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天下人3人の農民観【童門冬二・小説 決断の時―歴史に学ぶ―】2020年6月18日

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天下人3人の農民観

戦国時代末期に、今の愛知県は三人の天下人を出した。当時の制度では、愛知県は二つの国成立していた。尾張国と三河国だ。印象で国柄を定めるのはよくないが、許してもらえるなら、どちらかといえば尾張国は都会的、三河国は農村的な印象が強い。
三人の天下人というのは織田信長・豊臣秀吉・徳川家康だが、それぞれの性格を見ても、信長・秀吉は都会的であり、家康は農民的だ。信長・秀吉は尾張国の出身であり家康は三河国の出身だ。
しかもそれでは領内の農民に対してどんな態度、扱いをしていたかと言えば、三人三様で、それも複雑だ。一番明確で分かりやすいのは信長だ。こんなエピソードが残されている。

信長の農民観
ある時信長は合戦にでかけた。領内の畑地へくると、小春日和の暖かさもあって、一人の農民があおむけになり,グウグウいびきをかいて昼寝をしていた。供をしていた信長の家臣がこれをみて怒った。
「お館(信長)。領主がこやつらのために合戦に行くというのに、こいつは昼間からいびきをかいて寝ております。けしからん奴です。見せしめに叩き切りましょう!」
これを聞いた信長は笑った。
「やめろ」
「なぜですか」
「おれはこういう光景をみるのが大好きだからだ」そういって信長は部下全員に告げた。「皆も聞け、おれが合戦に赴くのはこいつらのためだ。こいつらに昼間からいびきをかかせるためだ。おれはそういう国をつくりたいのだ」。クールで非情な戦法を取り込〝合戦の天才〟だといわれた信長は、実はこういうヒューマニズムを心のそこにひそませていた。庶民の間に伝わる伝承だが、私は本当だと思っている。尾張国に伝わってきた〝あゆち思想〟(一種のユートピア思想。愛知県の県名の由来だといわれる)〟を、全国に及ぼそうとしたのが信長の天下人構想であり、そのため合戦の近代化・OA化だったと思うからだ。私の信長ファンの現認はこのエピソードにある。

秀吉の農民観
自身が尾張国内中村(名古屋市中村区)の出身だけに。ゴボウを愛し、「これがおれの初心、原点だ。ゴボウにおれが生まれ育った農村の、百姓たちの汗と涙がこもっている。どんなに偉くなっても、それを忘れたら、おれは人非人(ひとでなし)だ」
と語るのが、あるころまでの秀吉の人生信条だった。途中からガラリ変わった。特に天下人の関白太政大臣になってからのかれは、誰もやったことのない農民扱いを始めた。 
人権がまだ社会問題になっていたわけではないが、このころの農民は(商人も)、刀を差し馬にも乗っていた。生活用具での差別はない。関白になり立ての秀吉は北野(京都市)で大茶会を開いた。この時、輿(こし)に乗った秀吉は大声で沿道の見物人に呼びかけた。
「皆の衆、欠けた茶碗でもきびしょ(急須)でも持っていたら、それを持って北野のおいで。皆で茶を飲もう!」
この時の秀吉の心には、あきらかに「おれの原点はゴボウだ」という初心がのこっている。それが晩年の〝醍醐の花見〟になると全く様相が変わる。参加者は有力大名や商人だけ。沿道には警備兵がズラリと並び、蟻の入り込む余地もない。泥だらけの農民などすぐ摘えられる。
農民はすでに馬に乗れない。禁止されていた。刀も差せない。供出させられていた(刀狩り)。鉄砲も持てない。取り上げられていた。
「武器は武士以外持ってはならない」
という禁令が出され、集められて武器は熱が加えられて溶かされた。秀吉はこれで大きな大仏を造った。農民に告げた。
「刀や槍、鉄砲は昨日まではおまえたちの生命を守った。今日からは仏となっておまえたちに富を与えてくれる」
子供騙しの大嘘だ。子供のころから農民経験の長い秀吉は、農民生活の辛さ苦しさを身に染みて体感していた。理不尽な扱いをしたときに権力に対して起こす一揆の正当性とその強さも知っていた。秀吉にとって農民は〝愛すべき存在〟から〝怖るべき存在〟に変わっていた。欠けた茶碗やきびしょで仲良く茶を飲んだ仲間も、いまはいつ自分を襲うかわからない巨大な凶器にみえた。〝刀狩り〟は秀吉の農民への疑惑と恐怖から起こった、反動的政策だった。見捨てられた泥だらけのゴボウは、よよと泣き崩れた。

家康の農民観
「百姓は生きぬように死なぬように」
有名なこの〝百姓ナマ殺し〟の政策の発想者は、徳川家康とも、あるいは家康の謀臣だっ本多正信だとも伝えられている。が、どっちにせよその方針が徳川時代一貫して貫かれたのは事実だ。士農工商の区分に二位にランクされたのは、「国家(幕府)財政の主税担当者」としての位置を、表向き尊重してのことだったのだろうか。
家康の幕府組織の組み立ては〝庄屋仕立て〟といわれる。農村の管理体制をそのまま持ち込んでいるからだ。村の運営を合議に決定する庄屋メンバーを〝年寄〟と呼び、家康はそのまま持ち込んだ。幕府の最高幹部は〝年寄〟と呼ばれ、のちに「老中」になる。三河国生まれの家康は〝愛民〟以前に、自身の中に農民性を感じ取っていたのだろう。だから、「生きぬように」の扱いも、実は家康の「自己規制方針ではなかったのか」という思いが、いま頻りにしてならない。

 

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童門冬二(歴史作家)のコラム【小説 決断の時―歴史に学ぶ―】

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