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【酒井惇一・昔の農村・今の世の中】第46回 戦後の「過剰人口」と移民2019年3月28日

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【酒井惇一(東北大学名誉教授)】

 戦前、農村の貧困は「過剰人口」にあるとして人減らし=満蒙移民を強く勧め、中国侵略の先兵としたという話を前にしたが、苦労して何とか開拓したところに敗戦、這々の体で引き揚げ、故郷に戻ってきた。しかし、故郷では食っていけない。そもそも食っていけないから満州に渡ったのである。そこで国の勧めにしたがってまたみんなで開拓に向かうことになり、北海道や都府県の山間部に入植して開拓のやり直しをすることになった。
 また、戦災で家を失い、職を失った大都市住民も故郷の親戚縁者を頼って村に帰ったが、やはり事情は同じ、大都市に戻れないものは開拓地へと向かった。

 しかし、開拓は容易ではなかった。与えられた自然原野はきわめて条件の悪い土地、苦労に苦労を重ねて農地に切り開いてもまともな収穫はできず、結局借金をかかえて離農せざるを得なくなった家も多々あった。まさに国策の犠牲者だったのだが、それでも離農して都市などに移住できたのだからまだよかった。中南米に移民した人などは日本に戻って来られなかった。
 北海道には、また都府県の山間部には、もはや厳しい条件の土地しか残っておらず、開拓にも限界があった。そこで展開されたのが南米への移民政策だった。それに応じようとする人もたくさんいた。狭い国土に人間があふれている、働き口も土地もない、こんな閉塞感の中で、国策として進められていたブラジルを始めとする南米への移住に夢をたくそうという人もいたのである。
 私の近くにもいた。中学卒業の春(1951年)、クラスは違ったが仲の良かった一人の女の子が家族ぐるみでブラジルに移住していった。今はどうしているだろうか。

 東北大学農学部農学科の私の同級生21人(1957年度卒)の中にも二人、移民希望者がいた。
 そのうちの一人MH君からかなり後になってこんなことを言われた。
 「お前はあのころ、『この苦しい日本を見捨てて出て行くのか、逃げるのか』と言って、おれを責めた」
 そう言われてみればそんなことを言ったかもしれない。当時の荒廃した貧しい日本からすれば、移住はバラ色にしか見えなかった。政府もそう宣伝した。だから私には、日本をバラ色にするために努力をせずにバラ色の国に行くのは日本への裏切りのように思えたのである。
 彼はいろいろな事情から南米移住をやめた。そして東北のある県の試験場に勤めて稲の多収技術の研究をして名をあげ、最後は関西の公立大学の教授となった。

 もう一人のHA君は初志貫徹で、1960年パラグアイに移住した。花卉栽培の大農場を経営して大成功をおさめた。
 1985年頃だったと思うが、彼が四半世紀ぶりで一時帰国したことがある。それで同級生が集まって彼の歓迎会を開いた。そのとき、みんなが彼に聞いた。
「日本に帰ってきて、一番変わったと思ったことは何か」
 彼は次のように答えた。
「日本が車社会になったとは聞いていたし、テレビでも見ていた。でもそれは、東京のような大都会の話だと思っていた。ところが自分のいなか(静岡の山村)に帰って、農家のご婦人が乗用車に乗って畑に行くのを見たときには本当にびっくりした」
 それを聞いて今度はこちらが驚いた。そういえばそうなのである。たしかに大きな変化だった。
 戦前はもちろん戦後の一時期だって、農家が自家用車を持てるようになるなどとは考えも及ばなかった。私たちは毎日連続してその変化を見ているからとくに感じなかったのだが、考えてみたらすさまじい変化だったのである。

 それでは移住した人々はどうなったのか。HA君のように成功した移住者は少なかった。ひどい条件のところに移住させられ、食うや食わずの生活を強いられたものもいた。現在でも、植民地支配のもとで遅れさせられた政治経済構造と多国籍企業の支配のもとで生活難に陥れられている人は数多い。だからといって今と違い簡単に日本に戻れなかった。
 そして今、南米に移住した人たちの三世、四世が日本に働きに来ている。故郷に錦を飾るどころか、今はまたもや過剰人口としてブラジルから逆に追い出され、外国人として故国の最底辺労働者として働かされる、何とも辛い。

 南米に行かなかったMH君の生き方がよかったのか、南米で成功したHA君がよかったのか、私には何とも言えないのだが。

 戦前・戦後、「過剰人口」・労働力過剰が失業や低賃金をもたらすのだ、それを解決するために移民、開拓による人減らしが必要なのだと、人々を人口の相対的に少ない地方や外国に移住させて解決するとした。
 ところが今はその逆に、人口不足時代だと言って東南アジアなどからの外国人労働者の受け入れを増やそうとしている。人手が不足しているなら賃金が上がっていいはずなのに上がらない、にもかかわらずさらに安い労働力を外国から入れる、何かおかしいと思うのだが。

 戦前は過剰人口だから人を減らせと言ったのに、戦中は「産めよ 増やせよ」と叫び、戦後はまた人減らし・産児制限を言って、平成の時代にはまたもや「産めよ 増やせよ」と言う、新元号の時代はどうなるのだろう。
 長く生きているといろいろあるものだ。

 

そのほか、本コラムの記事一覧は下記リンクよりご覧下さい。

酒井惇一(東北大学名誉教授)のコラム【昔の農村・今の世の中】

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