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【坂本進一郎・ムラの角から】第24回 「軽農」思想に迷い込んだ日本人2019年11月6日

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【坂本進一郎】

(1) 母なる大地観は健在か?

 「軽農」とは今日本で蔓延している農業を軽んじる気風のことである。江戸時代には農書全集が100種類も作られたという。江戸時代は農業を重んじる"重農"主義であったからである。何しろ徳川幕藩は鎖国をしていたので食料の輸入は考えられず、日本列島は食料の自給自足が必要であった。
 明治に入って日本は近代化を急いだ。ところが近代化の過程で農業は工業の踏み台にされた。その結果、戦前では秩父事件、戦後では水俣問題から始まって大潟村の青刈り騒動、三里塚問題、農業・農村の疲弊等々の問題が起こった。実はこれらの問題は個別に起きたように見えるが問題の発生源は一つ。近代化である。近代化を錦の御旗にしてしわ寄せしたため、個別の形をとりながら問題が噴出したのである。
 一方、かつての農村部では農地を三反歩でも五反歩でも所有し農業を営んでいれば、どんなに貧しくても食べていくことができた。それは土地には神通力があったからである。例えばミレーの絵画「落穂ひろい」にあるように、貧しい農民は地主の収穫あとの畑に落ちこぼれた「落ち穂」を拾う権利があった。また手間仕事を貰うことができた。
 私はそのような農村の生活を体験したことがある。即ち5歳の時満洲から仙台市郊外の母の実家に引き揚げてきて、7歳で仙台市内に引っ越すまで田植え、稲刈り、コメの脱穀の経験をした。脱穀といっても足踏み式脱穀である。脱穀を急いだのは早場米奨励金を貰うため真冬の2月ころ裸電球を屋根からつるし、そのもと脱穀を手伝わされたからである。また浜辺に炉漕ぎの船の引き上げを手伝いに行くと、帰りにザル一杯の魚を貰えた。これなどミレーの落穂ひろいの変形かもしれない。
 ムラの中は濃密な人間関係で満たされており、例えば親戚の誰かが仙台市内に用足しに行くときなど、「今日は何か用がありますか?」と声をかけてからいく。その表情は親愛に満ちており、満洲帰りの私のようなよそ者には親愛過剰とも思えてくる。親愛過剰の分人間関係はべとつくようにも感じる。実は、ムラは貧農にも食べさせる神通力、あるいは同じことだがムラ政府の自律性をもたらしたのは、大地がそれ自身から人間にとって価値あるものを生み出してくれたからである。その結果人々の農地への信仰、あるいは農地への信頼を得たのであった。
 「結」(ゆい=人間結合)も農地を結び目としていたが根っこには農地への信頼があった。つまり、前にも述べたように農地に信頼がおかれていた時の経済主体は「結」であった。今お金がすべての世の中になって、おおようさがなくなり「母なる大地」は死語に近い。それなら、今、経済主体と呼ばれるほどのものがあるのか。おかねがその代用をはたしているといっていいのだろうか。

 
(2)どこに行った農業・農民

 高度成長の時、農民は都市企業の労働力として滔滔と都市へ流れていった。その時の農村は低賃金労働者を送り込むためのさながら低賃金のプールであった。この結果、「農村・農民」はあたかも存在していないかのようであった。だがこの流民の風景は、強弱を織り交ぜながら、日本列島での日常茶飯事の出来事であった。
 だが―と言うべきか―それだからというべきか、「どっこい俺(農業・農民)はここにいるぞ、農業潰しはやめてくれ」と名乗りを上げた人がいた。『第二貧乏物語』で有名な河上肇だ。彼は「軽農思想」という直截な言葉を使っていない。が、農業潰しに異議申し立てをしたという点ではこの面での嚆矢(こうし)といっていいのだろう。
 実は自由化(思想)には農業を工業の踏み台にするため、「裏返し」機能がついて回る。それが「軽農思想」だ。つまり、近代化と軽農思想は対なのだ。昭和に入ってからの嚆矢は近藤康男著『高度経済成長と農業問題』(1973年)及び「桜井豊著『農業軽視への反論』(1973年)である。ところが不思議なことに高度経済成長で農工間格差のように国民経済に問題が出たのに、解説はあっても構造としての問題点をえぐった著書は少ない。骨太の論陣を張ったのは桜井豊の『農業軽視への反論』位だ。その代わり中曽根臨調の時、農業潰しの記者は有象無象私のところまで押しかけ、今から思うとあの時代は狂気の時代だったなと思う。
 「軽農思想」は反動として農本主義に行き着くかもしれない。逆に今の経済政策のように重工業優先に走るかもしれない。しかし私はその道を取らない。「農業」も「重工業」も国民経済の健全な一員として発展することが望ましいからである。

 
(3)「軽農思想」の旗振り役

 「軽農思想」は一朝一夕に日本列島に広がったわけではない。とはいえ中曽根首相の中曽根臨調は乱暴だ。中曽根首相はレーガン大統領が経済政策の失敗から貿易赤字を作ったのを見て、アメリカへの日本の貿易黒字をなくせばいいと思いつく。そこで中曽根はレーガンの気持ちを忖度(そんたく)したのか、前日銀総裁の前川春雄氏を座長に据え、「国際協調のための經濟構造調整研究会報告書」(通称前川レポート、61年4月)を国内外に発表した。ここから疾風怒濤のごとき農業たたきが始まったのである。前川レポートはアメリカから農産物をどんどん輸入してアメリカの貿易赤字解消の一助に役立てようという組み立てだから、日本国内のコメ自由化も中曽根権力のお墨付きをもらったようなものであった。
 桜井豊著『農業攻撃を正確に裁く』では農業潰し(軽農思想)の経緯を克明に描いている。わたくしも紙幅があれば、「軽農」騎手の名前とその文章名を紹介したいがそれはできない。その代わり中曽根臨調の中心人物は中曾根首相で企画、統括は瀬島龍三元関東軍参謀。(彼は中曾根のブレーンで農業潰しの参謀は適任かもしれない。)宣伝隊長は慶応大学経済学部加藤寛教授。これらの人を紹介しておく。宣伝部員の叶芳和と土門剛とはかつて論争したことがあり、今のさびれた農村をどう思っているのか、聞いてみたい。

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