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【酒井惇一・昔の農村・今の世の中】第61回 背負って運ぶ作業2019年7月18日

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【酒井惇一(東北大学名誉教授)】

20190606 コラム 昔の農村・今の世の中 見出し画像

 棒掛けした稲が乾燥し終わったころの晴れた日、足踏み脱穀機が田んぼに運ばれる。母や祖父、子どもの私は、稲杭(いなぐい)から稲束を外し、田んぼの真ん中におかれた脱穀機の脇に運び、積み重ねる。脱穀機の下についている板を足で踏んで脱穀機を回している父は、それを一束ずつつかんで、稲穂の方をうなりをあげて回っている回転胴のなかに突っ込む。すると籾が稲穂から落ちで飛び散る音がし、2~3秒もしないうちに籾はすべて落ちる。父は一粒の籾も残っておらず単なる稲わらとなってしまったわら束を澄みわたった秋空に高く放り上げ、正確に斜め後ろの一定の場所に積み上げていく。それを祖父や母が何十束かずつを一つにきれいにくくりまとめ、田んぼのなかの一ヶ所に何段か積み上げていく。

 秋晴れの田んぼに足踏みのグィーングィーンという音、籾粒がはじけてぶつかるパシャパシヤという音がひびく。私たち子どもは稲束運びを手伝いながら、稲束のなくなったはざ棒にのぼってまわりを見回したり、汽車が遠く走っているのを見たりして遊ぶ。あるいはまだ残っているいなごを捕まえる。

 脱穀された籾がある程度の量になると、それを叺(かます=わらむしろを二つ折りにして縁を縫い閉じた袋)に入れる。夕方近くになると、その叺を背中に背負って牛車のところまで運び、後ろの荷台に積み重ねていく。背(しよ)負(い)子(こ)に載せて背中にかついでいく場合もあるが、おんぶするように縄で背中に結わえ付けて運ぶ場合もある。
 小学生の私はそれほど量の入っていない叺を背中に背負わされて牛車に向かったものだった。

 脱穀が一段落したある日、田んぼに積み上げておいた稲わらを牛車やリヤカーに積んで家まで運搬する。自宅の小屋にうずたかく積み重ねて起き、縄や俵などのわら工品の原料、堆肥の原料、家畜の飼料や敷き藁の材料として用いるために貯蔵するのである。このわらも田んぼから牛車のところまで背負って運ぶが、これは軽いので楽だった。

 背負う労働がこの程度ですんだのは、牛車やリヤカーがあり、その通る道路がある程度整備されていたからだった。私の生家の地域の場合、都市近郊であり、野菜作などの商業的農業も盛んであるために相対的に道路は整備され、牛や牛車、リヤカー、自転車を比較的早い時期から導入することができたのである。
 しかし、たとえば山村の棚田や段々畑では、そして道路整備もままならない傾斜地では、大小形状材質さまざまの「背負子(しょいこ)」や「背負い籠」でもって生産資材や生産物を背負って運ぶしかなかった。そしてそれらは山からの薪や木炭、山菜などの林産物の運搬にも利用された。重いものを背負ってしかも急傾斜の細いくねくねした道を歩いて運ぶ労働、当然能率は悪かった。それで繁忙期になると子どもは学校を休まされて手伝いをさせられた。
 「おれの背が低く、足が『がにまた』なのは、子どものころ重い炭や薪、稲束や桑の葉を背負わされて細い山道を歩かされたおかげだ」、山村生まれの高校の同級生としばらくぶりで会って昔の話をしていた時、そう言って笑っていた。

 戦後2~3年経った頃(私が中学生になった頃)、私の生家や近隣の農家の脱穀はすべて電動脱穀機に変わった。当時は深刻な食料不足、秋の端境期などには米が倉庫になくなってしまうという時代、そこでできる限り早く脱穀調整して供出してもらいたいということで政府は早場米奨励金を出し、脱穀調整の電化を奨励したからである。
 それで田んぼではなく農業用電力のきている家の小屋に稲束を運んで脱穀するようになった。

 棒がけした稲がほぼ乾燥し終わった頃の天気の良い日、田んぼに行って稲杭から稲束を降ろし、それをさらに大きく束ね、牛車にうずたかく積み重ねて家の小屋に運ぶ。朝露の乾く時間から夜暗くなるまで、それを何度も繰り返す。
 この時期は日暮れが早い。すぐ暗くなる。それで一日に運ぶ回数はどうしても少なくなる。しかも晴れた日でないと運べない。濡れた稲を運ぶわけにいかないからだ。また、本格的な冬の前触れの秋の長雨が来る前に終わらさなければならない。何とも気がせく。今年最後の忙しさだ。
 足踏み脱穀時代とは違って籾のついた稲わらを背負って運ぶのだからけっこう重く、二回往復が一回になったとはいえ、大変だった。

 何日かかけて運び終わると、今度は朝から小屋の中で脱穀が始まる。田んぼでやるのと違って雨が降っていてもやれるので、この点だけは気持ちが楽だ。モーターの音がグーンとなって電動脱穀機が回転する。稲束が入るとすさまじく大きな音となり、人の声は聞こえない。あっという間に籾が落ちる。しかし、小屋の外に吹き飛ばされた稲ワラや籾殻のこまかく塵状になったゴミが舞い飛び、働いている人はほこりだらけになるのが難点だ。これが皮膚にささってかゆくて痛くて大変だった。

 残るのは籾摺りだ。供出に向けての最後の仕事、これは戦前から機械化が進んでいたし、屋敷うちの小屋の中でやるので肉体的にも気分的にも楽だった。

 

そのほか、本コラムの記事一覧は下記リンクよりご覧下さい。

酒井惇一(東北大学名誉教授)のコラム【昔の農村・今の世の中】

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