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機械による耕起の始まり【酒井惇一・昔の農村・今の世の中】第108回2020年7月23日

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【酒井惇一・東北大学名誉教授】

話はまた1950年代の農業の話に戻るが、前に述べた雪国の水田二毛作と同様に、誘蛾灯の灯も幻のように消えてしまった。誘蛾灯に集まってくる虫がその設置場所の近くの水田に群がり集まって大きな被害を与えるので、50年代半ばには見られなくなってしまったのである(農薬の普及もこれに関連しているのだが、このことについてはまた後で述べたい)。

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誘蛾灯という形での農業の電化はこうして短時間で終わったのだか、脱穀機、籾摺機、縄綯機の電化は急速に普及した(前に述べたようにこの時期にいまだに電気の通っていない村もこの日本にあったのだが)。戦後は米不足の時代、とくに端境期の米不足が深刻であり、早場米奨励金も出ていたので、なるべく早く出荷しようとポストハーベスト(収穫後)の機械化が進み、また戦後の生産生活資材不足の中での縄の需要の増大が縄綯いの電化を進めたのである。ただしこれらの機械化は戦前からの延長戦上にあったものであり、増収に直接結びつくものではなかった。

それと質的に異なるのが、1950年ころから導入され始めた「動力耕耘(こううん)機」だった。これは本来的な農作業での機械化の第一歩であった。
雪が消えてから田植えまでの限られた期間に耕起・砕土・代掻き、それに苗代等の作業を終わらさなければならない、だから牛馬耕のころは一刻でも早く作業を終わらそうと人間も牛馬も気が立っていた。
しかし、あちこちの田んぼに点在している牛や馬の姿は遠くから見ると何とも静かなのんびりした風景をつくっていた。

こうした春の風景は50年代半ば過ぎから徐々に変わってきた。耕起・砕土・代掻きが畜力から機械力に完全に移行したからである。そして耕耘機のエンジンの音が何とも小忙しく田んぼに響くようになった。
当然耕耘機は牛馬耕よりも深く耕すことを可能にする。この深耕も60年代の耕耘機導入と反収上昇の一要因となった。
この耕耘機は西欧のトラクターに匹敵するものだったと私は思う。畑と違い、水田という特殊な圃場、つまり乾いていれば固く、水分があればぬかる土壌を耕起する機械となれば、相当の軽量でしかも馬力がなければならないし、鋤先や機械全体の形状に工夫をしなければならない。畑地用のトラクターのように簡単ではない。そうした問題を解決した耕耘機が開発され、普及したのである。これは高く評価されよう。
とは言っても、米価が低い、小作料が高いとなれば、そして耕運機の価格が性能に比較して高ければ、さらには雇用した方が安上がりだとなれば、農家は購入できないし、しない。戦前に開発された耕運機が普及しなかったのはそこに大きな原因があった。ところが戦後は、小作料はなくなり、米不足のなか米価は相対的に高く、耕運機の価格も軍需産業から平和産業への機械工業の転換にともなう技術革新(耕運機に関して言えば空冷エンジンの導入)等で性能はよくて価格も相対的に安くなり、導入が可能になったのである。

50年代初頭、私の生家の近所でも耕運機を導入する農家が出てきた。しかし私の父は入れようとはしなかった。当初持ち込まれた耕運機はスクリュー式、あれでは単に耕土をかき回すだけ、天地返しもできないので収量はあがらない、だからあれはだめだというのである。それから2~3年してそうした問題を解決したというロータリー式(複数の爪が回転して土を掘り起こし細かく砕く)耕運機が普及してきた。それで私の生家も耕運機を導入した。
これでかなり労働は楽になったが、歩行型であるためにまだ大変であり、牛馬耕ほどではないがその操作は難しかった。曲がらずにまっすぐ、耕起し残しのないように、しかも歩きながら重い機械(当時はかなり大きく、重かった)を操作するのにはかなりの熟練が必要とされた。とくに大変だったのがUターンだった。
大学に入ったばかりのころだと思うが、何とか操作できるようになって水田の耕起をしていた。ところが大失敗してしまった。Uターンのときちょっとブレーキのかけ方が遅れ、あぜ道に乗り上げてしまったのである。もとに戻そうとしても重くてうまく動かない。そのうちひっくり返ってしまった。たまたまそのとき私一人で作業をしていたので、困ってしまった。一人では重くてもとに戻せない。困っていたら、近くで作業をしていた近所の農家の人が助けに来ていっしょに持ち上げてくれ、ようやく直すことができた。

やがて耕耘機はさらに性能がよくなり、価格も相対的に安くなり、小区画に対応できる小型の耕耘機もできた。しかもそれは深耕と適期作業を可能にし、多収にもつながる。
さらに耕運機は、牽引車として運搬用に使うこともできる。耕運機の後ろにリヤカーをつなぎ、収穫物等を積んでトラック代わりに使う、家族を乗せて乗用車かわりに使う、そして田畑のなかの未舗装のでこぼこ道路をエンジンの音を高く響かせながら、乗っているみんな向かい風を受けながら、のんびりゆっくり走り歩く。この姿は新しい農村風景として当時よく写真や映画に撮られたものだった。
それで1960年ころには全国に普及した。でも耕耘機操作の熟練は結局私の身に付かなかった。短期間でこの耕耘機段階は終わってしまったからである。

しかし、この耕運機の普及は後のトラクター段階への移行をきわめて容易にしたものであり、わが国の本格的な農業機械化の先駆けとなったものであり、高く評価できると私は考えている。さらに耕運機は60年代から始まる農村の車社会化の先駆けともなった。

しかし、もう一方でそれは役畜飼育の減少、無畜農家の増加、畜産と耕種の分離につながるという問題をもっていた。それを解決すべく行政や普及の推奨していた「有畜経営」化に取り組み始めたのだが、やがてそれは農基法農政と化学化・兼業化の進展で大きく変貌することになるのである。

酒井惇一(東北大学名誉教授)のコラム【昔の農村・今の世の中】

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