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【酒井惇一・昔の農村・今の世の中】第52回 家畜の世話の手伝い2019年5月16日

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【酒井惇一(東北大学名誉教授)】

 農家の子どもはまず家のまわりでできる仕事を手伝わされるが、家事育児の手伝いに次いで私に与えられたのは家畜の世話だった。

 まず鶏の世話だ。1960年代の「青い目の鶏」・アメリカ産の飼料の輸入以前はどこの農家もわずかだが鶏を飼っていたもので(農家ばかりではなく町場の家でも飼っている家があった)、私の家でも2坪くらいの鶏小屋で10羽前後の鶏を飼っていたのである。この鶏の餌やりと産んだ卵の回収が小さい子どもの仕事だった。
 餌は、米麦雑穀等の脱穀調整の時に出る屑籾や未熟粒、破砕粒などをそのままもしくは煮たものが中心であり、それを鶏舎内においてある餌箱に入れてやる。そのときに卵を産むわら箱のなかに卵が入っているかどうかを見て取ってくる。自分より鶏は小さいと言っても怒るとこわい、小さいころは怒らせないように、つつかれないように恐る恐る小屋の中に入ったものだった。
 たまに鶏が卵の殻を突っついて割ってしまっていることがある。それを報告すると祖母は、固い餌が足りないので卵の殻を食べようとするのだと言って、しじみなどの貝殻を私によこす。それを金槌で細かく砕き、鶏に与える。これも子どもの仕事だが、そうするととたんに卵をつつかなくなる。
 泣きたくなるのは、餌やりや卵取りに行くときに鶏が小屋の入り口から逃げ出すときだ。捕まえようにも鶏に突っつかれるので子どもにはこわい。小屋に追い込むしかない。そのために入り口を開けておくと他の鶏も逃げ出してしまうし、入り口を閉めていたら追い込めない。泣きたくなったものだった。

 こうして鶏を育てても、卵はめったに食べられない。卵は売り物だからである。何日かに一度卵の買い集めを仕事にしている人がまわってきて買っていったものだった。
 たまに一個の生卵が夕食に出る。子どもたちは大喜びするが、たくさんの兄弟で一個を食べるのだから、醤油をたくさん入れて量を増やす。卵と醤油が均等になるようにかきまわすが白身はなかなか溶けない。この白身をだれが取るかが大問題である。白身がもっとも卵の味を残しており、黄身は溶けてしまって卵の味がなくなっているからである。最初に卵をごはんにかけると、白身がまず入るので、だれが先にかけるかけんかとなる。結局、小さい弟が先にかけることになり、兄はがまんさせられる。それでもおいしかったが、こういうときは兄弟が多いことを恨んだものだった。
 しかし、たまに一個まるまる一人で食べられることがある。遠足と病気のときである。遠足のときは卵焼きで、病気のときはおかゆに溶かして食べる。それくらい貴重な食べ物だった。
 中学校の保健体育の授業で先生が、病気をしていいことは何もない、という話をした。そのとき私は言った。卵をおかゆに入れて一個まるまる食べさせてもらえるので病気するといいこともあると。先生はうっと詰まり、苦笑いをしていた。

 そろそろ卵を産まなくなってくると、ひよこを必要な数だけ、わが家では10羽程度だったが、買ってきて育雛箱のなかで育てる。小さい頃は夜になると保温のために家の中の土間に箱を入れ、少し大きくなると夜でも外に出しておく。
 ひよこが一人前になるころ鶏小屋に入れられるが、それと同時に古い鶏は肉用として売られる。それでも一羽ぐらいは家で食べる。鶏を買いに来た人が家の庭で絞めてくれ、羽をむしり、さばいてくれて肉となる。子どもの私どもはかわいそうだと思いながら見ているが、その夜鶏肉が出てくるときはそんなことを忘れる。肉などろくに食べられない時代だったから本当においしかった。
 ブロイラーなどの肉と違って、採卵鶏の肉は固くてまずいなどといわれ、70年代以降、廃鶏を食べることはほとんどなくなった。それどころかゴミとして処理されるようにすらなったとのこと、何とももったいない話であるし、鶏にも申し訳ないと思うのだが。

 小学2年頃になると山羊の乳搾りだ。乳の握り方、指の力の入れ方等、覚えさせられ、最初2、3日は大人の付き添いで、後は一人で搾らされた。学校から帰るとすぐに搾って、それから遊びに行くのが日課となった。
 まず、祖父が飼料として毎朝刈ってくる野草をえさ箱に入れ、そこに山羊が首を出して食べ始めたときに縄で山羊を柱につないで動かないようにし、乳房の下に鍋をおき、乳をゆっくり交互に搾る。最初の頃は山羊が暴れて角でついてきたり、足で乳の入った鍋をひっくり返してしまうことがあったが、慣れてくるとそんなこともなくなってくる。
 山羊の乳は卵と違って売ったりはしない。搾った後すぐに煮沸し、夜子どもを中心に家族みんなで飲む。

 それにウサギの餌やりもあった。雑草を刈ってきて食べさせるのである。ウサギの飼育は学校から強く勧められたものだった。満州にいる兵隊さんたちの防寒用にウサギの毛皮が必要だというのである。もっとも多いときは5羽飼っていたが、戦後はやめた。

 背の高さが牛の背に近くなる小学校の高学年になると、牛(耕起、運搬用の役牛)の餌やりが仕事となる。
 稲わらを押し切りで3cmほどに細かく切り刻み、それとこぬか(小糠)、米の研ぎ汁をかいば桶に入れ、それを棒でかき混ぜて食べさせる。ときどきは野菜くず、みそ汁やおかずの残りなどの残飯をエサに混ぜて食べさせる。
 こぬかは牛の大好物である。だから、こぬかの箱から必要な分量だけ入れようとかいば桶の近くに持ってくると、首をつっこんで食べようとする。油断するとこぬかの箱に口を入れて食べたり、ひっくりかえしてしまう。そうしないように混ぜ合わせる棒を振り回しながら牛をどなりつけ、牛小屋の奥に追いやる。
 これが朝晩の仕事となるが、遊びに夢中になって餌やりを忘れて遅く帰ってくると、夕食の支度をしている祖母によく怒られたものだった。

 

そのほか、本コラムの記事一覧は下記リンクよりご覧下さい。

酒井惇一(東北大学名誉教授)のコラム【昔の農村・今の世の中】

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