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【酒井惇一・昔の農村・今の世の中】第86回 動力脱穀機と戦前の機械化2020年2月6日

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【酒井惇一・東北大学名誉教授】

 動力籾摺機とほぼ同じころ、昭和初頭に動力脱穀機が開発され、普及するようになったのだが、私の生家の脱穀機導入はかなり遅かった。周辺の農家もそうだった。

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 しかも籾摺機と違って個別所有だった。脱穀の適期は短くて機械利用が競合するので、籾摺機のような持ち回り利用は難かしかったからなのだろう。また、脱穀機の方が相対的に安価だったので個人でも購入できたということもあったろう。

 生家の導入した脱穀機は電動だったので、電気の通じている家でしか使えず、だから脱穀は足踏み脱穀機導入以前のように屋敷内の作業小屋でやるようになった。「千歯扱き」時代に戻ったわけだが、田んぼでの脱穀作業のように天候には左右されなくなったことになる。

 棒掛けした稲がほぼ乾燥し終わった頃の天気の良い日、田んぼに行って稲杭から稲束を降ろし、それをさらに大きく束ね、牛車や大八車、リヤカーなどに山のようにうずたかく積み重ねて家の小屋に運ぶ。朝露の乾く時間から夜暗くなるまで、それを何度も繰り返す。

 この時期は日暮れが早い。すぐ暗くなる。それで一日に運ぶ回数はどうしても少なくなる。しかも晴れた日でないと運べない。また、本格的な冬の前触れの秋の長雨が来る前に終わらさなければならない。

 何日かかけて稲束が小屋に山のように積み重ねられたころ、足踏み脱穀機を大型化したような脱穀機を小屋の戸口の前に据え付ける。それから3~4mくらい離れたところにモーター(電動機)をおく。そしてそのモーターのわきについている直径20cmくらいの鉄製の回転軸とそれを軸として囲んでいる小さな車輪に、長いゴム製の輪(ベルト)をかけ、さらにそのベルトを脱穀機のわきについている同じく鉄製の車輪にまたかけてモーターと脱穀機をつなぐ。この準備が終わるとモーターについている電線を伸ばし、その先頭にある挿し込みをコンセントに挿し込む。するとモーターの動輪が回転し始め、それがベルトを回して脱穀機の車輪を回転させ、さらにそれが脱穀機の回転胴を回転させる。そこに扱き手(私の生家では父だった)が稲束を突っ込むと、回転胴についている金具が稲束から籾米を叩き落とす。同時にそのさい起きる風の勢いで稲わらのごみ等を開いている戸口から屋外に吹き飛ばす。籾摺り機と違ってすさまじく大きな音がし、人の声は聞こえないほどだ。

 これを繰り返すのだが、小屋の外に吹き飛ばされた藁屑や籾殻のこまかく塵状になったゴミが舞い飛び、働いている人はほこりだらけになる。このほこりが皮膚にさわると痛い。籾の野毛(芒)がとれていっしょに舞い飛ぶからだ。だから籾摺りが終わるとみんな風呂に入って流し、それから夕食だ。

 隣近所にもそれが飛んで行くが、屋敷地が広いのでたいしたことはない。ただし音はうるさい。でもまわりも同じ農家だし、農家でなくともそうしたことはお互いさまだと思っている。しかも電動で能力が高いから脱穀の日数もそんなにかからない。それで近所からの文句も出ない。


 このように動力脱穀機は、モーター、ベルト、脱穀機、この三つから成り立っていた。

 だから、機械とは原動機、伝導装置(伝導機と習ったような気がするのだが、これが正しいらしい)、作業機の三つの部分から成ると中学で習ったときはすぐに理解できた。モーターが原動機、ベルト・回転軸・車輪などが伝導装置、それで動かされる脱穀機が作業機と、見てすぐにわかるからである。まさに動力脱穀機は機械だった。ということは脱穀作業が機械化されたことを示す。つまり、水の流れという自然界のエネルギーを電気エネルギーに変え(つまり発電し)、さらにそれをモーターで機械を動かすエネルギーに変え、それをベルトを通じて脱穀機に伝え、脱穀がなされるようになったのである。その結果脱穀作業の能率は人間の脚力に制約されることがなくなったので非常に高まった。


 といっても個人で所有できない小規模農家もあり、そうした農家は従来通り足踏み脱穀機で脱穀していたが、なかには脱穀機を所有している農家に脱穀作業を委託する農家もあった。生家の例で言えば、委託農家の家の小屋に機械を持って行って籾摺りをしてやり、その代償として稲刈りや田植えの時に労働を提供してもらっていた。


 昭和戦前から始まるこの動力脱穀機、動力籾摺機、動力精米機の導入はまさに日本の農業機械化の始まりだった。しかしこれはすべて脱穀調整にかかわるものだった。そして耕起・代掻き、田植え、除草、稲刈り等の本来的な作業工程、もっとも苦役的であった労働過程の機械化は進まなかった。

 その理由の一つに、脱穀・籾摺り・精米等の作業は、耕起代掻き・田植え・除草・稲刈り等の作業のような水田での移動作業ではないので、機械を固定して利用することが可能であるために田んぼを移動するための機械と実際に作業をする機械との双方を装備する必要もなく、そのことが機械化を相対的に容易にしたということがある。


 そして、農家の苦役的な労働を軽減し、砕け米をなくしたり、適期作業を可能にしたりする等で収量を高める。当然それは機械導入に踏み切らせる。しかし、機械購入費や電気・石油代などは、収量の半分近くの小作料を差し引いた残り少ない収入から支払うのは容易ではない。だから購入して利用するなどは難しい。しかし、米を有利に販売したい地主や商人はその購入を強要する。それに応じなければ小作地を取り上げられる。それでやむを得ず購入せざるを得なくなる。

 つまり戦前の機械化は、農業労働を軽減するためのもの、農家の所得を高めるためのものではなく、米を有利に販売したい地主や商人のためのもので、半ば強要されたものだったのである。


 こうした限界はあるが、農家の苦役的な労働を軽減し、砕け米をなくしたり、適期作業を可能にしたりする等で収量を高めるという面では大きな進歩であり、戦後の本来の基幹的な労働過程の機械化に進む序章として高く評価できると私は考えている。



そのほか、本コラムの記事一覧は下記リンクよりご覧下さい。

酒井惇一(東北大学名誉教授)のコラム【昔の農村・今の世の中】

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