【童門冬二・小説 決断の時―歴史に学ぶ―】農民を富ませば藩財政もゆたかになる 農業改革者 大蔵永常2019年4月20日
天保年間に゛蛮社の獄゛というのがあった。これはオランダ学を学ぶグループを時の幕府目付鳥居燿蔵が、
「日本国を外国に売り渡す不逞の輩」
と断じて、グループに属する人々を断獄した事件だ。しかし実際にはこのグループは、最初は、
「農村をもっと振興するにはどうしたらいいか」
ということを、国内の知識だけではなく、オランダにもそれを求めて農業振興の策を練っていたグループだ。グループの中に渡辺崋山がいた。三河田原藩(愛知県田原市)の家老で、江戸詰だった。江戸でいろいろな学者と接触しているうちに、大蔵永常という農業振興に熱心な学者と知り合った。話を聞いて崋山は、
「ぜひ田原に来て、わが藩の農民に農業指導を行ってほしい」と頼んだ。永常は承知した。永常はかねがね、
「農民を富ませれば、藩の財政も豊かになる」
ということを信条としていた。田原は、渥美半島の中間にある温暖な土地だ。永常は、
「あなた方(農民)が富めば、藩の財政も豊かになる」といって、
「それには米作だけに頼るのではなく、米の収穫が落ち込んでも、別途収入の得られる作物を作ることが必要だ」と言った。例に挙げたのは、蝋燭になるハゼの植え付け・和紙を作るコウゾの植え付け・砂糖を生産するサトウキビの栽培・畳表などを作る藺草(いぐさ)の栽培などである。永常は豊後日田(大分県日田市)の生まれで、農業には深い関心を持ち、彼自身も携わっていたので、諸国を歩いている途中で、
「農業技術は何といってもこの国(日本)の西の方が優れている」と考えていた。
◆砂糖や土人形も
農民たちは永常が勧めた、
「売れる作物」の数々の栽培や植樹に熱心に努力した。ハゼの木が植えられたのは、藩内を流れる川の堤防や、城下周辺にある池の畔などであった。これは木を植えることによって、堤防の水防力を強めた。
池の畔は、秋になって真っ赤に燃えるハゼの紅葉を楽しむこともできた。
砂糖も、藩内の野田村を中心にして栽培された。なぜ野田村を選んだかといえば、この村では普通の農村が馬を労働力にしているのを、牛を飼って馬に代えていたからである。収穫したサトウキビを絞るのには、やはり牛の方が力が強い。永常は牛に轆轤(ろくろ)を回させるように指導した。
かれが女子供を喜ばせるために考えたのが、土地の土を原料とする土人形の製作であった。これが受けた。はじめは、貧しくておひな様の買えない家庭での代用品人形として勧めたのだが、これが大人の間でも喜ばれ、たまに訪れる観光客たちの土産物になった。それが口コミで伝わって、
「土人形が欲しい」
と訪れて来る他地域人も沢山いた。
永常が田原に滞留したのは五年ちょっとだったが、この間に田原藩の農業は目に見えて振興し、農民の収入も増えた。当然、藩財政も潤う。崋山は永常に感謝した。永常は、
「いや、私の方こそ長年考えていたことを実際に試すことが出来まして、ありがとうございました」
と礼を言った。豊かになった農民たちに対し永常は、
「協同して富の一部を出し合い、倉を作りなさい」
と勧めた。何の倉かと問われれば、
「災害に遭った時に、その蔵に溜めておいた食料や日用品を取り出して、みなさんで使うのです」
といった。つまりこの時代に言われた「義倉」の設営である。
崋山は、永常の指導を一過性で終わらせないために、いろいろな指導内容をテキストにして書き残してもらいたいと頼んだ。永常は承知した。この時永常は、
「渡辺御家老は絵の達人でいらっしゃる。要所要所に挿絵を入れてください。そうすれば農民も見やすく理解し易くなります」
と告げた。崋山は承知した。
◆いまも残る土人形
ここまでは和やかな風で田原藩の農業振興もスムーズに行った。が、最初に書いたように崋山自身が゛蛮社の一員゛ということで、幕府に目を付けられた。崋山は、
「われわれのグループはそんなものでは絶対にない。農業振興の策を外国から学ぼうとしているだけだ」
と抗弁したが幕府方はそうは見なかった。窮した崋山は、
「このままだと、藩主と藩に迷惑が掛かる」
と考えて、ある日突然自決してしまった。勢い、永常も田原に居ることが難しくなった。この頃は、老中水野忠邦のいわゆる゛天保の改革゛の真っ最中で、水野は浜松(静岡県)藩主だった。そこで永常に、
「浜松藩の農業改革を行ってもらいたい」と申し込んだ。永常は喜んだ。が、その水野が突然失脚し、老中職を免ぜられた。永常は落胆した。
しかし、永常が指導した田原藩の地域産業の振興は、今もその跡を残し特に゛土人形゛などは、昔のままの姿で残っているという。これは、永常が博多人形にヒントを得て考え出したものである。
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