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敗戦直後の学校給食(2)【酒井惇一・昔の農村・今の世の中】第107回2020年7月16日

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【酒井惇一・東北大学名誉教授】

昔の農村今の世の中サムネイル・本文

小学六年になった翌昭和22年、私の通っていた学校の移転等があって給食は一時中止、秋遅くから復活した。今度は私も食べないわけにはいかなかった、担任の先生が変わり、前年の事件のことを知らないからである。それでまた給食の日にはジュラルミンのお椀をもって登校するようになった。

給食に出てきたのは真っ白い汁(脱脂粉乳を溶かした汁だということを後で知った)に適当にぶった切った野菜(乾燥野菜をもどしたものも中に入っていたらしい)や前回言ったサイコロのような肉の塊(米軍払い下げの缶詰の肉と聞いた)、さらに茶色の細い繊維(肉らしい、後で知った馬肉コンビーフの色と味が似ているようなのでそれではないだろうか)が浮かんでいる。やはり油も浮いている(肉の脂かと思ったら食用油だと友だちは言う)。ともかくよくわからない食べ物である。これは「シチュー」ということだったらしい(そんな名前は当時は聞いたこともなかったが)。塩味もあまりなく、だからといって甘くもなく、何ともいえない奇妙な、変な味である。何かわからないにおいもする。それが毎回出される。

とてもじゃないけど食えたものではない。弁当のご飯のおかずになどなるわけはない。これは私だけではなかった、みんなそうだった。どう処理するか困った、ともかくむりやり喉に流し込む。吐き気さえする。週二回だった(と思う)けどまさに苦行だった。

ある雪の日のことである、いいことに気がついた、グランドに積もっている雪の中に埋めれば誰にも見つからず、怒られないですむ。土を掘るのと違って雪を掘るのは楽なもんだ。そこで友だち7~8人といっしょに便所バケツをもってきてそれに給食を捨て、グランドにこっそり運び、雪を手で掘ってその中に埋めた。これでうまくいった、みんなほっとして気分よくその日の授業を終えようとした、そのときである、誰が告げ口したのか、担任の先生の知るところとなった。先生はすさまじく怒った。そして雪に埋もれた給食を便所バケツに戻させ、それを食べろ、そしたら許すと言う。しかしそんなもの食えるわけはない。それではその代わりの罰だとして私たちは一列に並ばされた。先生は一人ずつほっぺたを平手で思いっきりなぐった。そのときの先生の顔は初めて見る怖い顔だった。痛かった、すさまじく痛かった。私は鼻血が出た。

でも、私は先生を恨むことはできなかった。戦後1年半経ってようやく南方の島の戦地から引き揚げてきた先生は最初私たちの教室に来た時骨と皮ばかりという感じだった。戦場でかなり飢えに苦しんだのではなかろうか。そして飢えて死んでいく戦友を何人も見送ったのではなかろうか(絶対に戦地のことは話さなかったが)。その大事な食料をまずいからと言って捨てる、先生としては許せなかったのだろう。それが何となくわかった。だから私はその体罰を今でも受け入れている。

といってもあの給食だけはどうしても好きになれず、給食の時間は苦痛の時間でしかなかった。給食は私にとっては体罰であり、それがその後も続いたのである。といっても、中学では給食がなかったので、私たちの給食はその後卒業までの2ヶ月くらいで終わり、これで無罪放免、本当に助かった。

しかし、私の弟妹たちは相変わらずその苦行が続いた。ある日、真っ赤なドロドロしたものが給食に出た、まずくて食えなかった、むりやり喉に流し込ん、泣きたくなったという。後でわかったのだが、それはトマトケチャップ(生まれて初めての)だった。牛乳が出たが、いつも飲む牛乳とはまるっきり違う、まずくて飲めないともぼやいていた。干しぶどうだけが出されることもあり、当然ご飯のおかずになどなるわけがなく、それ以来干しぶどうは食べなくなった(大人になってもだった)弟もいた。ともかく給食は子どもたちにとって「苦行」だった。

なぜあんなものをむりやり食べさせられたのかわからない。そしてこんなものは食えたものではない、それを強制するのは教育上よろしくないと先生方が行政に向かってなぜ言ってくれなかったのかわからない。上意下達の教育者として育成された教師だったから、お上ましてやその上の米軍のいうことには従うしかない、生徒は言うことを聞かせるべきもの、生徒の言うことを聞くような教師ではだめだという戦前の教師意識がまだ残っていたからなのだろうか。

父兄もこんなものを食べさせないでとどうして言ってくれなかったのだろうか。当時は食糧不足、食うや食わずの時代、どんな給食でも食べさせてもらえるだけでいいということだったのかもしれない。しかも文明国アメリカが恵んでくれたもの、まずいわけはない、馴れないだけだろう、いずれにせよアメリカは優れている、バンと牛乳の「洋食」を食べなければアメリカ人のような文明人にはなれない、感謝こそすれまずいなどと言ってはならない、それはぜいたくというもの、ということだったのかもしれない。

こうして戦後日本の食糧危機を契機に始まった戦後の学校給食、これはアメリカの過剰となりつつある農産物を消化する上で、さらにその消費を増やしていく上で最良の手段ということがわかってくるなかで、完全給食制度をつくらされ(1950年)、小麦と脱脂粉乳を中心とする本格的な給食(完全給食)が徐々に全国的に実施されるようになっていった。

前回本稿に登場いただいたOKさんはそれ以降の時代の学校給食体験者ということになるが、その完全給食の全国展開の主目的は「食生活の向上」を名目にしたアメリカ余剰農産物の処理だった。そしてアメリカ文化崇拝に傾斜していた消費者=父兄の支持を得てパンを食わせ、まずい脱脂粉乳を飲ませてきた。そしてこの給食がOKさんの言うように日本人の食生活を変え、日本農業を衰退させる大きな原因となったのである。

70年代後半に小学校時代を送った私の子どもたちは、まずいパンをいかに先生に見つからずにランドセルに入れて持ち帰って捨てるか苦労した。通学路に面している家の犬がそのパンを待ちわびていて、帰りに食べさせてくるのが日課になっていた。

やがてこうした給食に対する反対運動が展開されるようになり、生乳とご飯が学校給食に取り入れられるようになった。時すでに遅しの感はあったが、子どもたちには喜ばれた。そのことについてはまた後で述べることにし、次回からはまた戦後10年過ぎた頃の農業、農村の話に戻らせていただく。

酒井惇一(東北大学名誉教授)のコラム【昔の農村・今の世の中】

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