私している」というのがあった。吉宗はすぐ水野を呼んだ。投書を示し、
「事実かどうか調べよ。もし事実なら善処せよ」と命じた。
◆悪役人を自罰させる
水野は考え、勘定奉行を呼んで、
「新しく勝手掛になったので、蔵前の蔵を見たい。そう伝えよ」と告げた。勘定奉行はこのことを蔵前に告知した。蔵前の役人たちはびっくりした。それは、当初通りのことを行なっていたからである。それも一人や二人ではない。みんなで共同して今でいえば゛組織ぐるみの汚職゛を行なっていた。つまり米の横流しだ。慌てふためいた役人たちは、大急ぎで米商人から米を借りた。そして、蔵の中にどんどん運び込んだ。元通りにして水野の検分を仰ごうというのだ。
そういう状況は、逐一勘定奉行が水野に報告した。水野は、そうかそうかと頷いていた。
検分に赴いた。米蔵役人たちはハラハラしながら水野を迎えた。水野は米蔵の中に入った。そして、
「何だ、これは」と驚きの声を挙げた。振り返って役人たちに言った。
「実を言えば目安箱に投書があった。おまえたちが米を勝手に持ち出しているというものだ。実際に見てみれば、そんなことは全然ないではないか。米はちゃんと定めの量だけ蔵に納められている。ふざけた投書だ。投書者を罰してやる」と怒って見せた。ところが、蔵から出てくると水野は役人に命じた。
「蔵を封印しろ」
「は?」役人たちはびっくりした。水野はニコニコ笑いながらこう言った。
「米が正確に納まっているのに、あらぬ噂を立てる奴がいる。封ずるために、蔵を封印しよう。きちんと納まっている米を大切に保存するためだ。やれ」
役人たちは顔を見合わせた。この先のことを考えると居ても立ってもいられなくなるからだ。しかし老中の命令なのでそれぞれの蔵を全部封印した。
「よくやった。頑張れよ」水野はそう言って、米蔵役人たちを励まして江戸城に戻って行った。その後が大変だった。つまり、米蔵に納めた米は自分たちが先に私用に使っていたのだから、米商人から借りて納めたものだ。今度は米商人に返さなければならない。みんな汗みどろになって、米商人に交渉し、現物を返せない場合にはその代価を払い、月賦にしてもらって何とか難を逃れた。
水野はそんな状況はすべて把握していた。しかしかれは、米蔵役人が悪事を働いたからといってすぐ処罰という方法を避けた。それよりも、
「自分たちで、悪事を改め、責任を取らせた方が今後のためになる」
と考えたのである。
(挿絵)大和坂 和可
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