【童門冬二・小説 決断の時―歴史に学ぶ―】民のためなら不動も移動してくれる 水戸黄門と平賀秀一2019年9月20日
◆不在藩主光圀のおみやげは?
"水戸黄門"という名で大衆の間に変わらぬ人気を博している徳川光圀は、二代目の水戸(茨城県)藩主である。学問が深く、特に儒教のエキスパートだった。同じように、儒教を政治の足掛かりにしていた時の将軍(五代目)徳川綱吉は、同時代人である光圀を信頼し、常に自分の脇に居て、
「大名たちがいろいろ言って来るが、その当否を確かめてほしい」とブレーンとして扱った。そのため、光圀は藩主になってもなかなか領国に帰れなかった。子供の時から、後継ぎとして決められていたので江戸で住むことを義務付けられていたためもある。藩主になったのは三十歳を過ぎていたが、初めて綱吉に、
「領国の様子を見たいので、しばらく水戸に帰していただきたい」と願い出た。綱吉はやむを得ず承知した。水戸に戻った光圀は家臣たちを集め、
「長い間留守にして悪かった。藩政について忌憚のない意見を述べてほしい」と告げた。そして、
「まず、民は困っていることは何だろう」と訊いた。家老たちは、口を揃えて、
「水戸は海に近く、土の中に海水が沁(し)み込んでいるので飲み水に苦しんでおります」と答えた。光圀が、
「それは困るな。すぐ飲料水の準備をするように」と命じた。光圀にすれば、長い間不在藩主でいた自分の罪を贖うために、
「まず、新領主の土産として飲料水を提供しよう」と考えたのだ。飲料水を提供するというのは、即水道を引くということだ。そこで家老に命じ、
「この面について、知識と技術を持っている武士を推薦してくれ」と頼んだ。平賀秀一という武士が勧められた。光圀は平賀に、
「おまえに、新しい水道の敷設を命じる。良い水を得るために、良好の湧水を探してほしい」と頼んだ。平賀は、
「湧き水はすでに調査済みでございます」と言った。光圀は頬を緩ませ、
「それは手柄だ。何か支障があるのか?」と訊いた。平賀は頷いた。
「ございます。湧水の傍に笠原不動というのがございますが、領民の信仰が篤く地域一帯が聖地として尊ばれております。そのため、湧水を利用することは、不動のお怒りをもたらすと言われて住民たちも、近づきません。湧水は目下草ぼうぼうでございます」
◆お不動様に無理なお願い
光圀は無言になってしばらく考えた。やがて平賀にこう言った。
「お不動様にご動座願おう」
「は?」平賀だけでなく家老たちもビックリした。みんな顔を見合わせた。住民たちの信仰の篤いお不動様をどこか別な所へ移すなどというのはとんでもないことだ、という色が全員の表情にあった。光圀は穏やかな表情でこう言った。
「みんなも知っているとおり、お不動様の画像は怒りでいっぱいだ。それが迸ってお不動様の身の回りに炎となって立っている。あれはお不動様が民のことを心配し、その暮らしを妨げる悪に対する怒りなのだ。だから、お不動様が自分から民のための良い飲み水をもたらす水道の敷設の邪魔をなさるはずがない。もし、ご動座が嫌だとおっしゃるのなら、わしが頼んでみる」みんな笑った。お不動様に、自分が頼んでみるという光圀のユーモアが可笑しかったからだ。しかし、心の中では、
(新しいお殿様は勇気がある)と、みんな感心していた。一番胸を打たれたのは担当の平賀であった。平賀は数学・天文・地理などの大学者だった。したがって、人間の世の中における迷信が嫌いだった。笠原不動の脇にある湧水の優秀なことは誰もが知っている。しかしお不動様への信仰のために、湧水を利用することを控えて来た。誰もが、
「そんなことをしたら、お不動様がお怒りになる」と思っていたからだ。しかし、
「水道を造るためには、お不動様には他へ移っていただこう」
という光圀の決断に大きな勇気を得た。平賀は水道敷設に寝食を忘れた。夜も寝ずに、突貫工事を行った。周りの者が心配して、
「平賀さん、そんなに無理すると体を壊してしまう。それでは何にもならない。ほどほどになさい」と言ったが平賀は首を横に振った。
「水道のために、お不動様でさえ住む所を移してくださるのだ。寝てはいられぬ」と突っ張った。水道は、ただ湧水を引けばよいというものではない。引き方が問題だ。平賀はそのために、パイプ(菅)を利用した。湧水の良質さを保つために、円形の管を作り、しかも地下に埋設するようにした。他所の地域の水道は、ほとんどが地表を這うように設けられたが、平賀はこれを地中に埋めることによって、湧水の純粋さを保とうとしたのである。全長七キロに亘った。この暗渠の活用は画期的な工法であった。
今その時の功績を称えたり、あるいは菅の一部を保存して当時の歴史的遺産とする有名な「笠原水道」が完成した。"黄門漫遊記"で伝えられる光圀の善政は、こういう「笠原水道の敷設」などの、民の実生活に関わりを持った事柄が多いのである。光圀は旅などしたことはない。したくてもできなかった。しかし民を思うこういう政策が全国にひろまったのだ。
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