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【坂本進一郎・ムラの角から】第17回 大潟村にムラを発見するまで(2) 2019年8月2日

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【坂本進一郎】

(1)二つの群れと大潟村農業の特殊な収支構造

収支構造

 派閥はムラの変形である。前述のように日々の生活と営農が安穏であるときには、群れは目立たない。ムラは「生活の論理」をベースにして普通は「安穏」の「生活」と「営農」は親から子へ農業を引き継ぐことで成り立ってきたからである。
 ところが大潟村は違っていた。ムラは闇米の軌跡と歩調を一にして顔を出したのである。それを可能にしたのは大潟村農業の収支構造の特殊性である。上の図を見ていただきたい。特殊というのは、「農政の問題」と「腹いっぱい運動」が同居しているということである。それを説明しよう。5ha増反を受けたとき、入植者は15ha認知運動を起こした。認知という言葉は、私生児を思わせる。つまり5haはおまけのようなもの。そこも稲を作りたいというのだ。ところが収支構造は複雑だ。
 例えば、(A)の部分については農政の部分が集中して現れている。(B)の部分は損得があるだけで、農政の問題というより腹いっぱいの運動。大潟村を外から見ていて、分かりにくいのは(A)の部分と(B)の部分があるから。(A)の部分を強調すると大潟村は今にも崩壊するのでないかと思われるが、一方(B)の部分は今にも御殿が立つのでないかとも思わせられる。(A)と(B)の全体を見ることで実像がつかめる。15haという器の大きさが農政の構造の悪さを克服させている面もあるしお化けにしている面もある。
 5ha増反にも稲を植えたい、だから認めよ。ここにはムラ意識が完成していないことの悩みがある。それ故ここに農政の矛盾を当てはめるよりムラ意識の完成で考えたほうが私には考えやすい。つまり大潟村は日本村からの分村(分家)であって、10haについてはすでに認知済み、ここでは5ha増反について分家が完了していないことの問題を露呈したのだといえる。
 
 (2)闇米からヤミ米(白昼公然米)へ
 1978年の青刈り反対闘争全面敗北後徐々に闇米は増えていった。その人数は1980年は5人、1981年47人、800tとうなぎ上りに増え闇米トン数まで注目を浴びるに至った。だがこの時点では「闇米」は「建前」と「本音」の関係にあった。生活を守るため必要悪として余計作らせてくれ。それは認めよう、ただみっともないから誰も見ていない闇夜にやってくれというのが、大潟村内の雰囲気であった。何しろ8.6haを守れば2000万円の粗収入。15ha全面積に米を作った場合3000万円の粗収入。これではヤミ米のオンパレードになる。この当時は闇の表現にも気を配った。闇米を「闇」米と書いた。そして闇米賛成をストレートに言わず同時に青刈り反対も唱えた。
 だが「青刈り反対」がずり落ち「ヤミ米賛成」の部分が前面に踊りだす時が来る。1985年佐々木知事が来村の時である。知事が来たのは73人までに増えたヤミ米の勢いを何とか止めたいと思ったからである。だが知事の思惑は外れる。知事が作付けは10haに固定する趣旨のことを言ったからである。説明会場はしらけた。そして一斉にムラの言葉が飛び出した。
 「過剰作付け者もいた。守った人もいた。転作を達成した。そのようにして今日を迎えた。あの人たち(73人のこと)危険覚悟でやってきた先人のようなものだから村内対立でなく、実を取ることを考えるべきだ」
 この時「闇米派」はヤミ米賛成の群れを利用して派閥を作った。とうぜん建前と本音の関係をひっくり返して本音丸出しなので倒錯した群れ派閥ができあがった。これでは日本村からの分村は望むべくもないであろう。倒錯したのは「強者の論理」を身に着けだしたからであった。ムラとはムラというベール(フイルター)に囲まれているようなものだ。農政の理不尽を見破るのは秩父一揆の時見せた大野苗吉の行動が参考になる。
 生産調整を遵守しようとする「順守派のムラ」と「倒錯したムラ」の戦いの中で倒錯したムラは食管法は不要と言い出したが、これはついに倒錯したムラが目先の利益しか目に入らなかったのでベールの囲いをほどくことができなかったからであろう。なんとも残念な話である。
 
 (3)背中をどんと押される
 私は大潟村がヤミ米のムラになったことに、違和感と「ただの村になったなあ」という感慨を抱き、自分の中にある古き良き大潟村と決別するため新聞に投稿し、2~3の先輩を訪ねた。新聞投稿は次の通りだ。「ただの村になった『モデル>村』」(さきがけ新報)、「ユートピア農村の堕落」(読売新聞)「大地に揺れる理念」(朝日新聞)、「『モデル村』に『むら』を見た」(河北新報)。大潟騒動に対する評価は三者三様だ。一人は73人は企業者集団を目指しているという。3人目は薄井清氏だ。同氏の和田伝『門と倉』評伝で、農地改革の最後のところはムラがやったという一文に打たれた。そこで町田在住の薄井氏に会いに行った。薄井氏の話はピタっと来るものがあった。曰く、
 「生れたのは企業集団などというみみっちいものではない。生まれたのはムラダだ」
 「大潟村にムラ意識が生まれつつあるとの視点大変重要なことです。その中に生きる者のお目でとらえ続ける必要があるのではないでしょうか。すごく期待しています。」
 「一般の農村では行われているが、ムラ意識は傷つき、病み、焼失しつつあります。今国家のひも付き村再編が行われているが、大潟村は逆のコースです。その意味でも貴兄の視点意味があります」
 この話に私は背中をどんと押された力強さを感じた。

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坂本進一郎【ムラの角から】

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